初めての贈り物
重厚な扉が静かに開き、広間に春の光が差し込んだ。
カスパルとロミオは思わず背筋を正す。掌には、ふたり同じように薄い汗が滲んでいた。
今日は待ちに待った日。
複数人との対面はハルナに負担となるだろうとの配慮から、まずはカスパルとロミオのみが許されていた。
カスパルの息子エドワードとフィリオは、隣室にて静かに待機している。
カスパルは息をのみ、しばし言葉を失った。
幼い命の存在感に圧倒され、口元だけがゆっくりほどけていく。
「……こんにちは、ハルナ……。あぁ、セレナにも、クラウスにも、よく似ている」
ロミオは感嘆の息をほそく吐き、その視線をまっすぐに受け止めた。
「本当に小さい……生まれたばかりの音のようだ。まだ頼りないけれど、確かに響いている」
カスパルは胸元から包みを取り出す。
白の霞草のような小さな花がついている、控えめな花飾りだった。
「ハルナ、これは“おじさん”からの祝いだ。よかったら――」
ハルナは花飾りとカスパルの顔を、不思議そうに交互に見比べる。
ぎこちない指でそっと受け取った瞬間、カスパルの頬がぱっと赤くなり、胸の奥で小さく息をついた。
「……受け取ってくれたのか……。……嬉しいな」
言葉はなくとも、その仕草はカスパルの温もりを確かに感じ取ったようだった。
ロミオは膝の上の小箱を開く。
やさしいオルゴールの旋律が部屋にひろがった。
「君のために選んだ。――聴いてくれるかい?」
ハルナは小首をかしげ、ぱちぱちと瞬きをしながら音に耳を澄ます。
やがて、音源の上へ小さな手がそっと触れた。
ロミオの胸の奥が熱くなり、自然に笑みがこぼれる。
「ありがとう、ハルナ。君が聴いてくれて、僕も嬉しい」
贈り物が無事に渡った安堵と高揚が、ふたりの視線で交わり合う。
――「よかったな」と言葉にせずとも、互いに伝わった。
ハルナは花飾りと音色を胸に、きょとんとしたまま。
けれどその瞳には、確かに温もりが映っていた。
クラウスがそっと近づき、低く柔らかに言う。
「……ハルナも、皆に会えて嬉しいはずだ」
窓辺の春風がカーテンを揺らし、オルゴールの旋律と重なっていく。
家族だけの静かな祝福が、セレスティア邸の午後に――深く、穏やかに刻まれていった。
ーーーーー
広間とは別の、小さな待機室。
磨かれた床に朝の光が落ち、壁際には薄い金糸の縁取りがある。
ふかふかの椅子が二脚ならび、襟に小さな刺繡の入った上着を着せられたエドワードと、同じ生地の短いベストを着たフィリオが、ちょこんと腰をおろしていた。
椅子のクッションは、ふたりの体重を受けて小さく沈んだままだった。
エドワードは落ち着かない足先をそわそわ動かし、扉の方へ身を乗り出す。
「なあ、フィリオ。いま向こうで、父様たちはハルナに会ってるんだよな……?」
フィリオは膝の上で指をぎゅっと組み、か細い声でうなずいた。
「うん……お父さまたちだけ、ずるいよね。ぼくたちも、早く会いたいのに」
扉の隙間からは、誰かの声がかすかに響いてくる。
その音に、二人の胸の鼓動がまた早くなった。
「ハルナって、どんな子かな。可愛いのかな……泣いたりするのかな」
エドワードが小声で続けると、フィリオは少し考えてから答えた。
「セレナお母さまのお手紙に、“おとなしくて、あまり泣かない子”って書いてあったよ。……でも、たまに笑うんだって」
「そっか」
エドワードの目がふっとやわらぐ。
「会ったら、優しくできるかな。ちゃんと“お兄ちゃん”になれるかな、ぼく」
フィリオは不安げに兄の袖をそっとつまむ。
「ハルナ、ぼくたちのこと好きになってくれるかな……もし泣いちゃったら、どうしよう」
エドワードはその手を軽く握り返し、肩をぽんと叩いた。
「大丈夫。もし泣いたら、一緒に泣いてやればいいさ。――それで、すぐ仲よくなれる」
廊下の向こうから、押し殺した大人の笑い声と、オルゴールのやさしい旋律がかすかに流れてくる。
ふたりは耳をすませた。
胸の内側がくすぐったく、少しだけこわい。
扉の向こうに待つ“初めて”を思い描きながら。
ーーーーー
廊下の奥、静かな扉の前でエドワードの鼓動が小さく跳ねた。
先導するオルランドが一礼し、取っ手に手をかける。
背後からカスパルがふたりの背をそっと押す。
「行っておいで」
短いひと言に、不安と期待がいっぺんに弾ける。
エドワードは息をのみ、弟フィリオと並んで――ゆっくりと、一歩を踏み入れた。
静かに扉が閉まる。
応接の喧噪は遠のき、部屋にはオルゴールのやわらかな調べだけが満ちている。
窓辺から差す光が、贈られた花飾りの影を床に落とし、空気ごと淡く染めた。
その光の一角に、ハルナはいた。
小さな膝にオルゴールをのせ、指先で花飾りの縁をそっとなぞる。
まだ幼いはずなのに、どこか澄んだ静けさをまとっていて
エドワードは思わず息を呑んだ。
「……ハルナ」
呼びかけに、ハルナはゆっくり振り向いた。
大きな深い紺色の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。
言葉はない。
けれど、その視線を受けた瞬間、胸の奥がじんと熱を帯びた。
エドワードは手元を見る。
朝露を閉じこめたような、小さな青い花。
悩みに悩んで選んだ、最初の贈り物だ。
「あの……これを。受け取ってくれると嬉しい」
緊張で、自分の名を名乗ることさえ忘れていた。
差し出した掌へ、ハルナの視線が落ちる。
小さな手が近づき、花をぎゅっと掴んだ。
その瞬間、エドワードの指先も一緒に包まれ、かすかな温もりが伝わった。
心臓がひときわ強く跳ね、エドワードは喉の奥で息を整えた。
小さな掌と、静かな部屋。
――気づけば、胸の奥が彼女でいっぱいになっていた。
「……ありがとう、ハルナ」
囁くと、ハルナはきょとんとしたまま花を胸に抱き、再びエドワードを見上げた。
その澄んだ瞳が、胸の底へすとんと落ちていく。
横で見守っていたフィリオは、無意識に椅子の縁で指をとん、とん、とん、と三つ叩いた。
小さな頃から、鍵盤を探すように指を動かすのが彼の習い性だった。
「……きれい。似合うね」
小さくこぼした声に、ハルナが瞬きをひとつ。
オルゴールの旋律が、三人のあいだをそっと結び直す。
エドワードは笑みをこらえきれず、けれど自分を戒めるように息を吐いた。
可愛い――その言葉では、もう足りない。
胸の内で芽生えたのは、もっと深くて温かいものだった。
光の粒が舞い、花の影が揺れる。
部屋には音楽だけが流れている。
けれどエドワードの胸には、初めて握りしめた幸福と、名もない約束が、静かに刻まれていた。
ーーーーー
兄エドワードの背中を見つめながら、フィリオは小さく息をのんだ。
勇気を出して歩き出したはずなのに、扉が閉じると、胸の奥に不安と期待がいっぺんに広がる。
足は小走りしたいのにぎこちなく固まり、指先だけが空中に見えない鍵盤をとん、とん、と叩いていた。
窓辺には陽が射し、オルゴールのやわらかな調べが流れている。
ハルナは小さな指で花飾りをなぞっていた。
幼いのに、不思議と落ち着いた横顔。
フィリオは思わず兄の背に半歩隠れた。
エドワードが青い花を差し出すと、ハルナはその手ごと受け取る。
花と小さな手が重なるのを見て、胸がきゅっと縮む。
……僕も、渡さなきゃ。
ぎこちなく画材箱を抱え直す。手のひらに汗がにじむ。
「……ハルナ」
呼ぶと、すぐに視線が来た。
まっすぐで、逃げ場がない。
顔が熱くなる。
最初は曲を贈ろうと思った。
けれど、自分の音はまだ心もとない気がして、胸がぎゅっとなった。
だから代わりに選んだのが、この画材箱だった。
うつむき気味に差し出す。
「これ、君に。たくさん色が入ってる。……よかったら」
ハルナは箱をのぞきこみ、色鉛筆を一本ずつ指でなぞる。
紙、絵の具、筆――順に触れて、ふとフィリオを見上げた。瞳が、わずかに光を増す。
小さな唇がやわらかくほどける。
微笑だ。
――喜んでくれた?
不安はまだ胸に残っている。
けれど、彼女の世界に新しい色がひとつ増えたように思えた。
その最初の一滴が、自分の贈り物なら、それでいい。
フィリオは胸の鼓動を数え、そっと息を吐いた。
ハルナは色鉛筆を抱きしめ、もう一度だけ彼に向かって笑う。
オルゴールの旋律が、箱の色と混ざり合う。
胸の奥がくすぐったく、でも少しだけ誇らしかった。