第9話 勉強会
「市民会館ってこんな感じなんだね。……なんか、想像の十倍は立派な建物だね」
「……うん、でかいな。普通の公民館を想像してたんだが……」
西川市民会館。
最大収容人員五百人のホールを三つ、展示室・会議室・調理室・図書室等を備えた公民館であり、老若男女問わず市民の交流と憩いの場として親しまれている……らしい。
市民会館という言葉の響きから、平屋のこじんまりとした建物を想像していたのだが、実際に目にした建物はそれを遥かに上回る規模のものだった。
近代的な鉄筋コンクリート造りの建物に、ガラス張りの開放感のある外壁。
自動ドアを通り抜け、まるで高級ホテルのような広々としたエントランスホールに足を踏み入れる。入口すぐ近くのロビーには案内カウンターが設置され、職員さんがにっこりと笑顔で出迎えてくれた。
軽く会釈する俺とぺこりと頭を下げる明瀬さんに、職員さんの笑みが深くなった。
俺たちの容姿と荷物から学生だと察したのか、「学習スペースは二階ですよ」と教えてくれた。ありがたい。
「二階か。階段とエレベーターがあるみたいだけど」
「そのぐらいなら階段で行こうよ」
上階へ続く階段を登っていると、壁面に展示されているポスターに目を留めた明瀬さんが声を上げた。
「見て、あれ。小学生向けかけっこ教室だって!」
「へぇ……市民会館ってそういうのもやってるんだな。こっちは……健康志向スムージー作り講座?」
「ちょっと興味あるかも……」
こうして見ると意外と面白そうなイベントが多い。料理や手芸のような定番のものから、かけっこ教室やスムージー作り、掃除の極意教室などバリエーション豊かで、市民に広く開かれた場であることを実感する。
興味をそそられるが、今日の目的はそちらではない。
「ここだな」
ほどなくして目的の場所が見えてくる。
「自由学習スペース」と書かれたドアを開くと、そこには予想していたものと少し異なる光景が広がっていた。
「……自習室って言うより、お洒落なカフェみたいだね」
「……確かに」
明瀬さんの感想に頷きながら、室内を見回す。
ふかふかのカーペットの上に木製の丸テーブルと色違いのチェアが整然と並び、目に優しい暖かい色合いの照明と、大きなガラス窓から降り注ぐ陽光が部屋全体を柔らかく照らしている。
あしこちに他の利用者も散見され、俺たちのような学生だけでなく、黙々と参考書に打ち込む社会人の姿も見られた。
本のページがめくられる音やペンが紙の上を滑る音、小声で会話を交わす音、その合間に小さく聞こえるピアノジャズのBGM。
決して賑やかではないが、しんとした緊張感に包まれているわけでもない。
「いい雰囲気だな」
「だね。これなら集中できそう」
頷き合って、陽光が直接当たらない位置にある机に向かい合って腰掛ける。
机の上に教科書やノートを並べながら、明瀬さんが口を開いた。
「それじゃ、わからないこととかがあれば都度相手に聞くってことで! お互い頑張ろうね」
「わかった。まぁ聞くのはほとんど俺になるだろうけど……」
というわけで、勉強会スタートである。
せっかくの明瀬さんに教われる機会なので、今日は苦手科目の数学と理科を中心に勉強するつもりだ。
高校から数学が数学1と数学Aに分かれ、それぞれを一つの科目としてテストが行われるため、実質二教科分の勉強をする必要がある。
一学期の中間であれば普通なら中学で学習した内容がそれなりの割合を占めるのだろうが、うちの学校は五月の新入生テストで既に消化してしまっている。
それを易化と見るか難化と見るかは人によるが……元々数学を苦手としている俺としては後者の意識が強い。
教科書とノートを開いていつでも公式等を確認できるようにした上で、学校から配布されたワークの問題を解く。
しばらく紙をめくる音とシャーペンの音だけが響き……少しして、俺の手だけが止まった。
うーん、いや、これは……聞いてみるか……。
チラリと明瀬さんに視線を向ける。
真剣な顔で机に向かう彼女の姿は、普段の明るく元気な姿や俺の前で時折見せる悪戯好きな姿とは、また違うギャップがあるように思えた。
明瀬さんの手が止まった時を見計らって質問しようと思っていたのだが……そんなことはいつの間にか頭から吹っ飛んで、俺は完全に見惚れてしまっていた。
ふと、俺の視線に気づいたのか明瀬さんがこちらに目を向けた。
「ん、どうしたの? 何か質問?」
「あっ、あぁ……んんっ。ここなんだけど、教科書の解説を見ても何で間違えてるのかわからなくて」
「んー……あぁ、なるほどね。ここはまず……」
俺の質問を受けた明瀬さんは自分の教科書をぱらぱらとめくると、あるページをこちらに見せてきた。
そこは俺が見ていたページとは違う、章末の発展的な内容が書かれたページだった。
改めて目を通してみれば、確かに俺が詰まっていたものと同じ形式の問題を取り上げて解説が行われている。
「ここだけ見てもわかりづらいんだけど、わかりやすく書くと……」
言いながら、彼女のペン先が教科書に書き込まれた丸っこい手書き文字の注釈をなぞる。
それを読んでみると、確かに難解な記述を咀嚼しやすくなったように感じた。
「なるほど……。ありがとう、よくわかったよ。その書き込みもわかりやすくていいな」
「こんなの落書きみたいなものだよ。私も元々勉強が凄く得意ってわけじゃないから、自分の考えたこととか思いついたことをメモするようにしてるの」
謙遜するようにはにかむ明瀬さんだったが、それは紛れもなく彼女の努力の表れだ。
称賛されこそすれ、侮っていいものではないだろう。
……とはいえ、ここで言い募っても困らせるだけだしな。俺の内心で褒めちぎっておくことにしよう。
それからも俺たちは勉強を続け、気付けば時間は正午を回っていた。
やはり環境がいいのか、これまでにないほど集中を切らさずに勉強に打ち込めていた実感がある。
わからないところにぶち当たる度に明瀬さんに質問して疑問を解消しながら進められて、俺の勉強は非常に捗った。
しかし一方で、明瀬さんの方からこちらに質問してくることは一度もなかった。
まぁ明瀬さんですらわからない問題を俺が解けるとは思えないのだが……勉強会と銘打った場で頼りきりになってしまっているのは、流石に申し訳ない。
「んぅ~……っ。集中してるとあっという間だね。そろそろご飯にしよっか」
「そうだな。……なんか、ごめん。勉強会なのに俺だけ聞いてばっかりで」
そう言って頭を下げると、明瀬さんは慌てて手を振って、
「そんなことないよ! 私も柳田くんに教えることで私も自分の考えを整理できるし、人に教えることで記憶に強く焼き付くってよく言うでしょ? ちゃんと私のためにもなってるから!」
「そ、そうか。それならいいんだが……」
必死に言い募る明瀬さんに思わず気圧されてしまう。
確かに、他人に勉強を教えることで復習効果が高まり、記憶が定着しやすくなるというのはよく言われることだ。
やはり居心地の悪さは拭えないが……彼女自身が役に立っていると言うのならこれ以上あれこれ言うのはただの自己満足だ。遠慮なく頼らせてもらうとしよう。
「そんなことよりも、午後からも戦い抜くためにしっかり腹ごしらえしなきゃ! はいこれ、柳田くんの分ね」
「ありがとう……!」
明瀬さんが取り出したランチバッグを拝むように受け取る。
現金なもので、明瀬さんのお弁当目の前にして先程までのもやもやはどこかへ吹き飛んでしまった。
いそいそとバッグを開けると、中には弁当箱サイズのバスケットかごが納められていた。
「これは、もしかして……」
その外観から中身を予測できた俺は、微かに震える手で蓋を開ける。
すると予想通りの、けれど予想を遥かに超える光景が広がっていた。
「すげぇ……!」
「今日は勉強会だから、手軽に食べられるサンドイッチ弁当にしてみました!」
思わず漏れた驚嘆の声に、明瀬さんは朗らかに笑う。
ぎっしりと詰まったバスケットの中には、色とりどりのサンドイッチが丁寧に並べられていた。
具がよく見えるように断面を上向きに盛り付けられ、一つ一つが薄い紙──後から聞いたところワックスペーパーと言うらしい──に包まれて手が汚れないようにしてくれているのもありがたい。
一番に目を引いたのは、ふわふわの白パンにぎっちりと挟まれた分厚い照り焼きチキンとレタスのサンドだ。
てらりと光るタレがしみ込んだ肉厚の鶏肉と、みずみずしい彩りが絶妙なコントラストを作り出している。とんでもなく美味そうだ。
その隣には、ハムとたまごサラダ、レタスが挟まれたオーソドックスなサンドイッチ。彩りも鮮やかでめちゃくちゃ美味そうだ。
そして最後にこれまた定番のツナマヨきゅうり。ツナがたっぷりと詰められていてこれもはちゃめちゃに美味そうだ。
逸る心をどうにか押さえつけて、しっかりと手を合わせる。
「いただきます……!」
「はい、召し上がれ♪」
最初に手を伸ばしたのは、当然照り焼きチキンサンドだ。
口元に近づけただけで漂ってくる香りに、空きっ腹が小さな音を立て、涎が溢れてくる。香りだけでこれならば、口に入れたらどうなってしまうのだろう。
意を決して大きく齧り付き……俺は思わず声を上げてしまった。
「うっっま……!」
分厚いチキンが想像以上のジューシーさでもって俺を歓迎し、甘辛い味付けの濃厚なタレのうまみがガツンとした洗礼を加えてくる。
そのあまりにも鮮烈な味に硬直してしまった口を無理矢理に動かして咀嚼すれば、シャキシャキの新鮮なレタスがその食感と爽やかさでもって絶妙なアクセントを与えてくれた。
計算され尽くした味のハーモニーに、俺は酔いしれていた。
「柳田くん……喜んでくれるのは嬉しいけど、ちょっと声が大きいかも」
「……ごめん、取り乱した」
あまりの衝撃に公共の場所だということを忘れていた。
一応言っておくとこの学習スペースは飲食自由である。事前に妹に確認していたので問題ない。
反省して黙々と食べ進めていると、あっという間に一切れ食べ切ってしまった。余程残念そうな顔をしていたのか、対面の明瀬さんがくすくすと笑う。
「柳田くんってほんとに美味しそうに食べてくれるよね」
「実際美味いからな。……こんなにいいものを毎週食べられると思うと、舌が肥えて大変そうだ」
改めて、自分がいかに幸福な立場にあるかを実感する。
「私は毎日でもいいんだけどなー」
「嬉しいけどそれは遠慮させてほしい、切実に。そうだ、このお弁当の代金も後で払うよ」
元々明瀬さんにお弁当を作ってもらう代わりにその費用を支払うという約束だったのだ。
休日のことで約束の適用範囲外かもしれないが、無料でこれほどの品を頂くだけというのは俺の気が済まない。
「そんなのいいよ! 私が好きで作っただけなんだし……」
「それでも受け取ってほしい。その……今日は俺が昼飯を奢るつもりで、色々と調べてたんだ。その埋め合わせって言うとおかしいけど、そんな感じで。頼む」
俺の懇願に明瀬さんはうーんと悩んでいたが、やがて諦めたように溜め息を吐いて、
「……わかったよ。じゃあ今回は”私が奢ってもらった”ってことで、受け取っておく。それでいい?」
「あぁ、助かるよ」
受け入れてくれてよかった。
ほっと胸を撫で下ろす俺に、明瀬さんは苦笑を浮かべる。
「柳田くんってほんと律儀で、頑固だよね。お金払って安心するの、ちょっとおかしくない?」
「頑固というか、小心者なだけだ。もらってばかりだと落ち着かないんだよ」
だから気にしなくていい、と首を振ると、明瀬さんも仕方なさそうに肩を竦めた。
軽い談笑を挟みながら弁当を食べ終わり、腹ごなしがてら他愛もない雑談を続ける。
現在の話題は、昨日橋本が別れ際に残した捨て台詞についてだ。
「いつの間にか中間テストの点数で勝負を仕掛けられててな。受けてやる義理はないんだが……それはそれとして、あいつに負けるのは癪に障る」
「男の子の意地ってやつ? そういうのなんかいいね。……そうだ!」
唐突に何かを思いついたように、ぽんと手を合わせる明瀬さん。
……何だか嫌な予感がする。
「私たちも勝負しようよ! テストの点数で!」
「……俺と明瀬さんじゃ勝負にならないと思うけど」
「そんなのやってみなきゃわかんないでしょ? それで、勝った方が相手に何でも一つ言うことを聞いてもらえるの!」
案の定である。
この数日で彼女が突拍子もないことを言い出すのには慣れたつもりだったが、まだまだ序の口だったらしい。
一応抗弁しようとするが、その爛々と輝く瞳を見て諦めた。有無を言わさない不思議な圧力を感じた。
テストの点数で勝負、とは言うが、俺と明瀬さんの実力には天と地ほど……というのは言い過ぎにしても、覆しようのない差が存在する。
彼女に勝利することは実質不可能、試合放棄も却下される。
故に考えるべきは、負けた後にどうするべきか。適切なダメージコントロールを行い、被害を最低限に抑えるのだ。
「……ちなみに明瀬さんが勝ったら、俺に何をさせるつもりなんだ?」
苦渋の滲み出た声で問えば、明瀬さんはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりににっこりと笑って、
「私が勝ったら、柳田くんには私のことを名前で呼んでもらいます」
「……陽華さん?」
「まだ勝負は始まってないよ! さん付け禁止! 呼び捨て!」
「…………は、陽華」
「んん……っ! わ、私が勝ったらそれを常時続けてもらいます! 二人きりの時はもちろん、学校のみんなの前でも! あっ、もちろん私も君のこと名前で呼ぶからね!」
「えっ」
恥を忍んで初の名前呼び捨てを敢行した俺の呼びかけに一瞬揺らぎつつも、はる……明瀬さんは更にとんでもない条件を付け加えてきた。
たった一度口にするだけでとんでもない量のエネルギーを消費させられたのに、これを常に? しかも人前でも?
混乱の極地にある俺に構わず、明瀬さんはシャーペンを握って気炎を吐いた。
「やる気出てきた……! 私、絶対負けないからね!」
高らかに宣言して机に向かう彼女の瞳は熱い決意に燃えて、さっきまでとは段違いの集中力を発揮しているように見えた。
一体何が彼女をそこまでさせるのか……。
「……参ったな」
何が参ったって……彼女の望みが成就した先にある光景に、俺自身僅かな、しかし確かな期待感を抱いてしまっていることだ。
少し仲のいい様子を見せるだけでとてもいい反応をしてくれたクラスメイト達。
そんな彼らの前で俺たちが名前で呼び合う姿を見せたなら、どんな阿鼻叫喚が待っているのだろうか。
明瀬さんの悪戯好きがうつってしまったのかもしれない。
「……頑張るか」
動機はともあれ、彼女のやる気は見習わねばなるまい。
頭を勉強モードに切り替え、シャーペンを握る。そんな俺の口元は、確かに楽しげに綻んでいた。
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