祝祭の舞台
春の朝。
クラウス邸の客間は、いつもよりずっと早く動き出していた。
窓から射す光に、花や薬草がきらめき、部屋全体が祝祭の香りと彩りに満ちている。
「さて……誕生日の朝にふさわしい香りは、やっぱり春風のように軽やかであるべきだよね」
シオンが小瓶を持ち上げ、草花を指先で擦り合わせる。
爽やかな香りがふわりと広がった。
「おぉ、悪くないな。甘すぎないのがいい」
グレンが鼻を鳴らす。
「けど、姫ちゃんがくしゃみしない程度にしてくれよ。強すぎたら全部俺が換気しなくちゃならない。姫ちゃんに“いい匂いが消えた”なんて言われたら困るからな」
「それはご苦労だね」
シオンが笑う。
「でも安心して。これは“眠り草”じゃない。誕生日の最中に寝てしまうなんてことはないさ」
「……去年は危なかったですからねぇ」
フェルがくつくつと笑う。
「客間が安眠室になりかけた。音楽まで寝息を立てそうだった」
と大袈裟に肩をすくめる。
場が笑いに包まれた。
アルビスは記録帳を開いたまま、真顔で口を挟んだ。
「去年はラベンダーとカモミールを長く手に取られていました。今年は色違いのラベンダーを多めに。押し花も用意してあります」
「押し花は仕上がっています」
ルカが木枠を押さえながら言う。
「色が褪せないように仕立てました。……ハルナ様の手に渡ったときも、美しいままで」
「俺の出番は力仕事だな」
グレンが大鉢を抱え、どさりと床へ置く。
「このでっけぇ鉢、窓辺に置いたら光に当たって綺麗だろ?」
「だが窓辺は危険だ」
ジークが短く返し、そのまま鉢を持ち直した。
「姫様が触れぬ高さに置く」
「おいおい、俺の腕力を無駄にするなよ」
グレンがぼやくが、ジークは無言で次の鉢に取りかかっている。
フェルが指を鳴らし、花瓶の配置を示す。
「低い花は手前に、高い鉢は奥。舞台装置と同じで、主役を一番に輝かせる配置が肝心だ」
「誕生日を舞台に例えるのは、あなたくらいです」アルビスが冷静に言う。
「見栄えより落ち着きを優先しないと、ハルナ様が疲れます」
「まぁまぁ、そう肩をはらないで」
シオンがアルビスの肩に軽く手を置き、にやりと笑った。
「今日は一年に一度の晴れ舞台なんだから」
「また舞台って言いましたね」
ルカが小声で笑い、グレンが「わざとだろ」とぼやき、フェルが当然だと言わんばかりに胸を張る。
扉が音もなく開き、エーデリアが入ってきた。
鋭い眼差しを走らせ、低く言い放つ。
「……随分と賑やかだな。だが、贈り物の山より大事なのは姫様の心だ」
「エーデリア騎士様は例によって厳しいな」
グレンが頭をかく。
「でも確かにその通りだ。飾りより大事なのは……俺たちの気持ちだ」
エーデリアは短く頷いた。
「今日はその笑顔を守り抜く。それが我らの務めだ」
一同は自然と動きを引き締める。
静けさを断つように、戸口からクラウスの低い声が響いた。
「……十分だ。これなら、あの子もきっと笑ってくれる」
笑みと誇りが、花の香りとともに客間いっぱいに満ちていった。
会場が整えられた後、従者達は今日の主役
ーーーハルナの準備に取り掛かる。
「ハルナ様、今日は特別な日ですよ」
ルカが声音を弾ませながら、ふわりと軽い白のドレスを肩にかけ、袖口のしわを丁寧に伸ばす。
ハルナはきょとんと指先で布の感触を確かめ、ちいさく瞬いた。
「おぉ、似合ってるぞ」
グレンが大きな手で頭をやさしく撫でると、ハルナはくすぐったそうに身をよじる。
従者たちの笑みが自然とこぼれ、部屋は和やかな温もりで満ちた。
「はい、お嬢。甘さは控えめの温かいミルクだよ。今日はたくさん食べるから、その前にお腹を整えておこう」
シオンが湯気の立つ小杯を差し出す。
ハルナは両手で受け取り、ふう、とひとくち。
口の端に白いしずくを残したのを見て、シオンは柔らかく笑い、布でそっと拭った。
「姫様の飲み口にはこのくらいの温度がちょうど良いですね」
アルビスが記録帳を閉じながら冷静に言う。
「昨日までは少し熱いと顔をしかめておられましたから」
「観察が細かいな」
フェルが可笑しそうに笑い、花瓶の位置を指先で示す。
「なら、次は舞台装置の仕上げだ。今日の姫様は、誰よりも輝く主役だからな」
「今日は一日中舞台になりそうですね。」
ルカが苦笑したが、その口調はどこかいつもよりも楽しげだった。
――その頃、外では。
ジークとエーデリアが庭から戻ってきた。
「異常なし。巡回は一通り終えた」
ジークが短く報告する。
「屋敷の警備も二重に固めた。今朝は祝宴に紛れた使者もいたが、門前で断ってある」
エーデリアが続ける。
「それでいい。誕生日に、無粋な影は不要だ」
ジークが応じる。
「当然だ」
エーデリアも即答する。
二人は浮き立つ屋敷の中で、剣先のように鋭く“警護の任”に徹していた。
執務室ではクラウスとオルランドが最終確認にあたっていた。
「贈り物の仕分けは滞りなく。客間の準備も整いました」
オルランドが帳簿を閉じる。
クラウスは短く頷き、窓外に視線を向けた。
春の空は高く澄み、淡い光が邸を包んでいる。
「……よし。今日の主役は、あの子だ」
低い声には揺るぎない確信があった。
屋敷全体がひとつの舞台のように、ハルナの二歳の誕生日を迎えようとしていた。