誕生日に舞う光
その後も、セレスティア家の屋敷の熱は続いていた。
廊下の端では白布が風に鳴り、台所では銅鍋が低く歌い、出入りの帳面には細かな文字が一行ずつ増えていく。
贈り物の仕分け、警備の再点検、催し物の確認
――誰もが小走りに一日を駆け抜け、クラウスは全体の呼吸を静かに整えていた。
――けれど、その中心にいるはずのハルナは、静かな寝室でほとんど眠ってばかりいた。
毛布の端を小さな手でぎゅっと握り、規則正しい寝息を立てながら。
窓辺の花瓶には、旅先のセレナから届いた色鮮やかな花が生けられていた。
ハルナは目を覚ますたび、小さな指で花弁をそっと撫でる。
香りがかすかに鼻先をくすぐると、長い睫毛が影を落とし、再び静かな眠りへと沈んでいった。
最初こそ、泣かぬことに従者たちは不安を募らせた。
だが今では、その寝顔の愛らしさが彼らの胸を和ませることも多い。
――それでも、泣き声の少なさと笑顔の希薄さに、密かに戸惑いを交わす声は消えてはいなかった。
「本日も、ほとんどお泣きにならず」
ルカが帳面を閉じて低く報告し、
「数値は全部正常。眠りが少し長いくらい」
シオンが体温表を指で軽く弾く。
「セレナ様の花だけは、必ず触れているな」
エーデリアが窓辺に目をやり、
「へぇ、もう“お気に入り”を持ってるのか」
グレンが声を潜め、わずかに笑った。
屋敷の騒がしさは日ごとに増す。
だがハルナは、そのただ中で、花のそばを自分の静かな場所に選び続ける。
喧噪と静けさが同じ屋根の下で折り重なり、やがて一つの呼吸になる。
――ハルナの長い眠りと、時折の花に触れる仕草。
それは忙しさの中で誰もが見落としがちな穏やかな奇跡として、この家の芯に根をおろし始めていた。
――そして、迎えた当日。
ーーーー
ハルナがこの世に生を受けて一年目のその日、王国スカーレディアは朝から浮き立っていた。
屋敷近くの街路には旗と花飾りが連なり、遠方からの贈り物と祝詞が次々にクラウス邸へと運び込まれる。
なかには幼い令嬢を「家の娘に」「息子の許嫁に」と願い出る書状まで混じっていた。
――けれど、屋敷の内は外のざわめきを遠ざけ、まるでひとつの揺りかごのように穏やかな静けさに包まれていた。
「……今日だけは、静かにハルナの一年を祝う。余計なものは遠ざけよ」
クラウスの低い声が、全館の呼吸をひとつに整える。
その声に応じるように、廊下を行き交う足音は自然と静まり、扉の開け閉めまでもがやわらかく整っていった。
――そして穏やかな静けさのただなか、小さな寝室には、今日の主役が安らかに眠っていた。
大広間では、ルカとグレンが飾り付けを手際よく整えていた。
布の張り具合や卓上の器の角度まで確かめ、互いに短く言葉を交わしながらも動きは淀みない。
フェルは隅で弦を合わせ、柔らかな前奏を零していた。調べはまだ音探しに過ぎないが、空気にかすかな色を与え、場の緊張を和らげていく。
姿を見せぬジークは巡回を重ね、要所ごとに鋭い視線を落とした。
廊下の影から扉の蝶番に至るまで、ひとつ残らず警戒の網にかけていく。
シオンは祝いの菓子に、消化を助ける薬草を気づかれぬほどに仕込み、胸元には万一に備えた薬包をそっと忍ばせた。
準備の手は軽やかだが、目だけは鋭く全体を測っている。
壁際に立つエーデリアは会場図を脳裏に重ね、死角を一つひとつ確認していた。
視線は客席の列だけでなく、窓の高さや段差にも巡り、手元の剣布をわずかに締め直す。
アルビスは祝いの品と出欠の記録を清書していた。筆先は揺れず、行ごとに整えられた文字が白紙を埋めていく。
記録に映るのは事実だけ
――私情は一切、紙の外に置かれていた。
そして――その中心に、ハルナがいた。
静かな寝息と小さな仕草だけで、この屋敷のすべてをひとつに束ねる存在として。
「ハルナ。誕生日おめでとう」
クラウスは慎重に小さな身体を抱き上げる。
その重みを腕に確かめるように一瞬目を閉じ、静かに額へと口づけを落とした。
従者たちも順に近づき、不器用な動きのまま、それぞれの仕方で小さな祝福を置いていった。
オルランドは一歩前に進み出て、背筋を正した。
「お嬢様――本日、こうして一年の佳き日を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
深く頭を垂れ、その声音は静かに広間へ染み渡る。
「どうか、これからの日々が健やかに、そして穏やかに重なっていきますように」
ルカはオルランドに続き静かに歩み出た。
「ハルナ様、この一年を穏やかに過ごされておられること。従者として、何よりの安堵でございます」
一礼して言葉を継ぐ。
「これからも私は見守り続けます。ハルナ様の歩みが、一日も欠けることなく重ねられていきますよう、尽くしてまいります。どうかこれからも穏やかであられますよう」
ジークは片膝をつき、鋭い眼差しを伏せるようにして言葉を置いた。
「ハルナ様――この一年、無事に過ごされたこと。それが何よりのこと」
短く息を吐き、拳を胸に当てる。
「これからも誰ひとり近づけはしない。ハルナ様の安らぎを、必ず守り抜きます」
シオンは歩み出ながら、薬包を指先で軽く弄んでみせた。
「ハルナ様――泣きもせず、よく眠り、すくすくと一年。医務役としては、まるで仕事を取り上げられたようで退屈ですよ」
わざと肩をすくめ、しかし声を和らげる。
「だからこそ、ありがたいことです。これからもどうか、健やかに。……僕の薬が必要にならない日々が、ずっと続きますように」
エーデリアは大剣を胸に立て、ひざを折る。
「ハルナ様――この一年を迎えられたこと、心からお祝い申し上げます」
言葉は凛と澄み、どこか物語の一節のようだった。
「私は御身の騎士として誓います。闇が迫ろうとも、嵐が荒れようとも――必ずその傍らに立ち、光を護り続けます」
フェルは仮面に手を添え、軽やかに一礼した。
「ハルナ様――この一年は、まるで幕が上がる前の調べのよう。静かでありながら、確かに響きを残しました」
糸を爪弾くように指をわずかに動かし、続ける。
「これから続く楽章が、どうか澄んだ音色で満ちますように。私もその一音を逃さず、心に留めましょう」
グレンは大きな体を折り、深く礼を取った。
「ハルナ様、この一年を健やかにお過ごしになられましたこと、心よりお慶び申し上げます」
低く響く声は穏やかで、揺るぎがない。
「これからも執事として、日々の務めを怠らず、姫様の歩みを陰より支え続ける所存にございます。……私にできることは小さいですが、すべてを込めて」
アルビスは帳面を脇に抱え、静かに歩み出た。
「ハルナ様、この一年のご成長を、記録として確かに残しております」
抑揚のない声は、それでもどこか柔らかさを帯びていた。
「今後も一日も欠かすことなく、その歩みを記し続けましょう。――私にできる精一杯の祝福にございます」
屋敷の外では祝賀の列がまだ続いていたが、ここには小さく確かな幸福が満ちていた。
従者たちの言葉を受けたハルナが、まるで言葉に応えるように、小さな反応を見せる。
静かに顔を上げ、窓辺のセレナから届いた花へ指をのばす。
花弁が頬をかすめ、長い睫毛がふるりと揺れた。ほんのわずか、口元が緩む。
その一瞬――誰の胸にも、ささやかな祈りが報われた。
忙しさも思惑も、屋根の外へと遠のいていく。
この静かな時間こそが、屋敷の誰にとっても、そしてハルナ自身にとっても、紛れもない“祝福”だった。
ーーーーー
夜の気配が屋敷を包み、祝いのざわめきはとうに遠ざかっていた。
寝室の窓辺には、まだセレナからの花が静かに咲き、淡い香りを漂わせている。
クラウスは小さな包みを手にして、そっと寝台に近づいた。
「……セレナからだ。今日の祝いにと託されたものだ」
声は低く、眠る娘に届くか届かぬかのほどにやわらかい。
包みを解くと現れたのは、透明な水晶玉を中心にした小さな飾り――
〈イリシア〉。
光を受ければ無数のきらめきが生まれ、壁や天井を虹の粒で染める、繊細な細工だった。
クラウスは窓辺の灯を少し傾け、光を玉に触れさせた。
瞬間、部屋いっぱいに淡い光の破片が舞う。
春菜のまぶたがかすかに揺れ、小さな瞳がゆるりと開いた。
天井を踊る光を追いかけるように、幼い目が動き
やがて、ほんのわずかに生まれて初めて見せたように口元が綻んだ。
クラウスはその表情を見て、胸の奥に静かな温かさを覚えた。
「……セレナの願いは、お前が自由に育つことだ。光を追い、好きな色を見つけてゆけ」
春菜は再び目を閉じ、手を伸ばしかけた指先を毛布の上に落とした。
虹の粒はまだ壁に踊り、幼い寝息を優しく包んでいる。
クラウスは〈イリシア〉を窓辺に吊るし、最後に娘の髪を撫でた。
その夜、邸の静けさの中で輝き続ける光は母の想いと父の祈りを結ぶ、小さな灯火となった。
――誕生日に舞う光