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春を謳う  作者: 葵
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小さな約束を胸に

朝の光が白い食卓布にひろがり、温い紅茶の湯気が静かにゆれた。

弁護士カスパルは、どこか落ち着かない足取りで食堂に現れると、椅子の背に手をかけたまま声を張る。


「おーい、エドワード、フィリオ、ちょっと来い!」


ぱたぱた、と小さな靴音。

金髪のエドワードがぱっと立ち、フィリオは兄の背に吸い寄せられるようについてくる。

二人が並ぶと、まるで絵本の挿絵のように整って見えた。


「見ろ、クラウスからの手紙だ」

カスパルは封蝋の残る便箋をひらりと掲げ、口の端だけでにやりと笑う。

「――数日後、セレスティア邸で。家族として、ハルナに会わせてくれるそうだ」


「ほんと!?」エドワードの目が一気に明るくなる。

「やった! いつ? いまから準備してもいい?」

「……ハルナ……」

フィリオは兄の影に半歩だけ隠れ、胸の前で指をきゅっと握った。

鼓動の音まで聞こえそうだ。


カスパルは指を三本、ひょいと立てる。

「準備期間は三日。長いようで、あっという間だ。――初めてだな、三人そろっての“ご挨拶”は」


エドワードの胸は期待でぱんぱんにふくらみ、フィリオは小さく頷きながらも視線を床に落とす。

父の声音には、どこか背筋を伸ばさせる響きがあった。


「泣かないかな?」「ぼく、ちゃんと言えるかな……」

兄弟の声が交互にこぼれる。


カスパルは二人の頭に片手ずつ、軽くぽんぽんと触れた。

「心配いらない。大事なのは、優しくすることと、約束を守ることだ」

父の声は低く柔らかい。

「大声は出さない。触れるときは許しを得てから。短い時間を、丁寧に――それで十分だ」


エドワードは胸を張り、フィリオはぎゅっと兄の袖を握る。

小さな顔に、それぞれの「よし」が宿っていった。


エドワードはこくこくと頷き、すでに視線は遠い。


なにを贈ろうかな。どうしたら喜んでくれるかな。


考えが先に走り、椅子を押す音もそこそこに廊下へ小走りに消えていく。


「兄さん……」

フィリオは、去る背中を見送りながら、テーブルの端の模様をそっとなぞる。

「ぼくも、練習しておこう。ことば……と、えっと……ごあいさつ」

小さな声で自分に言い聞かせると、今度は父の袖をぎゅっと握りしめた。


カスパルは視線を落とし、ふっと口の端をゆるめる。

「それで十分だ。お前の言葉は、きっと届く」


カスパルは眼鏡を指で持ち上げ、封蝋のセレスティア家章を指でなぞる。

その横顔には、仕事人らしい冷静さと、父親としての浮き立つ気配が同居していた。


「よし。準備しよう。服も、靴も、心もだ」


フィリオはこくりと小さくうなずく。


幼い二人の瞳に、すでに“会う日”の光が宿っていた。


カスパルはもう一度書状を読み返し、短く頷く。


――あと三日。

胸の鼓動を数えるには、少し長い。

けれど、会うと決まった朝は、それだけで十分に明るい。

春の国の小さな約束が、カスパル邸の一日を軽くした。


ーーーーー


午前の光が、五線譜のように窓枠を渡っていた。

音楽室の片隅、ロミオは窓辺の机に腰かけ、書きかけの楽譜の上で指をとん、とん、と鳴らす。

湯気の薄れたコーヒーをひと口。

ちょうどその時、控えの者が静かに扉を叩いた。


「ロミオ様、お手紙が届いております」


「ん? 誰からかな」


差し出された封筒には、見慣れた封蝋――セレスティアの印。

ロミオは眉をわずかに上げ、その場で封を切る。


『ハルナに会わせてやりたい。我が家に来てくれ』


文面を追い終えるより早く、頬がふっと緩んだ。

椅子がきい、と小さく鳴る。

立ち上がったロミオは、便箋を胸に当てて一周、部屋をひと回りする。


「やった……やっと、ハルナに会えるのか」


独り言が、自然と旋律になる。

窓の外の風の高さ、廊下の足音のテンポ、すべてが音楽に見えてくる。


「セレナが話していたあの子――どんな目をしているだろう。歌は好きかな、音には、どんな反応をする?」


書状をもう一度読み返し、今度は机にそっと置いた。

指先が、楽譜の余白を走る。

まだ言葉にもならない短いフレーズが、ひゅ、と生まれては消え、また戻ってくる。

ハミング。

二音、三音。小さな呼吸でつなぐ子守歌の芽。


「クラウス、ありがとう……」


低くつぶやくと、ロミオは視線を上げた。

あと数日。

会うまでの時間が、急に愛おしい。

支度は簡素でいい。

服も、心も、音も整えていけばいい。


「プレゼントも、ちゃんと考えておかないと」


言いながら、彼はペンを取り直す。

今この瞬間だけの光の調子を掬い取るように、楽譜に新しい音符が置かれていく。

遠い場所へ手紙が届くみたいに、やさしく、確かに。


その朝、ロミオは久しぶりに心から口笛を吹いた。

ハルナへ向かう音色は、彼の胸の中で、もう始まっていた。


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