第46話 海デート③
「ビーチボール膨らませるの忘れてたな。……これって息を吹き込んで膨らませるしかないのか?」
「がんばれ♪ がんばれー♪」
「……すぅ~……ふぅーっ!」
「おぉー!」
全力で息を吹き込まれて一気に膨張するボールに、陽華がぱちぱちと拍手を送ってくれた。
しっかり蓋を閉じて空気が抜けないこと確認した上で、二、三度弾ませてみる。問題なさそうだ。
「それっ」
「わ、わっ……!」
ふと悪戯心が湧いて、予告なしにボールを陽華の方へ放ってみた。
少し驚きながらも両手で確保した陽華は、じっとりとした目を向けてくる。
いつもの陽華の悪戯に比べれば、可愛いものだと思うが……小さく苦笑しつつ、パラソルから立ち上がる。
「とりあえず、水辺で軽くバレーっぽく遊んでみるか」
「せっかくだし何か賭けようよ。先にボールを落とした方が、うーん……帰りにアイスを奢るとかどう?」
「アイスぐらいなら普通に奢るけど……まぁ、そのぐらいの方が気楽でいいか」
「やった! 私ダッツね!」
「ちょっと気楽さが薄れたな……」
膝の辺りが浸かるところまで進んで、ボールを手にした陽華と向かい合う。
「行くよー」と明るい掛け声と共に、”ぱいーん”と何とも気の抜ける音を鳴らしてボールが放たれた。
緩やかな軌道を描いて飛んできたボールを、オーバーハンドで弾き返し……あ、ちょっと弱かった。
「えいっ!」
「おぉ、ナイス」
俊敏な動きでボールの下に滑り込んだ陽華が、見事に返球してみせた。水上でよく動けるものだ。
こちらも負けじと、少し後ろに下がって今度はアンダーハンドで打ち返す。
「辰巳くん、反応鈍くなーい?」
「なにおう……そらっ!」
「っとと、危なー! ほいっ」
その後もラリーを繰り返す内に、お互いに段々と感覚を掴んできた。
ボールを追うことに夢中になって、勝負のことが頭から抜け落ちてきた頃……ふと、陽華の方に視線を向ける。
「あははっ! 楽しいね、辰巳くん!」
「あぁ……そうだな」
屈託なく笑う陽華に笑みを返しながらも、俺の視線は彼女の顔から少し下の方へと流れていった。
オーバーハンドでボールを打ち上げた拍子に”ぷるん”と微かに――しかし確かに揺れた、豊かな膨らみ。
”ボールが三つある”、なんてあまりにも低俗な思考が脳裏を掠めた瞬間、我に返った俺はパッと顔を背け……パシャン。
視界からボールが消えた直後に聞こえた水音に、「あっ」と声が漏れた。
「私の勝ち~! ちょっと気を抜きすぎじゃな~い?」
「くっ……三本勝負で頼む」
露骨に集中を途切れさせた俺に、勝ち誇りながら首を傾げる陽華。
まさか正直に”胸元見てて油断しました”などと言えるわけもなく……陽華の質問には答えずに、ボールを拾い上げて再戦を提案する。
幸い陽華は気にした様子もなく、上機嫌に頷いて、
「一戦だけじゃ物足りないもんね! せっかくだし五本勝負ぐらいやろっか」
「助かる。じゃあ俺から行くぞ」
「どんとこーい!」
――その後も勝負は続き、未だ動揺冷めやらないままの俺は終ぞ平静を取り戻せず……陽華の姿を、中々正面から直視できず。
奮闘虚しく、一勝四敗で惨敗を喫することになったのだった。
§
ビーチボールの勝負を終えた俺たちは、休憩と水分補給のためにパラソルの下に戻ることにした。
キンキンに冷えたスポーツドリンクを勢いよく流し込む。
数秒ほど水筒を傾けていると、程なく水滴しか落ちてこなくなった。近くの自販機で補充しようかと考えていると、ちょんちょんと腕を突かれる。
「ねね、これ何に見える?」
「ん?」
陽華が指差した先には、砂浜に刻まれた何かの絵があった。
横からそれを覗き込んで……俺は大きく首を傾げてしまった。
「……あー、寝てる、犬……?」
「ぶっぶー! 正解は猫ちゃんでしたー」
「猫……? そうか、猫、猫か……」
答え合わせをされても尚疑問符が消えない俺を他所に、陽華は細い指先を迷いなく動かしていく。
「できた! これは何だと思う?」
「魚、か?」
「んー……中らずと雖も遠からず。海の生き物ではあるね」
「なるほど……? えー、ま、マグロ……?」
「ふせいかーい。正解はイルカでした!」
「イルカ!? この、三角の山みたいなのが?」
「ちゃんと想像力で補完して!」
無茶を仰る。
……どうやら、我が愛しの完璧美少女は、所謂”画伯”でもあったらしい。
実に味のある絵だ。お世辞にも上手いとは言えないが……ずっと見ていると、何だか癖になる。
抽象画とかキュビズムとかを嗜む人々も、同じような気持ちだったんだろうか。違うな、たぶん。
この傑作が砂に埋もれてしまうのはあまりに惜しい……スマホで撮影しておこう。
「じゃあ次ね! これなーんだ」
「この角に、羽? は……わかった、コウモリだ!」
「ざんねーん、クリオネでした!」
「くっ、ニアピンか……!」
コウモリとクリオネならシルエットはほとんど同じだろう。
結局、俺は陽華が出した問題に正解することはできなかった。まだまだ精進が足りないな。
まぁ、何を精進すればいいのか見当もつかないのだが……今度一緒に美術館デートでも行くか。
§
「もう四時半だ。そろそろ帰る準備を始めようか」
「えっ、もうそんな時間? 楽しい時間はあっという間だね……」
腕時計を見ながら浮き輪の上で寛ぐ陽華にそう伝えれば、寂しそうな溜め息が漏れた。
周囲を見回すと、他の海水浴客たちもちらほらと撤収を始めているのが見える。本格的に混雑する前に俺たちも取り掛かった方がいいだろう。
残念がる陽華を宥めて、足早にパラソルの方へ向かう。
「まずはパラソルを閉じて、支柱から外して……」
「浮き輪って膨らませたままでいいんだよね?」
「あぁ。そのまま窓口に返しに行こう」
「はーい」
二人で手分けして取り組んだおかげで、五分もかからずに片付けを終えることができた。
折り畳んだパラソルと浮き輪を担ぎ、他の荷物を陽華に持ってもらって海の家の窓口に足を向ける。
窓口では、昼飯時にあった藤宮さんが、元気に声を張り上げていた。
俺たちが窓口前に立つと、藤宮さんは明るい笑顔を浮かべて、
「おっ、二人もお帰り?」
「うん、そうだよ。本当はもうちょっと遊んでたいんだけど……」
「楽しんでくれたなら従業員冥利に尽きるねー。まっ、よかったらまた来てよ」
「藤宮さん、パラソルと浮き輪の返却頼む」
「はいはーい。……よし、ご利用ありがとうございましたー。またのお越しをお待ちしておりまーす」
従業員として折り目正しく礼をした直後に、けろっと「ばいばーい」と手を振る藤宮さんに挨拶を返して、俺たちも海の家を後にする。
海の家の裏手にある更衣室は、遊泳時間の終了を目前にして俄かに混み始めていた。
陽華と別れて男性用の更衣室に入り、ざっと身体についた砂を落としてから、シャワーを浴びる。
全身のべたつきが冷水に洗い流されていく感覚が心地よくて、思わず浸ってしまう。
軽く体を拭いて、ロッカーにしまっておいたTシャツと短パンに袖を通し、軽くストレッチをして外へ出た。
出口で待っていると、少しして陽華が姿を現した。
「待たせちゃった?」
「いや、ちょうど出たとこだ」
髪をタオルで押さえながら、白のワンピースを揺らして歩いてくる陽華は、さっきまでの水着姿とは違う柔らかさを纏っていた。
「よかった。あー……なんか名残惜しいね」
「そうだな……。楽しかったか?」
「もちろん! すっごく楽しかったよ! でも、その分……なんだか寂しくなっちゃうな」
陽華が小さく呟きながら、砂浜の方へ目を向ける。
堤防の向こうでは、夕陽が海面を金色に染めながらゆっくり沈んでいくところだった。
「帰る前に、少し海を見ていこ?」
「ああ」
二人で並んで、砂浜をゆっくりと歩く。
潮騒が静かに寄せては返し、足元に柔らかい泡を残していく。
他の海水浴客たちも粗方撤収を終えて、人の気配もまばら。昼間の喧騒が嘘みたいな、穏やかな時間だ。
「また来ようね、辰巳くん。次は……浮き輪なしでも泳げるようになってるかも」
「なら次は、泳ぎで競争でもしてみるか」
「うん、約束ね」
そう言うと陽華は嬉しそうに微笑んで、小さく俺の袖を摘んだ。
その手を握り返すと、温かさが指先から心の奥へと沁みていくようだった。
夕陽に照らされる波打ち際を背に足を踏み出すと、背後から寄せては返す波の音が遠くなっていく。
夏の海に刻まれた思い出を胸に残したまま、少し名残惜しげに、俺たちは砂浜を後にした。