花の物語
二歳を迎えたハルナは、あれほど一日の大半を眠りに費やしていた頃とは少しずつ変わっていた。
昼間にぐっすり眠ることはほとんどなくなり、代わりに目を輝かせて静かに過ごす時間が増えている。
庭や温室では、蝶の舞い、虫の這う姿をじっと見つめ、咲きそろう花々の前では、まるで時が止まったように立ち尽くす。
小さな手をそっと伸ばして花びらに触れることもあれば、ただ目を瞬かせて香りを吸い込み、くすぐったそうに微笑むこともある。
「……ほんとうに静かだな」
温室の入口でグレンが腕を組み、ぽつりと呟いた。
ルカは膝を折り、ハルナの視線を追うように花を見やりながら微笑む。
「でもご覧ください。嬉しいときには、ちゃんと笑ってくださいます」
ハルナはラベンダーに顔を寄せ、そっと息を吸い込んだ。
そのたびに細い肩が小さく上下し、柔らかな吐息が花を揺らす。
指先で花びらをちょんとつまんでは、すぐにぱっと離し、壊してはいけないと直感しているかのようだった。
「……花を触っても、決してむやみに摘まれませんね」
ルカが不思議そうに首をかしげる。
「本には“この年頃は好奇心で手を伸ばして壊してしまう”と書いてありましたけど……姫様は花を壊したりなさらないで、大切に触れてくださいます」
アルビスは記録帳を片手に、淡々と書き付けていく。
「今、蝶が葉に止まるのをご覧になった瞬間、一度だけ瞬きをされた。……観察の対象を切り替えられた証です。好奇心を抑えているのではなく、静かに心に留めておられる」
「へぇ……まるで研究者みたいな言い方だな」
グレンがにやりと笑う。
「普通なら“捕まえた!”って叫ぶところだろうによ。姫ちゃんは、見守るだけで満足してるな」
その時、一匹の蝶がふわりと舞い降り、ハルナの手の甲にとまった。
ハルナは大きな瞳を瞬かせ、ぴたりと固まる。
掴もうとはせず、ただじっと動かない。
やがて蝶は再び羽をひらめかせ、光の中へ飛び去っていった。
「……ほらな」
グレンが腕を組み直す。
「蝶だって、姫ちゃんの前だと安心して降りてきやがる」
シオンは摘んだ花を指先でひねり、香りを確かめながら小さく笑った。
「無理に触らず、匂いと手触りを確かめる。……薬草を学ぶ最初の心得と同じだよ。小さな子にしては落ち着きすぎてるくらいだ」
ルカは小さくため息をつきながらも再び首をかしげる。
「……書物には“この年頃はもっと泣いたり駄々をこねたりする”とありましたけど……」
視線をハルナに戻し、そっと微笑む。
「実際にお仕えしていると、そういうものなのか、分からなくなりますね」
アルビスは素直に頷いている。
そんな二人を見てグレンとシオンは何も言わずに一瞬視線をかわした。
「まぁ….静けさは欠点じゃないさ」
シオンが肩を揺らし、柔らかく囁く。
「むしろ、それが姫様だけの個性さ。花も蝶も、まるで姫様に合わせて呼吸してるみたいに見える」
言葉を交わす従者たちの後ろで、ハルナは相変わらず小さな背を伸ばし、ラベンダーに頬を寄せていた。
陽に透けた髪が淡く揺れ、その姿は一枚の絵のように、静かな温室に刻まれていった。
ーーーーー
ハルナの新しい日課に、絵本があった。
厚い紙に描かれた大きな絵、色鮮やかな花や鳥の姿。
彼女はその一枚一枚に指先を添えて、目をまんまるに見開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
文字はまだ読めない。
それでも、絵が語る物語を自分なりに追いかけているのか、小さな唇が何度も「ふふっ」と形を結ぶ。
最初は従者が与えた絵本だけだった。
けれど、気づけば、ハルナはふらふらと自ら歩き、いつの間にか書庫の前に座り込むようになった。
扉の取っ手に触れるわけでもない。
ただ、その前でじっと待ち、従者の誰かが鍵を開けるのを見つめているのだ。
ある日、静かに廊下を進んで扉の前に立ち、じっと見上げている姿をジークが見つける。
「…ハルナ様、またここに座っている」
ジークが低く呟いた。
「……どうやら、書庫の扉を守っているらしい」
「守ってるんじゃなくて、中に入りたいんですよ!」
フェルが堪えきれず吹き出す。
エーデリアは額に手を当て、ため息混じりに言う。
「……ジーク。姫様が欲しいのは本だ。番兵の真似をしたいわけではない」
ジークはきょとんとした表情で首を傾げ、本気で考え込んだ。
「……そうか。入りたいのか。ならば私が代わりに見張っていよう」
「だから違いますって!」
フェルが笑いながら言うと、静かな廊下に小さな笑い声が広がった。
エーデリアが鍵を開けると、ハルナはトコトコと中へ入り、小さな背丈で棚を見上げながら歩いていった。
「……ハルナ様は、書庫の場所を覚えたんだな」
低く告げたのはジークだった。
その目の奥にわずかな驚きが滲んでいる。
「二歳にしては、少し早すぎる気もするが」
エーデリアは腕を組み、わずかに眉をひそめた。
「好奇心が強いのは悪いことではない。だが、この年齢で、道順を記憶するなど……」
フェルは楽器を抱えながら、くつくつと笑う。
「いやいや、驚くのはそこじゃありませんよ。覚えたってことは、それだけ“本が好き”ってこと。普通ならおもちゃや菓子に夢中になる歳ですよ。しかし、姫様が選んだのは“本”だった」
ジークは短く「……なるほど」と応える。
エーデリアはため息をつき、ハルナが絵本を選ぶ姿に目を細める。
「本当に……妙な子だ。泣きも駄々もない。しかし、知識への欲はこんなにも強いとは」
その言葉にフェルが肩をすくめ、軽く弦を鳴らした。
「おかげで退屈はしませんよ。さて、次はどんな物語を御所望かな?」
静かな書庫の中、ハルナは棚から引き出した絵本を両手で抱え、床に座り込む。
ページを開く小さな姿は、知識の森に迷い込んだ一輪の花のようだった。