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春を謳う  作者: 葵
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未知を追う

ハルナが2歳を迎えてからしばらく経った頃。

オルランドは日々の記録を整理する中で、ふと眉をひそめた。


「……おかしいな」


2歳といえば、駄々をこね、我を張り、周囲を困らせる年頃。

貴族の子女であれば、そこに教育やしつけが加わり、さらに「わがまま」が表に出やすくなる。

度を越こすわがままや命令も覚悟をしていたが……

ハルナにはそれが一切なかった。

他にもハルナから何かしたいと言うこともあまりみられなかった。


オルランドの脳裏に浮かぶのは「良い子」という言葉。

しかし同時に、何か大切な“欠落”を見ているような、不安が拭えなかった。


「……自己主張の兆しが、ない」

記録帳に書き込みながら、オルランドは低く呟いた。


例えば先日の夕食時

長いテーブルの上には、白いクロスの上に所狭しと皿が並んでいた。

黄金色のスープは湯気を立て、焼きたてのパンは香ばしい匂いを漂わせる。


今日の食卓は、香ばしく焼かれたハンバーグが主役だった。

肉汁が溢れる厚みのある一皿の横には、付け合わせのソテー野菜。

ピーマンと人参が彩りよく盛られ、スープ皿からはやさしい香りが立ちのぼっている。

鮮やかな緑と橙が、子どもには少し強い匂いを放っていた。


ハルナは小さな椅子に座り、皿をじっと見つめていた。

鼻先がひくりと動き、わずかに眉が寄る。

――どうやら、付け合わせの野菜の匂いに気づいたようだ。


しかし、そこで「いや」と首を振ることも、皿を押しのけることもなかった。

彼女は黙ってフォークを持ち直し、小さく一切れを口に運ぶ。

その表情にほんの僅かな苦みが走ったが、声を上げることはなく、やがて黙々と食べ終えてしまった。


その様子を見ていたルカは、安堵したように微笑んだ。

「……やっぱりハルナ様は、いい子ですね」


けれどオルランドは、記録帳にさらさらと文字を刻みながら、わずかに目を細める。

「“良い子”……か。だが、あまりに静かすぎる」


数日後。

その日は来客の予定があり、書庫は一時的に閉じられていた。


「姫様、本日は書庫へは行けません」

オルランドが静かに告げると、ハルナは小さく瞬きをしただけだった。


しばし扉を見上げていたが、やがて小さく頷き、ふらりと踵を返す。

駄々をこねることも、不満を口にすることもなく

――まるで当然のことを受け入れるかのように。


その様子を後ろから見ていたグレンが、ぽりぽりと頭をかきながら声を漏らす。

「……なぁ、オルランド。二歳って、もっとこう……“いやだ!”って暴れるもんじゃねぇのか?」


「その通りだ」

オルランドは短く答え、眉をひそめた。

「本来なら、好奇心と我をぶつけ、時に周囲を困らせる。それが自然な姿だ。だが――」


視線の先では、ハルナがエーデリアに手を引かれ、静かに自室へ戻っていく。

扉を振り返ることもなく。


「ハルナ様にはそれが見られない」

オルランドの声には硬さが混じる。

「求めることを言葉にせず、与えられたものだけを受け入れている……」


「……いい子って言やぁ聞こえはいいが」

グレンは腕を組み、低く唸った。

「なんだか、不思議だな。まるで、怒ることも泣くことも、最初から知らねぇみたいに見える」


オルランドは返す言葉を失い、ただ記録帳にさらさらと文字を刻んだ。

静かな足音と共に遠ざかる小さな背中が、その紙面に重く残っていた。


薬草園の奥。

ひらひらと舞う蝶を追いかけて、ハルナは小さな足でとことこ歩いていった。

その蝶が誘うように羽ばたき、向かった先は……

普段は近づかない、毒草が植えられた一角。

細い杭と縄で区切られ、「ここから先は立ち入るな」と無言で告げている場所だった。


「――姫!」


普段、穏やかな調子を崩さぬ薬師シオンが、思わず声を張り上げた。

その響きに、ハルナの小さな肩がびくりと震え、足が止まる。


「っ、ハルナ様!」

ルカが慌てて駆け寄り、両手を広げるようにして前に立ちはだかった。

だが、振り返った瞳は怯えるでも泣き出すでもなく、ただ一瞬大きく見開かれて、やがてハルナは小さく頭を下げた。


「……ごめんなさい」


掠れる声。

それだけを告げると、蝶を追うのをやめ、ルカの手に導かれて素直に戻っていった。


シオンは深く息を吐き、額に手を当てる。

「……やれやれ、驚かせてしまったね。だが、あそこに近づけば危なかったんだ」


ルカは胸を押さえ、安堵の吐息をもらす。

「本当に……一瞬、心臓が止まるかと思いました。ハルナ様申し訳ありません」

と謝罪するルカにハルナは怒るも泣くもせずフルフルと首を横に振る。

まるで自分が悪かったのだと言うように。


そのやり取りを少し離れた場所から見ていたオルランドは、記録帳を閉じながら目を細めた。

蝶を追ったのは子どもらしい好奇心。

だが叱られた瞬間、泣き出すことも駄々をこねることもなく、ただ謝罪して引き下がる。


「……やはり、自己主張の兆しがない」


低く呟いた言葉は、薬草園を渡る風に溶けていった。


ーーーーー


夜。クラウスの執務室。

燭台の炎が机の上に揺れ、分厚い書簡を照らしていた。


オルランドは記録帳を脇に置き、姿勢を正す。

報告は日課であり、彼にとっては呼吸のようなものだった。

だが、その声には珍しく微かな不安が滲み出ていた。


「……本日の出来事です。ハルナ様は薬草園にて蝶を追われ、立入禁止の区画に近づかれました。……シオンが制止し、事なきを得ました」


クラウスは手を止め、静かに視線を向ける。

「……それで、泣かれたか」


「……いいえ」

オルランドは短く答え、わずかに眉を寄せた。

「怯えるでもなく、駄々をこねるでもなく……ただ一言、“ごめんなさい”と謝罪され、それで素直に従者のもとへ戻られました」


クラウスの眼差しが深くなる。


「二歳というのは、駄々をこね、声を張り上げる時期。……ですが、ハルナ様にはその兆しが見られません」

オルランドは記録帳を閉じ、低く告げた。

「良い子と言えばそうですが……私はむしろ、“危うい”と感じます」


しばし沈黙。

やがてクラウスは机上の書簡を重ね、低く言った。


「……あの子が泣かぬのは、生まれ持った気質かもしれん。だが“ごめんなさい”を言えるなら、決して欠けているわけではない」


炎に照らされた横顔には揺るぎない確信と、同時に深い思案の影があった。


「……見守り続けろ、オルランド。あの子が言葉を選ばぬまま沈黙するようなら、その時こそ危うい」


「承知いたしました」

オルランドは静かに頭を垂れた。


報告は終わったはずなのに、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。

ハルナが見せる静けさは、果たして“強さ”なのか、“欠落”なのか。

その答えは、まだ記録には刻めないままだった。


夜の書庫。

早めに執務を切り上げたクラウスは、オルランドにハルナの居場所を尋ねた。

「……書庫にて本を読まれております」

そう聞いた彼は、迷わず足を運んだ。


重い扉を押し開けると、静謐な空気の中に一人、険しい表情で立つエーデリアの姿があった。


「ご苦労だったな」

クラウスが労いの声をかけると、エーデリアはすぐに背を伸ばし、深く礼をした。

「……はい」

その声音には、どこか張り詰めたものが滲んでいた。


視線を奥へ向けると、机にちょこんと腰かけ、本を広げている小さな背中が見えた。

頁に指を添え、夢中で眺める幼い娘。


クラウスは静かに近づき、背後から覗き込む。

そこに並んでいた挿絵は――牙を剥いた竜、羽の生えた白兎、異様に大きな体躯を持つリス。

現実では見たことのない魔獣の数々だった。


エーデリアの険しい顔の理由に、クラウスは胸の内で小さく頷く。

だが同時に、頁をなぞる小さな指と、楽しげに輝く瞳が目に映り、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。


「……難しい本を読んでいるな、ハルナ」

声をかけると、ぱちりと瞳が上がり、ハルナはにこっと笑った。


その笑顔に導かれるように、クラウスは隣の椅子に腰を下ろした。

机上の挿絵には、光の粒を纏う妖精や、山を覆うほど巨大な竜の影。


ハルナは竜の挿絵を指でとん、と叩き、首をかしげながらクラウスを見上げた。

言葉にはならない。

けれど「これは?」と問いかけているのは明らかだった。


クラウスは小さく息をつき、静かに答える。

「……父は見たことはない。だが、王宮では“いる”とされているんだ」


ハルナはふうん、とでも言うように瞬きをして、また頁へ視線を落とした。


否定はできない。

実際に目にしたわけではなくとも、国の中枢では“存在するもの”として扱われている。


ハルナはその言葉に満足げに頷き、再び頁をめくった。

羽を持つ兎の絵を指でなぞり、楽しそうに微笑む。


クラウスは隣でその姿を見守りながら、胸の奥に微かな思いを抱いていた。

――あの子が選ぶものは、常に未知と隣り合わせだ。

恐れよりも、まず心惹かれる方へ。


その無垢な指先が触れるのは、ただの絵か、それとも未来の予兆か。

答えはまだ誰にも分からなかった。


夜の書庫に揺れる灯火が、幼い背をやさしく照らしていた

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