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春を謳う  作者: 葵
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耳に響く声

ジークが高熱で床に伏してから、屋敷の空気は目に見えぬ重みを帯びていた。

廊下の端で足音が遠慮がちに変わる。水差しの触れ合う微かな音、冷やした布を絞る音――。


その前を、ハルナがとことこと歩いていく。

ジークの部屋の扉の前で立ち止まり、小さな手でノブをぎゅっと握ると、そろりと押し開けた。


中は薄暗い。額に冷たい布、蒼白の頬、熱に浅く上下する胸。

ハルナは迷わず枕元に座り、じっと顔を覗き込んだ。


「ハルナ様、ジークは今、熱が高い。うつるかもしれません。お部屋へ戻りましょう」

ルカが声をひそめ、抱き上げようと手を差し出す。


けれど、ハルナは首を小さく横に振った。


「……や」


その声はか細いのに、不思議と揺るがなかった。

いつもなら素直に従うはずの子が、はっきりと抗ったのだ。

ルカとグレンは一瞬言葉を失い、視線を交わす。


「ハルナ様、俺は大丈夫だ。近づくな……」

ジークは掠れ声で言い、身を引こうとした。

しかし、熱に奪われた身体は思うように動かず、指先さえ震えていた。


ハルナはふくらんだ頬のまま、掛け布団の上に手を伸ばした。

小さな指が震えながらも、おずおずと額に触れる。


「……ジー、く」


たどたどしい呼びかけに、ジークの荒い呼吸がふと揺れる。


「だ……じょぶ」

まだ壊れそうな音の並び。

けれどその深紺色の瞳は幼子のものではなく、必死に誰かを守ろうとする光を宿していた。


ジークは胸の奥を突かれ、熱よりも強い衝撃に息を詰まらせる。

涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら――

「……ありがとな、ハルナ様」

掠れた声で、ただそれだけを伝えた。


困ったのは、ルカとグレンだった。

熱のあるジークのそばに、ハルナを置いておくわけにはいかない。

だが――主人からの“初めての拒否”は、驚くほどあたたかかった。

従者としてどうするべきか、胸の内で揺れる。


やがてルカは小さく息をつき、一歩退いた。

見守る側に回ることを選んだのだ。

廊下の影でグレンが腕を組み、「こりゃ参ったな」と小さく笑う。

オルランドも短くうなずき、場の判断はすでについていた。


ハルナはその後もしばらく、ジークの枕元にじっと寄り添っていた。

小さな手で頭を撫でたり、布団を直したり。

それは、誰よりも不器用で――けれど誰よりも真っ直ぐな“お見舞い”だった。


やがてシオンが静かに入ってくる。

ハルナの姿に一瞬驚き、すぐに小さくため息をつくと、ジークの熱と脈を確かめた。

「……下がりはじめてる。よかったね、ハルナ嬢」

そう優しく声をかけてから、今度はハルナの体調を診る。

シオンがルカに視線を渡し、ルカは静かに頷いた。

それで十分だとわかって、シオンも後ろへ下がる。


――その日を境に、ハルナの世界はわずかに形を変えた。

“見守られる子”から、“寄り添う子”へ。

小さな手のひら一つ分だけ、確かに広がっていった。


ーーーーー


ある朝。廊下の光の中で、ハルナは小さく息を吸った。


「……ルカ」


呼ばれた名に、筆頭執事は一瞬だけ固まる。

驚きと喜びが胸にいっぺんに押し寄せ、口元がわずかに緩む。

すぐに姿勢を正し、深く一礼した。


「――はい、ハルナ様」


その声はわずかに震えていたが、礼を乱すことはなかった。

胸の奥で、初めて仕える“主”から名を呼ばれた温かさが広がっていた。


角を曲がれば、屈強な影。

「……グレン」


呼ばれた瞬間、肩がわずかに震えた。

ほんの一拍、動きが止まる――それは気のせいにしてしまうほど短い。


けれど、見上げてくるハルナの瞳に、すぐ頬がゆるむ。


「……おう!」


笑みが弾け、胸を張る。

少し遅れて返した声には、豪快さと同じくらいの安堵がにじんでいた。


背すじを伸ばした白髪の騎士へ、慎重に区切って――

「……え、で……りあ」


エーデリアは一瞬目を見開き、それからゆっくり細めてうなずく。

「……聞こえた。上手に言えたな」

声は低いままなのに、誇りを隠しきれない温かさが滲んでいた。


薬草の香りが漂うほうへ、今度は小さく勇気を足して。

「し……しおん」


シオンは肩をすくめて笑う。

「――はいはい、姫さん。俺の名は薬より言いにくいだろ?」

軽口を混ぜながらも、その声音は不思議とやわらかかった。


ハルナは、廊下に落ちる長い影を怖がることなく、まっすぐ見上げた。

「……ジーク」


名を呼ばれた騎士は、一瞬だけ目を見開き、すぐに頭をかいた。

「はい、ハルナ様」

そのまま膝をつき、まるで忠誠を誓うように姿勢を正した。


やがて視線は、机に帳面を開く記録係へ。

小さく息を整え、メガネを指でクイッと押し上げる仕草を真似る。


「あーるーぶす」


アルビスが小さく瞬いた瞬間――

「……ちがう。あーるーびーすー」

今度は丁寧に、区切って。


「はい、ハルナ様」

その声には苦笑もなく、ただ柔らかい響きだけ。

ハルナが何度も練習しても、アルビスは文句ひとつ言わず、黙ってそばに付き添い続けた。


そして、仮面の白磁の奥から伸びる視線に、ハルナは真っすぐに名を置いた。


「……フェル」


一拍。


金の髪がかすかに揺れ、仮面の奥で瞳が見開かれる。


「……私の名は、カリストフェル・ド・アレグロニア」


その響きは長く、深く――道化師にとって誇りそのもの。

名乗るたびに背筋を伸ばし、己を証してきた大切な音。


だが、その重みを真似しようとした幼い唇は、すぐに音の迷路で立ち止まる。

「か……り、す……と……」


困った顔に、空気がふっとやわらぐ。


「今は“フェル”でいい。……ハルナお姫様だけの、特別な呼び方でね」


誇りと優しさが同居する声音。

幼い声で紡がれた短い呼び名は、仮面の奥に秘められた長い名と同じくらい――いや、それ以上に尊い響きとして刻まれた。


名前をひとつ呼ぶたびに、ハルナの世界は広がり、フェルの心もまた、静かに震えていた。


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