表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春を謳う  作者: 葵
19/49

姫と王子

夜も更け、屋敷の廊下には静かな足音だけが落ちていた。

寝室の扉はわずかに開き、そこから灯りが細くこぼれている。


クラウスは立ち止まり、そっと扉を押し開けた。

中を覗けば――ふかふかのクッションに身を預けたハルナが、真剣な面持ちで絵本の頁を繰っていた。


表紙には、硝子の靴を履いた姫と凛々しい王子。

きらびやかな物語の絵を、小さな瞳がまっすぐ追っている。


クラウスは隣に腰を下ろし、視線で絵本を指し示した。

「ハルナは、こういうお話が好きか?」


問いかけに、ハルナは顔を上げて小さく瞬きをし、両手で絵本を抱えたまま、迷いのない声で答える。


「……すき」


そのたった一言が、父の胸に新鮮な驚きとなって落ちる。

好きを伝えられる――ただそれだけで、小さな娘が確かに世界を広げていることを知る。

クラウスは、胸の奥にじんわりと広がる温もりを抑えきれず、目元をやわらかくゆるめた。


「そうか。お姫様や王子様のお話が、好きなんだな」

やわらかく髪を撫でる父の手に、ハルナは嬉しそうに頷き、また頁へと目を落とす。


そっと肩に手を回し、クラウスは心の内で静かに願った。

――この小さな娘が、物語の姫のように笑える日々を、いつまでも。


頁を繰る音のあいだに、ハルナが小さくつぶやいた。


「……パパも、すき」


不意の言葉に、クラウスは一瞬だけ息をのみ、涙をこらえて微笑む。


「ありがとう、ハルナ」


父と娘の穏やかな時間は、かすかな灯りと紙の匂いに包まれながら――

ゆるやかに、夜の深みに溶けていった。



夏の終わりのやわらかな陽が差す朝、クラウスは執務机に向かい、月に一度の「約束の手紙」を綴っていた。

宛先はカスパル邸の長男エドワードと次男フィリオ――ハルナの兄たちである。


昨夜、寝る前にともに過ごした短い時間を思い出しながら、静かにペンを走らせる。


『昨夜もハルナは絵本を抱えて、眠たげな目で頁を繰っていた。

最近のお気に入りは、きらびやかなドレスの姫と勇敢な王子の物語だ。

絵を指さして「すき」と教えてくれた。たどたどしくとも、その一言が何より嬉しい。

少しずつ言葉が増えている。

いつか君たちと一緒に、この本を開ける日を楽しみにしている。』


クラウスは書き終えた紙面を丁寧に畳み、封蝋を押す。

信頼の従者へ託された封筒は、夏の風に導かれるように街路を抜け、数日後――カスパル邸の食卓へと静かに届いた。


封を切ったエドワードは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで文面を追った。

隣ではフィリオが肩を寄せ、指先でそっと行をなぞる。


「……姫と王子の本、か。ハルナはそれが好きなんだね」


読み返しを終えるやいなや、エドワードは勢いよく立ち上がり、父のもとへ駆け寄った。

「父様、お願いです。ハルナと同じ絵本を僕にも。僕も読んでみたい」


その熱に思わず笑みをこぼしながら、カスパルは頷く。

「ああ、すぐに手配しよう」


少し遅れて、フィリオも小さく手を挙げた。

「……僕にも。ハルナと同じ本、読みたい」


「もちろんだ」父の声は穏やかに応じる。

兄弟は顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。


その瞬間、遠く離れていても、小さな妹と心がつながった気がして、胸の奥があたたかく満ちていった。



数日後の夜、カスパルはクラウスから託された絵本を両手に抱え、エドワードとフィリオに一冊ずつ手渡した。


「クラウスが教えてくれたよ。ハルナはこの物語が好きなんだって――お姫様も、王子様も。どちらも好きらしい」


差し出された表紙を、エドワードはぱっと瞳を輝かせ、フィリオは息をひそめるように見つめた。


「ありがとう、お父様」


礼を言うなり、エドワードは絵本を胸に、自室へと急いだ。



夜更け。

ランプの淡い灯だけが机上を照らしていた。


頁を繰ると、優雅なドレスの令嬢と、まっすぐな眼差しの王子がそこにいた。

物語は、令嬢が幾つもの困難を越え、最後に“王子が”求婚する結末へと向かっていく――この国では稀な、男が女に手を差し伸べる御伽話だ。


一行、また一行。

王子が怯まず、ただ一人を想い続ける姿に、エドワードは思わず息を呑む。


気づけば、頁の合間にハルナの面影が差し込んでいた。

初めて会った日、青い花を手渡した自分の手を、ハルナが小さな腕でぎゅっと抱きしめた感触――あのかすかなぬくもりが、指先に確かに戻ってきた。


“可愛い”では足りない。


また会いたい。

もっと知りたい。

守りたい。


胸の奥でばらばらだった願いが、ひとつの言葉へと収束していく。


物語の終わり――王子は腕いっぱいの花束を抱え、姫の前にひざまずき、想いを告げる。

姫は静かに頷き、二人は結ばれる。


エドワードは無意識に、その姫と王子をハルナと自分へ重ねていた。


――ああ、これが“恋”なんだ。


ハルナが好きだと話した物語の王子の姿と、自分の小ささが胸に突きつけられる。

あの堂々とした立ち姿も、強さも、今の自分にはまだない――。


そっと本を閉じ、胸に抱く。

窓辺の月光が白く揺れ、誓いのように彼を照らした。


「ハルナの王子様になる。そのために、強く、誠実に――彼女にふさわしい人間になる」


声には出さず、けれど確かな誓いを心の底へ落とす。


その夜、エドワードの初恋は密やかに――しかし誰よりも真剣に、始まった。


翌朝から彼は、頁の王子の所作を写し取り、日課の鍛錬を少しだけ長くし、言葉や振る舞いをより丁寧にしようと決める。


――いつか、ハルナに胸を張って「好きだ」と言えるその日のために。



フィリオが絵本を受け取った夜、部屋の明かりは小さく、窓の外には細い月が浮かんでいた。

彼はベッドの上に座り、膝に絵本をのせると、表紙のきらびやかなドレスを纏ったお姫様と、そのお姫様をまっすぐ見つめる王子の横顔を、しばらく黙って見つめていた。


頁を繰るたび、色が変わる。

青、白、金――舞踏会の灯り、涙のしずく、朝焼け。


フィリオは文字を指でなぞり、ところどころ声に出してゆっくり読む。

難しいところは息を止めて見つめ、絵から続きを想像した。

言葉がつっかえるたびに、指先が癖のように膝の上で小さくリズムを刻む。


王子が令嬢の手を取る場面に来ると、指の拍が少しだけ早くなる。

――ハルナ、ここ、好きかな。

そう思うと胸が温かくなり、「すき」という小さな音が、絵本の中からこちらへ返ってくるような気がした。


本を閉じずに、フィリオはそっと立ち上がる。

窓辺の小さな机に置いた木製の練習鍵盤に手を伸ばし、物語の色に合わせて音を探した。

青は低く長く、白はやわらかく短く、金は少し明るく跳ねる――。


指先が見つけた三つの音を並べると、たどたどしいけれど、やさしい旋律になった。


「……これは、ハルナのページの音」


彼は自分にだけ聞こえる声でそう呟き、もう一度、最初から最後まで静かに弾きなおす。

最後の和音がほどけると、胸の奥の不安が少しだけ小さくなっていた。


フィリオは絵本をそっと抱きしめる。

いつかこの物語を、ハルナの隣で読んであげたい。

そのときは、いま作った小さな曲も一緒に――頁をめくるたびに、彼女が笑えるように。


灯りを消す前、彼はもう一度だけ表紙を指でなぞり、窓の月を見上げた。

“好き”と“だいじ”のあいだにある静かな気持ちが、胸の中で音になり、子守歌のように自分を眠りへと導いていく。


その夜、フィリオの心に生まれたのは、初めての“旋律”。

まだ名のつかないそれは、ただ確かに――ハルナを思う音として胸に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ