小さな一歩、初めての声
執務を終えた宰相クラウスは、邸の一室に静かに足を踏み入れた。
薄青のレース越しにやわらかな光が落ち、小さな寝台の上でハルナがイリシアを見つめている。
透きとおる水晶玉から零れる光の粒を、まだ拙い瞳が追いかける。
泣き声は少なく、笑いも稀
――けれど、その眼差しだけは不思議と澄んで、まるで何かを考えているかのようだった。
クラウスは小さく息を吐き、胸の奥でひとりごちた。
「……お前は、光に問いかけているのか」
クラウスは寝台のそばに腰を下ろし、そっと抱き上げる。
最初に小さく身がこわばり、すぐに温もりを知ったように、重さが腕に馴染んでゆく。
無骨な掌が、不器用なほど丁寧に首と背を支えた。
「お前の瞳は、セレナに似ているな……」
独り言めいた低い声。
ハルナは父の顔をまっすぐ見上げ、細い指先を伸ばす。
頬に触れた瞬間、光を追っていた瞳がふっとゆるみ、小さな笑みが生まれた。
「……父さんは、不器用だ。だが、お前のことは、何より大切に思っている」
言葉の意味は、まだ届かない。
それでもハルナは胸元にそっと顔を寄せ、ほんのかすかな笑みをこぼした。
鼓動が一拍、二拍
――邸の静けさに重なっていく。
クラウスはぎこちなくも確かに、その小さな温もりを抱きしめた。
国を動かす頭脳が、ただ一人の娘に向けてだけ、柔らかな父の顔に戻る。
この小さな命が、彼のすべてを変えていく
――そんな予感とともに。
ーーーーー
クラウス邸の長い廊下に、小さな冒険者が現れた。
ころり、と床に両手をつき、つややかな板の木目をじっと見つめる。
指先で角の継ぎ目を確かめ、すべすべの床をすこし這っては、また立ち止まる。
やがて、思い切ったようにぐっと膝を立て、壁を手がかりに、よいしょ、と体を持ち上げた。
ぐらりと揺れる体を、必死に壁へ預ける。
――それでも、その瞳は前を見ていた。
まだ覚束ない足取り。
それでもハルナは、壁に小さな手をぴたりと当て、よいしょ、と一歩ずつ伝い歩きを始める。
扉の向こうの話し声、行き来する足音。
肩に荷を担いで厨房へ向かうグレン、薬包や器具を整えているシオン――。
小さな瞳は一人ひとりの動きを追い、時おり興味深げにその背を追いかけようとする。
けれど足はすぐにつまずき、慌てて壁へ寄りかかる。
見たいものに気を取られては、よろりとよろけ、また小さな手で必死に体を支える。
その危うい姿は、まるで廊下そのものが冒険の舞台であるかのようだった。
やがて力尽きたように、ぺたりと膝をつく。
今度は両手両膝で、するりと低く進む。
指先が廊下の冷たさを覚え、布の端や敷居の段差をひとつずつ学んでいく。
「……お怪我なさらぬよう」
オルランドは距離を取りつつ、視線で道の端から端までの安全を確かめる。
ルカは布を手に、いつでも抱きとめられる位置に立った。
エーデリアは気づかれぬよう、小さな障害物を端へ寄せる。
通りかかったグレンは「大丈夫、大丈夫」と笑ってみせるが、その目は決して離さない。
扉陰のジークは音の変化にだけ反応し、影のまま巡回の歩を緩めた。
シオンは瓶の栓をそっと閉じ、「転ばない薬があればいいのにね」と独り言のように笑う。
けれど――誰も、すぐには手を出さない。
歩きたい。自分で見てみたい。
そんな意思が、小さな背中からはっきり伝わっていたからだ。
ハルナは振り返り、見守る顔を一つひとつ見上げる。
まだ言葉にはならない“好奇心”と“安心”が、まっすぐに宿る黒い瞳。
その視線に、従者たちはそれぞれ微かに頷き、ただ道をあける。
廊下の先で、レース越しの光が静かに揺れた。
“守る”ことと、“見守る”ことの狭間――。
その小さな芽吹きが、クラウス邸にひそやかに息づきはじめていた。
ーーーーーー
穏やかな午後。
大広間に差す春の光が、いつもどおり静かな日常を照らしていた。
その日、ハルナは床を這っていた手をふと止め、廊下の片隅に落ちた小さな青い布切れに触れた。
指先が布のやわらかさを確かめる。
――それから、思い出したように壁へ手を伸ばし、ぐっと膝を立てる。
壁に掌を貼りつけたまま、ハルナはふらりと揺れる。
それでも足裏を床に据え、ぐ…っと小さな体の中心を探るように立ち直った。
黒い瞳は揺るぎなく前を見据え、幼い胸がひとつ、ふたつと規則正しく上下する。
「……立った、立ったぞ」
グレンの声が弾む。
鍋の蓋が跳ねるような響きに、エーデリアが思わず両の手を打ち合わせた。
「姫様はすごいな」
シオンは低く、けれど珍しく声音に喜びをにじませる。
記録帳を手にしたアルビスでさえ、一瞬だけ筆を止め、紙の上に微かな余白を残した。
「オルランドさん、ハルナ様が……!」
ルカの震える呼びかけに、オルランドはただ静かに頷いた。
その面持ちはまるで大事の場に臨むように厳しく、けれど瞳の奥にはわずかな安堵がにじんでいた。
次の瞬間――ハルナは、右足をすこし前へ。
からだ全体がきしむように揺れ、左足が追いかける。
たった一歩。けれど確かな一歩。
そして、ぺたり、と座り込む。
沈黙がひと呼吸、弾ける。
「やった! 姫、すごいぞ!」
「すごいぞ! お嬢!」
「……これでますます目が離せませんね」
拍手は短く、すぐに静けさが戻る。
フェルは弦を一度だけ爪弾き、控えめな音を小さな祝辞の代わりとした。
ハルナは驚いたように皆んなの顔を見上げる。
何が起こったのかはまだわからない。
けれど――いつもより、ほんの少しだけ、口元が笑った。
こうして、ハルナの『初めての一歩』は、邸に小さな拍手と微笑みを残した。
その響きは、ほんの一瞬の出来事でありながら、屋敷の空気を確かにあたためていた。
クラウスは、ハルナが歩いたと聞くや否や執務を放り出し、すぐに彼女のもとへ駆け寄った。
そのまま数時間、傍に付き添ったものの、ついに歩く姿を見ることはできなかった。
表情はいつも通り冷静だったが、肩がわずかに落ちていることは、誰の目にも明らかだった。
そして数日後。
ハルナがふらつきながらも、自らの足でクラウスの方へ歩み寄った。
その瞬間、彼は決して表情を崩さなかった。
だが、広間に立つ肩は小さく震えていた。
その夜、机に向かうクラウスの前には、セレナ宛ての便箋が一枚。
震える指先で、彼はようやく最初の一文を書き出した。
ーーーーー
ハルナが立てるようになってから、屋敷の空気はどこか軽やかだった。
小さな仕草ひとつに、従者たちもクラウスも、思わず目を細めてしまう
――そんな日々が続いている。
ハルナは、少しずつ確かに成長していた。
その朝。
廊下の陽だまりに座り込み、指先をじっと伸ばしている。
窓辺には一匹の猫が丸くなり、柔らかな光を浴びながら尻尾だけをゆったりと揺らしていた。
ハルナはその様子を見つめ、小さく息を吸い込む。
そして――まだ頼りない唇が、かすかに形をつくろうと動いた。
「……にゃん」
空気がぴたりと止まった。
最初に目を見開いたのはルカ。
フェルは思わず仮面を押さえ、
エーデリアは驚きに目を丸くする。
シオンは珍しく肩の力を抜き、
扉陰のジークは思わず歩みを止めた。
グレンは声にならぬ息を呑み、
アルビスの手帳が――ぱさりと、勝手に一枚めくれた。
「今、仰いましたよね……?」とルカ。
「お嬢、いま言ったよな?」とグレン。
「聞き間違いではないな」エーデリアは真顔のまま頷いた。
「可愛い音色だ」フェルが低く笑う。
ざわめきを縫って、クラウスが歩み寄る。
そっと抱き上げ、胸のあたりで目線を合わせた。
「ハルナ」
深紺の瞳が父を映す。
小さな口が、もういちど形をつくる。
「……ぱ……ぱ」
一拍の沈黙。次いで、ハルナの口元にかすかな笑みが咲いた。
クラウスの呼気が揺れる。
「……ハルナ……」
声が、わずかに震えた。
オルランドは静かに目礼し、ルカは胸に手を当て、グレンは小さく拳を握る。
アルビスはペン先を止め、短く記す――
「記録:初発声『にゃん』『ぱぱ』。時刻: 13時17分、場所:広間、証人:クラウス様、従者一同。」
ジークは誰にも聞こえぬ声で「よくやった」と囁き、シオンは微笑した。
歓声は上げない。拍手もない。
けれど、その朝から
――「にゃん」と「ぱぱ」。
二つの小さな音が、ハルナと世界をつなぐ最初の橋になった。
屋敷には、いつもより柔らかな時間が、長く長く残った。