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春を謳う  作者: 葵
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嘘か真か

ハルナの絵本好きは日ごとに深まっていった。

厚紙に描かれた鳥や花ではもう足りないのか、気づけば同じ絵本を何度も繰り返し開いている。

従者が絵本を差し出せば小さな膝を抱き、朗読が始まるとまるで音の一つひとつを心に刻むようにじっと耳を傾けた。

同じ頁でも、幾度も瞬きを繰り返し、一人のときは絵の隅々まで視線を滑らせる。


やがてルカはクラウス報告の折、決意をこめて言った。

「……ハルナ様は、もう部屋の本では足りないようです。気づけば書庫の前にじっと座り、開かれるのを待っておられるのです」


クラウスは静かに目を伏せたのち、短く頷いた。

「……あの子が望むのなら、書庫の扉を開けよう。ただし、必ず誰かが傍につくこと、ハルナより背の高い本棚の本を取る時は必ず側にいる者が取ること」


こうして書庫は、まだ幼い主に解放された。

ハルナは相変わらず絵本を抱いては微笑んでいたが、その小さな指は、いつしか薬草学や獣の図鑑、簡易な天文書といった専門書にも伸びていった。

文字の意味はまだわからない。

けれど、挿絵や図を見つめるまなざしは真剣で、花の根の絵をなぞっては鼻をすんと鳴らし、空の図を追っては大きな瞳を瞬かせる。


「……おい。あれは子ども向けじゃないだろ」

グレンが慌てて立ち上がり、眉をひそめてエーデリアに目をやった。


「だが、見ろ」

エーデリアは静かに腕を組む。

「絵だけを追っているのではない。頁の余白や図の意味を確かめるように、じっと見ている……。二歳の振る舞いではないな」


ジークは棚の影から淡々と呟いた。

「……守るべきものは花や蝶だけではなかった、ということか」


「ちょっと待ってくださいよジーク!」

フェルが思わず突っ込む。

「本を“守る”んじゃなくて、“読もうとしてる”んですってば!」


ジークは本気で考え込むように顎に手を添える。

「……読めぬ文字をどうするつもりなのだろう」


「絵があれば十分、って顔してますね」

ルカは肩をすくめ、ハルナを見る。


ハルナは分厚い薬草書を膝の上に広げ、指先で花の絵をなぞっていた。

描かれた根の部分まで指で追い、香りを想像するように小さく鼻をすんと鳴らす。


「……観察対象を切り替えている」

アルビスは記録帳を片手にさらりと書き付ける。

「ただ絵を眺めるのではなく、根から葉へ、葉から花へと順に視線を移している。まるで学習の手順を踏んでいるようだ」


シオンは手近の薬草をひねりながら、鼻で笑った。

「なるほどな。匂いまで想像してる顔だ。……普通は“きれい”で終わるのに」


「本当に……妙な子だ」

エーデリアが小さく息を吐く。

「知識を欲する令嬢など、この年で見たことがない」


グレンは頭をかきながら苦笑する。

「まぁでも、難しい本抱えてるだけでも様になってるぜ。姫ちゃん、将来は賢い姫様になるな」


「それでは……」

エーデリアの声が一瞬刺々しくなるがすぐに口を閉ざし小さなため息が漏れ、その視線がわずかに揺れた。


シオンはそれを横目に見て、一瞬だけエーデリアに鋭い目を向ける。

そして苦笑混じりに言葉を紡いだ。

「――姫様が選んで手にしているものを、誰にも止められはしないんだ」


頁の挿絵を指でなぞり、鼻をすんと鳴らす。

その小さな仕草は、ただ静かな喜びに満たされていて、誰の思惑も届かない世界にあるようだった。


ーーーーー


書庫の奥、その一角は他とは違う空気を纏っていた。

革で綴じられた背表紙には金や銀の箔が散らされ、淡い光を受けるたびに、不思議な模様が浮かび上がる。


そこに並ぶのは――「妖精譚」「精霊図鑑」「魔術覚書」「獣人誌」。

実用的な薬草書や獣の図鑑とは異なり、神秘と幻想を孕んだそれらは、まるで“人ならざる領域”を覗かせるかのようだった。


屋敷に仕える者たちでさえ、この棚を前にすると足を止める。

ある者は「ただの御伽話」と笑い、

ある者は「掴めぬ神秘に触れれば狂わされる」と囁いた。


けれど、真実は誰にもわからない。

この棚の奥に眠るのが夢物語か、それとも失われた叡智か――


その日、書庫に付き添っていたのはアルビスだった。

彼は帳面を片手に、いつも通りハルナの選ぶ本を記録していた。


だが――。

幼い主はまるで迷うことなく、真っすぐに書庫の奥へと進んでいった。

足取りはふらつくほど小さいのに、その方向だけは確かなものを知っているかのように。


「……ハルナ様」

思わずアルビスの声が低く震える。

そこは、屋敷の者すら足を止める棚。

知識か幻想か、その境を測ることもできぬ危うい領域だ。

一瞬、彼の手が伸びかけた――止めるべきでは、と。


しかしハルナは振り返ることもなく、淡々と背表紙に小さな指を触れた。

まるで既に知っていたかのように、一冊を引き抜く。


「……妖精譚」

小さくアルビスは言う。

金の箔押しで小さな翼が描かれた古い写本だった。


アルビスは己の手がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。

喉の渇きで声が震える。

「……判じがたいものだ。虚構とも真実とも、記録には残せない」

呟きは自分の耳にも硬く響き、冷たい不安が胸を締め付ける。


書庫の空気は重く、幻想と現実の境目を踏み越えるような息苦しさがある。

だが、ハルナは迷わなかった。

精霊譚を抱きしめたまま、静かに頁をめくり続ける。


ふいに、幼い主が顔を上げた。

大きな瞳が真っ直ぐにアルビスを映し、ほんの少し首を傾げる。


――一緒に、見よう?


声はなかった。

けれどその仕草は、確かにそう問いかけていた。


アルビスは息を呑み、胸の奥に冷たさと温かさが同時に走るのを感じる。

恐怖に縛られた足は、幼い瞳の前に自然とほどけていった。


「……ええ。では、共に拝見いたしましょう」

記録帳を開き直し、彼は隣に膝をついた。


ーーーーー


燭台の炎が揺れる執務室。

アルビスは書簡を胸に抱き、いつも通りの調子で言葉を紡いだ。


「……本日のご様子を報告いたします。ハルナ様は――妖精譚を手に取られました」


一見、変わらぬ淡々とした声音。

けれどクラウスには、その奥でほんの僅かに揺れる色を聞き取れた。

記録者として事実を告げただけのはずが、そこには“説明できないものへの戸惑い”が混じっていた。


「妖精譚?」

ルカが目を瞬かせる。

「……なるほど。花や蝶を愛でられるのと同じように、ハルナ様は自然に妖精にも惹かれたのでしょう」


ジークは腕を組んだまま口を開いた。

「ならば、ドラゴンと戦う方法も探しておかねば」

あまりに当然のように言い切り、場が一瞬凍りつく。


「おいおいジーク、そこまで飛ぶかよ!」

グレンが頭をかき、豪快に笑う。

「でもまあいいじゃねぇか。夢くらい見ても。俺は賛成だぜ」


フェルは楽しげに弦を鳴らし、瞳を輝かせる。

「いいなあ……妖精が囁いて、曲を授けてくれるかもしれない。僕の音に羽根が生える、なんて素敵じゃないか」


「薬草も似たようなもんさ」

シオンが肩をすくめる。

「信じる者には効き、不思議な力を持つ。妖精や精霊だって同じこと。迷信と片付けるには惜しいな」


その言葉に、エーデリアの表情がぴしりと硬くなった。

「……駄目だ。姫様は御伽噺に惑わされてはならない。現実を見ずに育てば、心を蝕まれる」

硬質な声音には、彼女自身の過去を思わせる影が混じっていた。


アルビスも眉を寄せ、帳面を指で押さえながら静かに続ける。

「記録として扱うことはできます。しかし、確証は一切ない。事実と断じることも、完全に虚構と切り捨てることもできない。……むしろ、未知であるがゆえに恐ろしいのです」


クラウスは従者たちの言葉を黙って聞き、燭火の揺らめきを映す瞳を細めた。

彼の視線の奥には――恐れではなく、むしろ“娘がどこに導かれているのかを見極めようとする”強い意思が宿っていた。


重く沈む空気の中、クラウスは目を閉じ、短く息を吐いた。

そして――ただ一言。


「……ハルナの好きに」


その声音は穏やかでありながら、誰も逆らえぬ確かさを帯びていた。


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