第43話 二日目の夜
事前に用意したリストになかったものまであれやこれやと買い込んだ結果、大きなビニール袋を両手に抱えて帰路に着くことになってしまった。
陽華は申し訳なさそうにしていたが、二人で使う日用品だし、彼女に重いものを持たせるわけにもいかない。帰り道で手を繋げず一瞬だけ寂しそうにしていたのを見て、逆に申し訳なく思ったくらいだ。
若干両手を痛めながら何とか我が家に辿り着い頃には、時間はすっかり夕暮れ時。
部屋着に着替えて一息ついた俺たちは、ダイニングテーブルの上で袋の中身を検めていた。
「改めて見ると、大分買い込んだな。とりあえず片付けていくか」
「そうだね。私は食器とか台所で使うものを整理して、お皿を軽く洗っておくね」
「ありがとう、助かる。じゃあ俺は他のやつを出しとくか。タオルとか洗剤とかは脱衣所に持って行って……洗濯は、風呂の後にしようか」
明日は外出の予定もないし、そう急ぐ必要もないだろう。
食器類の箱を開けていく陽華を置いて、タオルと歯ブラシなどを片方の袋に詰め込んで脱衣所の方へ向かった。
事前に用意していたスペースに陽華のタオルを収納して、洗剤を所定の位置に、そして歯ブラシとコップを洗面所に並べる。
「……何か、変な気分だな」
見慣れた洗面台に、二つの歯ブラシが並ぶ見慣れない光景。
俄かに滲み出してきた生活感に、お泊まり――もっとはっきり言えば、ほとんど同棲しているような現状を、改めて実感してしまう。
日用品も一通り揃えて、本格的な共同生活はこれから始まろうとしているのだ。
思いを通じ合わせた恋人と日常を共にするとあって、楽しみな反面、どうしても不安が拭えずにいた。
§
「上がったよ。お次どうぞ」
「はーい」
その日の夜。入浴を終えた俺は、タオルで髪を拭きながらリビングの陽華に声を掛けた。
ぱたぱたと俺と入れ違うように風呂へ向かった陽華を見送って……ふと、首を傾げる。
彼女が手に提げていた紙袋は、今日買った水着の袋か?
風呂に入るついでに改めて確認すると考えれば、別に不思議はないか。
「ふぅ……」
小さく息を吐いてソファーに腰を下ろす。ローテーブルに置いていたスマホを手に取ると、橋本と……父さんからのLAINが届いていることに気が付いた。
橋本の方は昼の出来事への感謝と、次の遊びへのお誘いだ。簡潔に参加の意思を伝えれば、数秒後に恐らくサッカー選手と思しき人物のスタンプが返ってきた。
俺からも適当なスタンプを送って、次に父さんからのLAINを開く。
「お盆の帰省についてか……ん?」
久しく帰っていない実家に思いを馳せつつ、メッセージを目で追って……そこに書いてある内容に、俺は眉を顰めた。
”帰省の時は噂の彼女さんを連れてきてもいいぞ”……噂の、って何だ。連れてきてもいいって何故微妙に上から目線なんだ。
本当なら突っぱねたいところだが、どうやら義母さんも陽華に会いたいと言っているらしく……まぁ、一応本人に聞いてみるか。
半ば返答を予想しつつも、返信を入力してスマホを置く。
「ストレッチでもするか」
あまり本気で体を動かすと寝つきが悪くなるので、汗をかかない程度の軽い運動で調整しよう。
陽華と海に行く予定もあるし、体を引き締めておくに越したことはない。
……あまり想像したくはないが、あの陽華が水着姿で海に居て一度もナンパされずに済むとは考えにくいし。
ウォーミングアップを済ませてから、様々な体勢で全身の筋肉を解すように体を伸ばしていく。
部活時代に動画サイトで見かけたメニューを何となくで続けているが、積み重ねのおかげか想像以上の効果を実感することがある。
「……やっぱ落ち着かないな」
テレビのバラエティを眺めながら、ぽつりと独り言ちる。
できるだけテレビに意識を集中させようとしても、風呂場から微かに聞こえる水音が気になってしまう。
とは言え、流石に昨日のように他のことが手につかないほどでもない。あと数日もすれば慣れるだろう。
バラエティの笑い声をBGMに、スマホのニュースサイトを巡回しながら時間を潰す。
そう言えば、英語の課題で映画を見るんだったな。サブスクサイトで探してみるか。
そんな感じで漫然と時間を潰して、三十分ほど経った頃。
ふと、風呂場から聞こえてきていた水音が、数分前から聞こえなくなっていたことに気が付いた。
どうやら陽華も風呂から上がったらしい。彼女のために飲み物を用意しようと、立ち上がって冷蔵庫へ向かう。
買ったばかりのカップに氷を入れ、作り置きの麦茶を注ぐ。
ついでに自分の分も用意して、麦茶ポットを冷蔵庫に直そうとしたところで……カチャリ、と脱衣所の扉が開く控え目な音が聞こえた。
「辰巳くーん……」
「どうした? ……ほんとにどうした?」
何やら扉の隙間から顔だけ出して、こちらを覗き見てくる陽華。妙に顔を赤らめて恥じらっている様子だが、何かあったのだろうか。
さては虫でも出たか? 殺虫スプレーはどこにあったか……とのんびり構えていると、陽華は、意を決したように脱衣所の扉をぐいと押し開けて、
「……じゃ、じゃーん!」
――直後に目に飛び込んできた眩しい“肌色”に、頭の中が真っ白になった。
言葉を失い、ただ呆然と見つめる。肩から胸元へ、そして腰のくびれまで、普段の服越しでは決して覗けない陽華の素肌が、余すことなく露わになっている。
最初は、彼女がバスタオルを巻き忘れでもしたのかと錯覚した。しかし一拍遅れて、ようやく鮮やかな布地の存在に気付く。
記憶の片端に引っ掛かるものがあった。それは昼間の買い物の時に目にした、例の鮮やかな色合いのブラジリアンビキニだ。
二人で選んだ中にはなかったはずの、人前で身に着けるにはハードルの高い、布地の小さい水着。
それを身に纏った陽華が、目の前に姿を現したのだ。
「昼間ね、こっそり買ってたんだけど……ど、どうかなっ? 変じゃない……?」
陽華は顔を耳まで真っ赤に染め、もじもじと身を捩りながらこちらを覗き込んでくる。羞恥に揺れる瞳は、期待と不安が入り混じったような色を帯びていた。
その問いかけに、衝撃で麻痺していた脳が少しずつ再起動を始める。
風呂上がりでほんのり赤く火照った肌が、露出の多いビキニによっていっそう艶めいて見えた。頬や肩には濡れた髪が張り付き、髪の先から滴る水滴が白い素肌を伝っていく。
恥じらいを前面に浮かべた陽華の仕草は普段の無邪気さとは違う、大人びた色香と少女らしい愛らしさが同居していて――理性の箍を容赦なく揺さぶってくる。
現実離れした光景を、現実のものであると正しく認識した途端……胸の奥で得体の知れない熱が弾けた。
「……っ」
「えっ……!?」
返事をするよりも先に、身体が動いた。
気付けば手にしていたグラスをカウンターに置き、陽華を強く抱き寄せていた。
「た、辰巳くん……?」
困惑と羞恥の滲んだ声に、返答する余裕はなかった。
濡れた肌が腕に吸い付き、シャンプーの甘い香りが鼻先を擽る。
彼女の柔らかさと熱が伝わって、張り詰めた理性の糸が軋みを上げる。
潤んだ瞳で見上げられた瞬間、喉が乾き、視界が狭まっていく。細い身体を抱き締める腕の力が強まり、彼女の口から小さな呻きが漏れた。
ふるりと戦慄いた瑞々しい唇に、視線が引き寄せられて――……。
「はる、か……!」
「……辰巳、くん」
――ピー、ピー。
突如背後から鳴り響いたブザー音に、俺は飛び上がった。
半開きのまま放置していた冷蔵庫の扉が、無機質に「戻れ」と警告している。
はっとして腕を解き、逃げるように冷蔵庫の方へ向かう。
ほとんど突進する形で扉を閉めて、額と腕を扉に押し付ける体勢のまま、深く息を吐いた。
腕に残った陽華の体温の余韻と、胸の奥でまだ暴れ続ける衝動を、冷蔵庫の冷気で必死に抑え込もうとする。
「……本当に、ごめん。俺、我慢が効かなくて……怖がらせた」
冷蔵庫に上半身を押し付けたまま、慎重に言葉を探して謝罪を口にする。
誠意を示すには、しっかり顔を合わせるべきなのかもしれないが、今の陽華の姿を再び直視する勇気はなかった。
「……ううん、大丈夫だよ。ちょっと、びっくりしただけ……辰巳くんが、そんなに喜んでくれるなんて……」
「喜んで、って言うか……」
「嬉しくなかった?」
「…………そういうわけじゃないけど、その。俺には刺激が強すぎる……!」
「んふ、そっか。そうなんだぁ……」
冗談めかすような声音に、余計に顔が熱くなる。
けれどその声は、怒っているわけでも、引いているわけでもなく――むしろ、嬉しそうにすら聞こえた。
§
「何でー!?」
「何でも何もない……」
頬を膨らませて抗議してくる陽華に、俺は若干の疲れを滲ませながら言葉を返した。
既に十分以上もベッドの前で押し問答を続けているが、こちらも譲る気はない。
「せめて今日だけ、今日だけはソファーで寝させてくれ……!」
「やだ!」
「子供か……」
駄々っ子さながらにプイッと顔を背けてしまう陽華。彼女も譲る気はないらしい。
顔を見るだけでさっきの……その、刺激的な水着姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。
そんな状態で、この狭い部屋で一夜を明かすなんて、とてもではないが耐えられる気がしない。
「今日は髪も乾かしてくれなかったのに……」
「んぐっ、それは……すまん」
「おやすみのキスは? 昨日はしてくれたよね」
「……すまん、今日は無理です……それとこれとは話が別で……というか、陽華は怖くないのか?」
「怖い? 何で?」
きょとん、と不思議そうな顔で首を傾げる陽華に、むしろこちらが面食らってしまう。
「何でって、まぁ……あんな薄着で、いきなり男に抱きつかれて、怖いもんじゃないのか。俺もあんまり力加減できなかったし……痛かったよな、本当にごめん」
「全然知らない人なら怖いし嫌だけど、辰巳くんを怖がるわけないよ! むしろいつでもどうぞっ! 多少苦しくても、むしろそっちの方が求められるって感じで嬉しいよ!」
そう言って陽華は、両手を大きく広げた。目をキラキラと輝かせて、さぁ今すぐ飛び込んで来いと言わんばかりだ。
あまりに男前な陽華に、つい怯んで後退りそうになる。もはや完全に立場が逆転している。
……せめて一晩。今晩だけでいい。
明日からはドライヤーもおやすみのキスもするから、今晩だけは許してほしい。
お願いだからソファーで寝させてください。
赦しを乞う罪人のような心持ち――俺視点では実際そう違わない――で、ひたすらに懇願を重ねる。
新たな説得材料を探して、天井を仰ぎ――その隙を見逃さず、陽華が仕掛けてきた。
「えいっ!」
「うお……っ!?」
腰の辺りに勢いよく抱きついてきた陽華に、俺は抵抗すら許されずベッドの上に薙ぎ倒された。
両腕でがっしりとしがみついたまま、いつの間にか手にしていたリモコンで照明を消して、ブランケットを足先で引っ張り上げる。
俺が混乱している内に、下手人は就寝のための全ての準備を終えて――実に満足げな表情で、目を閉じてしまった。
当然、彼女に倣って安らかに眠りにつく……なんてことをできるはずもなく。
極力体を動かさないようにしながら、必死に小声で訴えかける。
「陽華……!? いきなり何すんだ、ちょっと離して……!!」
「すぴーすぴー」
「完全に寝たフリだろ……!? 頼む、話を聞いてくれ……!!」
もはや泣きが入りそうになりながら懇願する俺に構わず、下手な寝たフリを続ける陽華。
可愛く賢い俺の彼女は、同じ部屋で寝ることすら躊躇う俺に業を煮やして、強制的な添い寝を敢行することにしたらしい。
戦慄に背筋が凍え、全身が強張って動けない。
胸元から下にぐいぐいと押し付けられる温かく柔らかい感触に、意識が掻き乱される。
口をパクパクと開閉するものの、何も言葉が出てこない。
……暗闇に慣れた目が、信じ難い光景を捉えた。
段々と彼女の表情が緩み、目元がとろんと蕩けてくる。吐息も規則正しいリズムを刻んで……寝たフリが、フリではなくなってきた。
安らぎに満ちた表情で本格的に寝入り始めた陽華と対照的に、俺は絶望する。
強引に引き剥がすような真似をできようはずもなく。
かと言ってこの状態で暢気に寝こけられるほど、図太い精神も持ち合わせていない。
完全に詰んだ。どうやら俺はここまでのようだ。
意識を手放し、一日の疲労を取るための安らぎの時間が――ほかならぬ最愛の恋人の手によって、最大の試練の時間へと変えられてしまったのである。
逃れ得ぬ終わりを悟り……試練を課した張本人の軽やかな寝息を聞きながら、俺は諦観と共に瞼を閉じた。
§
そして、迎えた翌朝。
「ふわあ~ぁ……。おはよ、辰巳くん♪ 昨日はよく眠れた?」
「…………ばっちり。自分でもびっくりするぐらい気分がすっきりしてるし、体も快調で……」
「そっか、よかった! なら今日からも一緒に寝ようね! 決まり!」
「えっ」
そういうことになった。