祝福の輪
クラウス邸に、ほのかな笑い声が差し込んだ。
扉を押し開けて入ってきたのは、セレナの第二の夫にして王国随一の弁護士、カスパル。
堅実さと洒脱さを同居させ、どんな場でも硬さを解きほぐし、人を笑わせる術を心得ている。
そして何より――一度決めた道を真っすぐに突き進む、揺るがぬ性格の持ち主だった。
「クラウス、祝いに来たよ」
カスパルは控えめな琥珀酒の瓶を差し出し、クラウスの肩を強く抱いた。
「ずいぶんと顔が変わったな。父親の顔だ。……娘が生まれたのなら、無理もないが」
クラウスは短く笑い、瓶を受け取る。
「口が減らんな。だが悪くない言葉だ」
その後ろから、楽譜を胸に抱え、どこか夢見心地のまま足を運ぶ影がひとつ。
第三夫――元宮廷楽師にして、今は自由に活動する若手人気作曲家ロミオ。
近年はセレナの楽曲を手がけることが多く、その名をさらに広めていた。
掴みどころのない性格で、何を考えているのか誰にも分からない。
だが気まぐれの裏には確かな才気があり、旋律を生む手腕は“天才”と呼ぶにふさわしいものだった。
「僕からは曲の贈り物さ。新しい命の誕生に――気づけば旋律が降りてきていたんだ」
クラウスは思わず目を細めた。
「……お前らしいな、ロミオ」
低い声には、静かな優しさがにじむ。
「お前が生み出す旋律は、それだけで宝だ。……きっとハルナも、この曲に包まれて育つことになるだろう」
クラウスは二人を迎え入れ、短く礼を述べた。
「ありがとう。ハルナは元気に育っている。――君たちにも早く会わせたかったが、女児誕生から十か月の間は、神官の祝祷以外に屋敷へ招くことは許されぬ。そして……例の掟がある」
掟――それはどれほど近しい異母家族であっても、女児に会えるのは一歳から。
年に一度だけの、限られた数時間。
例外として会えぬ年があっても、会える日が増えることは決してない。
「もちろん承知しているよ」
カスパルはうなずき、息を弾ませるように言葉を重ねた。
「で、ハルナの調子はどうだい? 今は自室にいるんだろう? 好きなものは? いや、それより嫌いなものを知っておくべきか……。体調は崩していないよな? ああ、それで結局どっちに似てるんだ?……うちのチビたちも会いたがって仕方なくてね!まさかもう喋ったりしてないだろうな!?」
矢継ぎ早の問いかけに、ロミオは肩をすくめて机の端をトン、トンと軽く叩き、拍を取った。
「……カスパルは相変わらずせっかちだね。赤ん坊に質問攻めは酷だろう」
そう言ってから譜面に数小節を書き足し、さらりと続ける。
「今ハルナは眠っているんだろう? だったら“扉の外まで”で十分さ。眠りを壊すのは一番の罪だからね。……その代わり、僕の曲を置いていく。きっと目覚めた時に、世界が少しやさしく響くだろう」
クラウスは思わず口元を緩めた。
矢継ぎ早に場を賑わせるカスパルと、夢を追うように言葉を零すロミオ――。
昔と変わらぬ二人の姿に、胸の奥に静かな安堵が満ちていった。
杯に琥珀酒が静かに満ち、譜面紙が指先でさらりと鳴った。
夜気はやわらぎ、言葉もやわらいでいく。
――小さな命をめぐる夜は、祝福の響きに包まれていた。
「次の家族の集まりは、広間を整えて開こう。そこで二人の息子にも会わせる。規則の範囲で、だが」
クラウスがそう言うと――
「感謝する、息子達にも伝えておこう」
カスパルは微笑を深め、視線を一瞬だけクラウスの横顔に置いた。
「心配はいらない。君の娘は必ず立派に育つ。……親の顔を見れば子がわかる、というからね」
ロミオは譜面を指先でとんと叩き、軽やかな声で言った。
「輪が広がるのは、悪くない。波が重なって、大きな和音になる」
「……本当に、君たちの支えがあって、今の我が家がある」
クラウスが静かに言うと、カスパルは軽く杯を掲げた。
琥珀酒の香りと、杯と旋律の余韻。
和やかな気配が夜の屋敷に広がり、家という輪郭が、もう一重、確かに濃くなっていった。
その静けさを胸に抱え、クラウスもまた盃を置いた
夜が静かに更けていった。
ーーーー
クラウス邸から戻ったカスパルは、自宅の客間に腰を下ろした。
窓から差す光が花器に反射し、床へやわらかな影を落とす。
厚い硝子窓の向こうでは、白く霞む庭の奥から馬の嘶きがかすかに届く。
暖炉の炎が花器の影を揺らめかせ、冬の夜にひとときの温もりを添えていた。
話題はただ一つ――“新たな命”。
カスパルの視線の先で、息子たちは待ちきれぬように椅子の縁で身を揺らしていた。
兄エドワードは背筋を正して座っていた。
一見落ち着いて見えるが、膝の上で握った拳が小さく動き、胸の奥のそわそわを隠しきれていない。
一方の弟フィリオは、肘掛けの縁を指でなぞり、足をぶらぶらさせながら小さな音を刻んでいた。
落ち着かない仕草は幼さのあらわれだが、その瞳には兄と同じく、待ちきれない期待が宿っていた。
「父様、本当に僕たちもクラウス叔父上のお屋敷へ行けるのですか? ハルナにやっと会えるのですか……?」
抑えた声の奥に、待ちわびていた喜びがにじんでいた。
「落ち着け、エドワード」
カスパルは困ったように微笑む。
その口ぶりとは裏腹に、息子が見せる成長の熱に、どこか誇らしげに目を細めていた。
フィリオは椅子の肘掛けをきゅっと握りしめ、うつむきながら小さく囁いた。
「……ぼく、人見知りだし。お祝いの言葉、ちゃんと言えるかな……」
声はか細く震えていたが、その奥にはハルナに会いたいという思いが確かに宿っていた。
エドワードは弟を見やり、穏やかに胸を張る。
「大丈夫。僕がそばにいるから安心して。失礼のないように振る舞えばいい――それに、僕たちのお姫様は、きっと誰よりも可愛いに決まってる」
フィリオは視線を落としながらも、ふっと微笑む。
「じゃあ……“おめでとう”の曲、作ってみる。短い方が、赤ちゃんは疲れないよね」
カスパルは二人を静かに見守り、手を伸ばしてそれぞれの頭を軽く撫でた。
「ハルナは、きっと君たちを好きになる。無理に飾らなくていい。……そのままの君たちで向き合えば、心を通わせられる」
続けて、声を和らげながらもきっぱりと告げる。
「ハルナの自室への入室は厳しく限られている。当日、私たちが入れるのは広間までだ。時間も長くは取れない。だが――少しでも会える、それだけで大切なひと時になる。だから二人は、ハルナに贈る“最初の贈り物”を考えておきなさい。君たちらしいものであれば、それで十分だ」
「了解したよ、父様。最高のものを用意する」
エドワードは立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばした。
胸の前で拳を固く重ね、決意を刻むように深く息を吸い込んだ。
フィリオは見えない鍵盤を指で辿り、静かに拍を刻んでいた。
その瞳はどこか遠くを見つめ、頭の中で小さな旋律を織り上げている。
――ハルナに贈る曲を、すでに心の中で紡ぎ始めているのだ。
カスパルは二人の横顔を見つめながら、胸の内で“家族”という奇跡をそっと噛みしめた。
やがて訪れる面会の日を思い描きながら――この家の空気は、静かに、そして確かに温もりを増していった。
ーーーーー
セレナは公演前、楽屋の鏡の前で手紙を読み返した。
胸元に、タンザナイトのペンダントがひと雫ひかる。
意匠は、娘に託したものと揃えてあった。
セレナは手紙をたたみ、胸元のペンダントを指先でなぞった。
「……ハルナは、相変わらずあまり泣かないのね。朝も昼も夜も関係なくよく眠って、皆が戸惑うくらい。ふふ、みんなハルナを自由にしてくれてるわ」
その言葉に寄り添うように、背後から声が落ちてきた。
「自由に育つ子か……まるで君の歌みたいだ」
楽団のマントを肩に掛けたロミオが顔を上げる。
「話を聞いただけで旋律が浮かぶ。……あの子は、不思議な響きを持っている」
セレナは微笑み、ペンダントに触れた。
「このタンザナイトを渡したとき――ほんの一瞬だけ、口元がやわらいだの。
……赤ちゃんでも、想いはちゃんと届くのね」
「母の声は、骨まで届く」
ロミオは微笑むでもなく、ただ譜面に二小節を書き足した。
そこに浮かんだ旋律は、海のように深く静かだった。
楽屋の扉が叩かれ、公演の始まりを告げる声が響いた。
セレナは深く息を吸い、胸元のペンダントをそっと押さえる。
ロミオは譜面を抱え、軽く肩をすくめて微笑んだ。
言葉はもうなかった。
残されたのは、ペンダントの温もりと、譜面に落ちた静かな旋律。
――舞台へ向かう一歩ごとに、その響きは確かに遠い娘の胸に重なっていくようだった。