第44話 海デート①
成り行きから陽華と同衾することになって、数日後の朝。
「失礼しまーす……」
扉が開く気配に、浅い眠りの中で微かに意識が揺らいだ。
けれど重たい瞼は上がらず、布団の温もりと冷房の涼しさに包まれた心地よさを優先してしまう。
肩を揺すられる感覚に「うぅん……」と声を漏らしたものの、すぐには目が覚めない。寝返りを打ち、ようやく薄く瞼を開けたとき、視界に入ったのは陽華の顔だった。
――近い。めっちゃ近い。
至近距離にある彼女の顔は、何やら嬉しそうに微笑んでいる。何故か彼女は俺の寝顔を見るのが好きらしい。
男の寝顔を見て何が楽しいのか理解し難いが、見られるだけなら特に抵抗はない。
……見られるだけなら、だが。
「……おはよう、陽華」
至近距離まで迫ってきた陽華の頬をむぎゅっと制止して、淡々と挨拶を返した。
キスで起こそうという目論見を潰された陽華は、俺に挟まれたままの頬をぷくっと膨らませて不満を表明する。
可愛いし柔らかいな……ずっと触っていたくなる。
「おふぁようたふみくん! なんれとめりゅのー!?」
「寝起きの口内は汚いからダメ」
「むむっ……ほっぺならいい?」
……顔を洗ってからにしてほしいところだが、まぁ軽く一回だけなら許容範囲か。
仕方なく頷いた瞬間、ちゅ、と軽い音が響く。くすぐったさに目を細めて……すぐに二度目を狙ってきたので引き剥がした。
全身で不満です! と主張する彼女に苦笑しつつ、俺は体を起こして伸びをする。
「すぐに歯を磨いてくるから、その後に頼む」
「……んふふ、やっぱり辰巳くんもしたいんだ?」
「陽華の方からしてきたんだろ……まぁ、俺もしたいのは間違ってない」
やはり寝起きで頭が回り切っていないらしい。するりと零れた言葉に、自分でも驚いた。
陽華の大きな瞳がさらに輝きを増し、次の瞬間、勢いよく抱きつかれた。
こういう行動はもう何度も経験しているから、特に驚きはなかった。
その小さな体を受け止めると自然に腕が回り、すりすりと胸元に頬をすり寄せてくる。
温もりが胸に広がり、少しくすぐったい。けれど、この上なく心地よい。
「このままだと動けないんだけど。……ん、いい匂いがするな」
リビングから漂う香ばしい香りが鼻腔を刺激する。軽く鼻を鳴らす俺に、陽華がぱっと顔を上げて笑った。
「あっ、そうだった。朝ご飯出来てるよ! 今日は海に行く日なんだからちゃんと食べて元気出さなきゃね」
「おぉ、ありがとう。楽しみだ」
鈍った頭がようやく平常通りの働きを取り戻してきた。
今日はかねてから約束していた、海デートの日なのだ。
諸々の準備は昨夜の内に済ませてあるが、我が家から海水浴場までは電車で三十分近くかかる。余裕がないわけではないが、長く遊びたいのなら急ぐに越したことはない。
なので、早く朝の準備に取り掛かりたいところなのだが……。
「……せめて前じゃなくて後ろからにしてくれ」
「はーい!」
結局、背中にべったりとくっつかれたまま洗面所へ向かう羽目になった。
何と言うか……陽華と同衾するようになってから、元々かなり低くなっていた身体的接触のハードルがさらに下がった気がする。
最初こそ抵抗があったものの、あまりもの寝つきの良さと寝起きの快適さから……果たして俺は陽華なしでの睡眠に耐えられるのか、と別の心配すら生まれてしまう有り様だ。
まぁ、無駄に意識しすぎるよりはいいのかもしれないな。陽華も満足げだし。
§
水着や着替え等の荷物を手に、電車に揺られること三十分ほど。
俺と陽華の二人は最寄りの海水浴場にやってきていた。
「わぁ、すごい……! 広くて綺麗な海だね!」
「そうだな。思ったより人も多くないし、ゆったり楽しめそうだ」
眼下に広がる光景に陽華が歓声を上げ、俺も周囲の人だかりを見ながら同意した。
容赦なく降り注ぐ真夏の日差しが海面に反射して、振り撒かれたガラス片のようにキラキラと輝いている。
白い砂浜は熱を帯びて煌めき、遠くで波がさらさらと崩れる音が、耳に心地よいリズムを刻んでいた。
潮風が頬を撫で、鼻を擽る磯の香りと相まって、いかにも”夏の海”といった風情を感じる。
視線を少し手前に戻せば、点々と立ち並ぶパラソルやビーチチェアに、笑顔で砂浜を駆け回る子供たちが見えた。
一方で大人たちは、波打ち際でのんびり足を浸したり、砂に腰を下ろして談笑している。
ちらほらと若者の姿も見えるが、割合としては家族連れの方が多いようだ。
賑やかさと和やかな開放感が同居した、胸の弾む光景である。
「よし、とりあえず着替えようか。着替え終わったら……そうだな、あそこの海の家の近くで集合ってことで」
「はーい。ちょっと時間かかっちゃうかもしれないから、ナンパとか気を付けてね?」
「それは俺の台詞なんだが……」
ただでさえ――隣に俺が居る現状でさえ、周囲の若い男たちから注目を集めるほどの美少女だ。
それが水着に着替えてしまえば、一体どうなってしまうのか……もはや想像すらつかない。
対して俺は、橋本のようなイケメンというわけでもない、多少平均より大柄なだけの、ごく普通の男子高校生だ。
わざわざナンパを仕掛けてくるような奇特な女性が、都合よく――悪く? 現れるとは考えにくい。
「辰巳くんも結構……んー、まぁいっか。君はそのままでいてね」
「?」
「何でもなーい。それじゃ、また後で!」
「おう、またな」
何かを言いかけて口を噤んだ陽華は、意味深な笑顔を残して踵を返した。その態度に首を傾げながらも、俺もそれに倣って更衣室へと歩き出す。
女子と比べて、男の着替えにそう時間はかからない。
サッと服を脱いで海パンを履き、脱いだ服を簡単に畳んで有料の鍵付きロッカーに突っ込む。
ロッカーの鍵を財布やスマホ、水筒などを入れたバッグに納めて、薄手のラッシュガードを羽織れば準備は完了だ。
更衣室に入ってから出るまで、五分とかかっていない。当然ながら陽華の方はまだのようだ。
今のうちにパラソルを借りに行くか、と海の家の方へ歩き出す。
窓口でパラソルと、大きなサイズの浮き輪をレンタルして……半日ほど借りるだけでこの値段か。割高に感じてしまうのは、俺の経験不足のせいか?
若干の葛藤を振り切って支払いを終え、パラソルと浮き輪を肩に担いだところで、
「ねぇねぇお兄さん、今一人?」
不意に背後から聞こえた女性の声を、俺はてっきり誰か別の人を呼んでいるのだろうと聞き流した。
海水浴場では声を張り上げる人も多いし、誰か知り合いを呼んでいるのだろう。
……だが次の瞬間、俺の進行方向を塞ぐように二人の影が滑り込んできた。
「ちょっとちょっと、無視はないんじゃない?」
「せっかく声かけてるんだからさ」
顔を上げると、派手なサングラスを頭にかけた、大学生ぐらいに見える女性二人組がこちらを見ていた。若干濃いめの化粧が施された顔に強気な笑みを浮かべて、妙に距離感が近い。
どうやら先程の呼びかけは、俺に向けられたものだったらしい。
「……え、俺?」
「そうそう。他に誰がいるの?」
「ねぇ、一緒に泳がない?」
間の抜けた声を漏らす俺に、片方が小悪魔めいた調子で笑い、もう片方も期待を込めた眼差しで覗き込んでくる。
記憶を漁ってみたが、当然ながらこの二人と知り合った記憶はない。完全に面識のない相手のはずだが……何故そんな相手をいきなり遊びに誘ってきて――……あっ。
「……もしかして、ナンパってやつ?」
ふと、先程陽華と交わした会話を思い出した。
ぽろりと零れた俺の呟きを受けて、勝気な笑みを浮かべていた二人組は少し鼻白んだ様子で、
「ちょっと、直球すぎ! まぁ、あんま間違ってないけどぉ……」
「そういうのは一旦置いといてさ、まずはお友達からってことで! どう?」
ナンパ……いや、所謂逆ナンか? という狙いを看破されて尚グイグイ迫ってくる二人組に、思わずたじろいでしまう。
陽華に対するナンパへの対策は色々考えてきてたのに、このパターンは想定すらしていなかった……。
「あー、申し訳ないけど彼女と来てるんで」
とりあえず無用な誤解を避けるためにも、早くこの状況から脱したい。
ナンパが目的なら、彼女持ちだとわかれば引き下がってくれるだろう……と思ったのだが。
「えー、それほんとにぃ? 逃げたくてテキトー言ってない?」
「そんな邪険にしなくてもいいじゃん! ちょっと遊ぼうよって誘ってるだけだしさ」
め、めんどくせぇ……。
もし適当なことを言ってるとしても、そういう対応を取られる時点で脈なしだとわかってほしい。
一応年上っぽいからと丁寧に接する気も失せて、大きな溜め息が漏れた。
「じゃ、そういうことなんで」
「あっ、ちょっと……!」
それに二人組が怯んだ隙に、するりと包囲から抜け出す。慌てて引き留めてくる声は完全に無視。
何故そこまで俺に固執するのか。この海に居る男は俺だけではないのだから是非他を当たってくれ。
早いところ陽華と合流したい……ほとんど懇願するような気持ちで周囲を見渡して、女子側の更衣室の辺りが妙にざわめいていることに気が付いた。
近くの男たちの視線がそちらに集中しているのを見て、もしやと思い足を速める。
まばらな人だかりを抜けた先、注がれる視線の中心にあった人影に、背後から「うわ、すご」「めっちゃ可愛い……」と息を呑む声が聞こえた。
同性すら魅了する彼女に鼻が高い気持ちと、まだついてきてたのかと呆れを抱きながら、足早に彼女の元へ向かう。
近づいてくる俺に気付いて、彼女――水着姿の陽華は嬉しそうに手を振ってきた。
「辰巳くん、お待たせ!」
「大丈夫、そんなに待ってないよ」
さり気なく俺の身体で周囲の視線を遮るように位置取りして、陽華と言葉を交わす。
「あ、パラソルと浮き輪借りてきてくれたんだ。ありがとう! 重くない?」
「まぁ重くはあるけど、このぐらい何ともないよ。早いとこビーチの方に行って設置しよう」
「そうだね……」
少し急かすように促すと、陽華も俺の背中越しに不躾な視線を向けてくる連中を見て、小さく苦笑を零した。
かと思えば、悪戯っぽく目を細めて、
「ところで、まだ感想をもらってないんだけど……どう? 今日の水着は! 可愛い?」
問われて、俺は改めて彼女の姿をじっくりと見渡した。
青色を基調にしたホルターネックのビキニ。
胸元や腰回りにあしらわれた細やかなフリルが可愛らしさを際立たせつつ、陽華の華奢で均整の取れた体つきをより一層引き立てている。
爽やかな色合いは彼女の白い肌を明るく映し出し、見る者の視線を捉えて離さない、柔らかくも鮮烈な魅力を振り撒いている。
「可愛いし、よく似合ってる。前に試着室で見た時も同じことを思ったけど、陽の光の下で見るともっと魅力的に感じるよ」
「えへへ、褒め過ぎだよ……けど嬉しい!」
俺の率直な褒め言葉に、心底嬉しそうにふにゃりと蕩けた笑みを浮かべる陽華。……これは他の男どもには見せられないな。
「帽子はあるか?」
「カバンの中に入れてあるけど……被った方がいい?」
「その緩んだ頬が治るまでは被っててほしい。ちょっと可愛すぎる」
「んふふ、しょうがないなー」
くすくすと忍び笑いを零して、麦わら帽子を目深に被る陽華に深く頷く。
そして手を繋いで、胸を張って威圧感を意識しながら、砂浜の方へと歩き出した。
比較的人気の少ない場所に来たところで、早速パラソル等の設置を開始した。
持参したシートを広げる陽華を横目に、パラソルのポールを全力で地面に突き刺す。
ポールをグリグリと回転させながら押し込んで、掻き出された砂を足で穴に戻して固定。軽く揺らしてみて倒れないことを確認してから、上部のパートを取り付ける。
最後に慎重にパラソルを開けば、見守っていた陽華がぱちぱちと拍手を送ってくれた。
パラソルが作る日影の下で、シートに腰を下ろして一息つく。
「ふぅ……一応来る前に建て方は予習してたけど、上手く行ってよかった」
「お疲れさま! 今日も暑いし、水分補給しとく?」
「あぁ、ありがとう。風のある日で助かったよ」
差し出された水筒を受け取って、よく冷えたスポーツドリンクをぐいっと呷る。喉を通る冷たい感覚が心地いい。
ラッシュガードを脱ぎ全身に風を浴びて涼んでいると、隣の陽華がくすりと微笑んで、
「ね、私の言った通りだったでしょ?」
「……何のことだ?」
「見たよー? 女の人に囲まれて困ってるとこ」
見られてたのか……と、思わず渋面を浮かべてしまう。
しかし陽華は特に気にした様子もなく、むしろ面白がるように明るい声で揶揄ってくる。
「露骨に面倒臭そうにしてて面白かったなぁ。二人とも結構可愛かったのに、水着もセクシーな感じだったし」
「実際しつこくて面倒だったしな。それに……あんまりよく見てなかったけど、陽華の方がずっと可愛いだろ」
「おぉ……」
ちょっと頬を赤らめて、感心したような声を漏らす陽華。
ほとんど無意識の内に出てきた言葉を深掘りされても恥ずかしいので、少し強引に話を切り替えることにする。
「……ナンパするにしても、何で俺を選んだんだろうな。特別イケメンってわけでもないだろうに」
「辰巳くんはすごくカッコいいよ!」
「……彼氏の贔屓目ってやつじゃないのか?」
照れ隠し気味にそう返すと、陽華はむっと頬を膨らませて首を横に振った。
「それもないことはないけど、それだけじゃないよ! 辰巳くん、前から身嗜みに気を付けてるでしょ? 肌も綺麗で、髪形もしっかり整えられててカッコいいし!」
「……そ、そうか?」
「それにね、立ち振る舞いって言うのかな? 歩き方とか仕草とか。変に卑屈じゃなくて自然に自信がある感じがして、男の子として魅力的だと思う!」
真剣な眼差しで矢継ぎ早に褒められて、言葉に詰まる。
陽華の隣を歩くのに恥ずかしくないよう、普段から身嗜みには気を付けているし、周囲の印象にも気を払っている。
もし陽華の言うように、俺の振る舞いが……まぁ、様になっていると言うのなら。それは偏に、陽華の存在があったからに他ならない。
陽華は更に身を乗り出してきて、声を落としながら囁くように言った。
「……それに、今みたいに薄着だとさ。程よく筋肉がついた体がよく見えるから……ちょっとえっち」
上目遣いでそう告げられ、思わず喉が鳴った。
彼女の顔は笑っているのに、どこか悪戯めいて艶っぽい気配を纏っていて、無防備に受け止めるには少々刺激が強すぎる。
……と言うかシンプルに、反応に困った。
「あっ、そうだ」
返答に詰まる俺を他所に、何かを思いついたらしい陽華はカバンの中をごそごそと漁り始めた。
持ち出してきたそれは……日焼け止めか?
日焼け止めの容器をカラカラと鳴らしながら、シートの上でにじり寄ってくる陽華に、思わず後退る。
何だその怪しい動きは、じっとりと俺の二の腕や胸板を這う視線は……!
「ほら、辰巳くん……日焼け止め塗ってあげるから、そこに寝転がって……?」
「いや、自分で塗るし……なんか、目が怖いんだが……!?」
「一人じゃ塗りにくいでしょ? 後で私も塗ってもらうつもりだったし、そのお返しの前払いってことで!」
「お返しとか別に要らな……その手の動きやめろ! 一旦落ち着け、やめっ……やめろぉーっ!?」
「大丈夫、痛くしないから……ちょっとツンツンしたり、なでなでしたりするだけだから……!」
このあと滅茶苦茶ぬりぬりされた。




