姫と王子
夜も更け、屋敷の廊下には静かな足音だけが落ちていた。
寝室の扉はわずかに開き、そこから灯りが細くこぼれている。
クラウスは立ち止まり、そっと扉を押し開けた。
中を覗けば――ふかふかのクッションに身を預けたハルナが、真剣な面持ちで絵本の頁を繰っていた。
表紙には、硝子の靴を履いた姫と凛々しい王子。
きらびやかな物語の絵を、小さな瞳がまっすぐ追っている。
クラウスは隣に腰を下ろし、視線で絵本を指し示した。
「ハルナは、こういうお話が好きか?」
問いかけに、ハルナは顔を上げて小さく瞬きをし、両手で絵本を抱えたまま、迷いのない声で答える。
「……すき」
そのたった一言が、父の胸に新鮮な驚きとなって落ちる。
好きを伝えられる――ただそれだけで、小さな娘が確かに世界を広げていることを知る。
クラウスは、胸の奥にじんわりと広がる温もりを抑えきれず、目元をやわらかくゆるめた。
「そうか。お姫様や王子様のお話が、好きなんだな」
やわらかく髪を撫でる父の手に、ハルナは嬉しそうに頷き、また頁へと目を落とす。
そっと肩に手を回し、クラウスは心の内で静かに願った。
――この小さな娘が、物語の姫のように笑える日々を、いつまでも。
頁を繰る音のあいだに、ハルナが小さくつぶやいた。
「……パパも、すき」
不意の言葉に、クラウスは一瞬だけ息をのみ、涙をこらえて微笑む。
「ありがとう、ハルナ」
父と娘の穏やかな時間は、かすかな灯りと紙の匂いに包まれながら――
ゆるやかに、夜の深みに溶けていった。
⸻
夏の終わりのやわらかな陽が差す朝、クラウスは執務机に向かい、月に一度の「約束の手紙」を綴っていた。
宛先はカスパル邸の長男エドワードと次男フィリオ――ハルナの兄たちである。
昨夜、寝る前にともに過ごした短い時間を思い出しながら、静かにペンを走らせる。
『昨夜もハルナは絵本を抱えて、眠たげな目で頁を繰っていた。
最近のお気に入りは、きらびやかなドレスの姫と勇敢な王子の物語だ。
絵を指さして「すき」と教えてくれた。たどたどしくとも、その一言が何より嬉しい。
少しずつ言葉が増えている。
いつか君たちと一緒に、この本を開ける日を楽しみにしている。』
クラウスは書き終えた紙面を丁寧に畳み、封蝋を押す。
信頼の従者へ託された封筒は、夏の風に導かれるように街路を抜け、数日後――カスパル邸の食卓へと静かに届いた。
封を切ったエドワードは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで文面を追った。
隣ではフィリオが肩を寄せ、指先でそっと行をなぞる。
「……姫と王子の本、か。ハルナはそれが好きなんだね」
読み返しを終えるやいなや、エドワードは勢いよく立ち上がり、父のもとへ駆け寄った。
「父様、お願いです。ハルナと同じ絵本を僕にも。僕も読んでみたい」
その熱に思わず笑みをこぼしながら、カスパルは頷く。
「ああ、すぐに手配しよう」
少し遅れて、フィリオも小さく手を挙げた。
「……僕にも。ハルナと同じ本、読みたい」
「もちろんだ」父の声は穏やかに応じる。
兄弟は顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。
その瞬間、遠く離れていても、小さな妹と心がつながった気がして、胸の奥があたたかく満ちていった。
⸻
数日後の夜、カスパルはクラウスから託された絵本を両手に抱え、エドワードとフィリオに一冊ずつ手渡した。
「クラウスが教えてくれたよ。ハルナはこの物語が好きなんだって――お姫様も、王子様も。どちらも好きらしい」
差し出された表紙を、エドワードはぱっと瞳を輝かせ、フィリオは息をひそめるように見つめた。
「ありがとう、お父様」
礼を言うなり、エドワードは絵本を胸に、自室へと急いだ。
⸻
夜更け。
ランプの淡い灯だけが机上を照らしていた。
頁を繰ると、優雅なドレスの令嬢と、まっすぐな眼差しの王子がそこにいた。
物語は、令嬢が幾つもの困難を越え、最後に“王子が”求婚する結末へと向かっていく――この国では稀な、男が女に手を差し伸べる御伽話だ。
一行、また一行。
王子が怯まず、ただ一人を想い続ける姿に、エドワードは思わず息を呑む。
気づけば、頁の合間にハルナの面影が差し込んでいた。
初めて会った日、青い花を手渡した自分の手を、ハルナが小さな腕でぎゅっと抱きしめた感触――あのかすかなぬくもりが、指先に確かに戻ってきた。
“可愛い”では足りない。
また会いたい。
もっと知りたい。
守りたい。
胸の奥でばらばらだった願いが、ひとつの言葉へと収束していく。
物語の終わり――王子は腕いっぱいの花束を抱え、姫の前にひざまずき、想いを告げる。
姫は静かに頷き、二人は結ばれる。
エドワードは無意識に、その姫と王子をハルナと自分へ重ねていた。
――ああ、これが“恋”なんだ。
ハルナが好きだと話した物語の王子の姿と、自分の小ささが胸に突きつけられる。
あの堂々とした立ち姿も、強さも、今の自分にはまだない――。
そっと本を閉じ、胸に抱く。
窓辺の月光が白く揺れ、誓いのように彼を照らした。
「ハルナの王子様になる。そのために、強く、誠実に――彼女にふさわしい人間になる」
声には出さず、けれど確かな誓いを心の底へ落とす。
その夜、エドワードの初恋は密やかに――しかし誰よりも真剣に、始まった。
翌朝から彼は、頁の王子の所作を写し取り、日課の鍛錬を少しだけ長くし、言葉や振る舞いをより丁寧にしようと決める。
――いつか、ハルナに胸を張って「好きだ」と言えるその日のために。
⸻
フィリオが絵本を受け取った夜、部屋の明かりは小さく、窓の外には細い月が浮かんでいた。
彼はベッドの上に座り、膝に絵本をのせると、表紙のきらびやかなドレスを纏ったお姫様と、そのお姫様をまっすぐ見つめる王子の横顔を、しばらく黙って見つめていた。
頁を繰るたび、色が変わる。
青、白、金――舞踏会の灯り、涙のしずく、朝焼け。
フィリオは文字を指でなぞり、ところどころ声に出してゆっくり読む。
難しいところは息を止めて見つめ、絵から続きを想像した。
言葉がつっかえるたびに、指先が癖のように膝の上で小さくリズムを刻む。
王子が令嬢の手を取る場面に来ると、指の拍が少しだけ早くなる。
――ハルナ、ここ、好きかな。
そう思うと胸が温かくなり、「すき」という小さな音が、絵本の中からこちらへ返ってくるような気がした。
本を閉じずに、フィリオはそっと立ち上がる。
窓辺の小さな机に置いた木製の練習鍵盤に手を伸ばし、物語の色に合わせて音を探した。
青は低く長く、白はやわらかく短く、金は少し明るく跳ねる――。
指先が見つけた三つの音を並べると、たどたどしいけれど、やさしい旋律になった。
「……これは、ハルナのページの音」
彼は自分にだけ聞こえる声でそう呟き、もう一度、最初から最後まで静かに弾きなおす。
最後の和音がほどけると、胸の奥の不安が少しだけ小さくなっていた。
フィリオは絵本をそっと抱きしめる。
いつかこの物語を、ハルナの隣で読んであげたい。
そのときは、いま作った小さな曲も一緒に――頁をめくるたびに、彼女が笑えるように。
灯りを消す前、彼はもう一度だけ表紙を指でなぞり、窓の月を見上げた。
“好き”と“だいじ”のあいだにある静かな気持ちが、胸の中で音になり、子守歌のように自分を眠りへと導いていく。
その夜、フィリオの心に生まれたのは、初めての“旋律”。
まだ名のつかないそれは、ただ確かに――ハルナを思う音として胸に残った。