指先に残る温もり
夢のような時間は、本当にひとときだった。
花を手渡し、画材箱のふたを開けて色とりどりを眺める。
三人で同じ静けさを共有する。
言葉は少ないのに、部屋の空気は驚くほどあたたかい。
廊下から足音。
「――そろそろ帰るぞ」
やわらかな声で、カスパルが呼ぶ。
エドワードもフィリオも、一度だけ父のほうを振り返った。
もっと一緒にいたい。
けれど、出立の前に聞いた父の言葉が頭をよぎる――今日は約束を守る日だ、と。
ここで“帰らない”と言えば、次はなくなるかもしれない。
エドワードがそっと立ち上がり、フィリオも続く。
扉を出る前にふたりはもう一度だけ振り返った。
ハルナがこちらへ手を伸ばす。
小さな指が、エドワードとフィリオの指先を、それぞれやさしくつまむ。
――まだ、と言っているように。
ふたりは驚いて顔を見合わせ、すぐに握り返した。
エドワードの喉がかすかに鳴る。
「……ハルナ」
フィリオも声にならない息を吐き、こくりとうなずく。
短い沈黙。
その沈黙が、胸の痛みを少しだけやわらげる。
やがてハルナは、そっと指を放し――ほんのわずかに手を揺らした。
「またね」と告げるように。
「また、会いにくるよ」エドワードが囁く。
「また、来るね」フィリオも小さく重ねる。
ふたりはそのまま扉へ向かった。
後ろ髪を引かれたまま。
それでも、“次も会える”という細い約束を胸に、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
オルゴールの調べだけが残り、窓辺でハルナが指をひと振り。
その仕草は、幼い彼女ができるいちばんの約束だった。
ーーーーー
家族の愛情とハルナへの想い――
そのすべてが、馬車の窓の向こうにいつまでも残っていた。
屋敷へ戻る馬車の中、エドワードはじっと自分の右手を見つめていた。
あのとき、ハルナが青い花ごと、自分の手を小さな腕でしっかりと抱きしめてくれた。
その感触が指先に、まだかすかに残っているようで――どうしても離れなかった。
家に着いても、心はどこか上の空だった。
晩餐の席でも、エドワードは無意識に自分の手を胸元で握りしめていた。
「……何かあったのか?」
カスパルに問われても、彼は「ううん、なんでもないよ」と曖昧に微笑むことしかできなかった。
夜、自室に戻り、ベッドの上で天井を見つめながら、もう一度ゆっくりと手を開く。
――ハルナの小さな手の温もりが、まだそこに残っているようだった。
もう一度、あの瞳で見つめてほしい。
もう一度、あの小さな手で自分の手を握ってほしい。
胸の奥に芽生えた初めての感情は、静かで、けれど抗いようもなく強く、じわじわと広がっていく。
その晩、エドワードは何度もハルナの名前を心の中で繰り返しながら、やがて静かにまぶたを閉じた。
ーーーーー
馬車の窓ガラスに、揺れる僕の顔が映る。
隣の兄さん――エドワードは珍しく黙っていた。
遠く、きれいなものを見ている目をしている。
――ハルナ。
小さな手。
まっすぐな、深い紺色の瞳。
兄さんが青い花を差し出したとき、ハルナはそれを両手で抱きしめ、兄さんの手ごと、ぎゅっと胸に引き寄せた。
その瞬間、僕は少し後ろに下がってしまった。
本当は、あんなふうに近くで笑ってほしかった。
画材箱を渡すとき、ちゃんと顔を見られただろうか――。
でも、色鉛筆を一本ずつ指でなぞるハルナの目が、ぱっと丸くなった。
その瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
「……また会えるかな、ハルナ」
膝の上で指先がリズムを刻む。
タン、タタン。白い鍵盤を思い浮かべる。
いつかこの指で、君の前で弾こう。
今度はちゃんと「聴いて」と言おう。
窓の外を、春の風が流れていく。
兄さんは拳を胸の前で握ったまま、やっぱり黙っている。
僕もまねをして、そっと手を握った。
そこに、さっきのぬくもりが少しだけ残っている気がする。
胸の奥が、ほんの少しあたたかい。
それだけで、今日は十分だった。