表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/48

第40話 おはよう

 ――チュンチュン、チュンチュン。


 心地よい微睡みの中で、ずっと遠くから小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 その音に引き付けられるように、俺の意識はゆっくりと浮上していき……徐々に聴覚以外の感覚も働きを取り戻してきた。

 薄着の肌を冷房の風が優しく撫で、閉じた瞼の隙間に眩しい光が沁みる。そして俺の嗅覚は、ふわりと漂う香ばしい香りを捉えた。


「ん、んん……」


 ゆっくりと体を起こし、ブランケットをどかして大きく伸びをする。

 背骨をパキパキと鳴らしながら周囲に視線をやって、ふと首を傾げる。はて、何故俺は起きたばかりなのにベッドの下に居るのか……。


「……あぁ、そうだった」


 眠りに落ちる前、昨夜のことを思い出して小さく息を吐いた。

 充電器に繋いでいたスマホを手に取って、時間を確認する。午前七時過ぎ、まだ早朝と言っていい時間だ。


 カーテンを開け放てば、朝日の眩しさに思わず眉を顰めてしまう。一方で、日光を浴びたことで一気に意識がはっきりしていくのを感じた。

 寝起きの気怠さもなくなり、気分のいい実に爽やかな目覚めだ。


「……さて、と」


 ベッドで寝ていたはずの彼女は既に起きているらしい。

 綺麗に整えられたベッドを尻目に布団から立ち上がり、漂ういい匂いに誘われるようにダイニングの方へと向かう。


「あっ、おはよう辰巳くん!」

「……おはよう、陽華」


 ダイニングに顔を出した俺を、彼女……陽華の明るい笑顔が出迎えてくれた。

 寝る前と同じ俺のシャツとショートパンツの上にエプロンを着て、フライパンを手繰る姿に言い様のない感慨を感じる。

 何かを言おうと口を開けたところで、それを制するように、腹の虫が小さく鳴き声を上げた。


 その音を聞いて、陽華は軽やかな笑い声を上げて、


「ふふ、朝ご飯はもうできてるから、一緒に食べよ!」

「あぁ、ありがとう。すぐに顔を洗ってくるよ」


 そう言って脱衣所の方へ向かった。


 どこかふわふわした心地のまま顔を洗って歯磨きをする。

 特別潔癖なわけでもないが、以前どこかで寝起きの口内は雑菌が繁殖しまくっているという話を聞いてから、朝起きた時の習慣になっていた。

 誰から聞いたんだったか……小学生の頃の保健の先生だったか?


 益体もないことを考えながらダイニングに戻ると、エプロンを外した陽華が席について待っていた。

 対面の席に腰掛ければ、美味しそうなパンとウインナーの匂いが鼻腔を刺激する。


「朝食を用意してくれてありがとう、すごく美味しそうだ」

「気にしないで、好きでやってることだから。飲み物はアイスコーヒーでよかったよね?」

「何から何まで……」


 テーブルの上に並ぶのは、こんがりと焼いた食パンに、スクランブルエッグとウインナー、ドレッシングのサラダ。

 適当にシリアルやヨーグルトで済ませている普段の朝食からは考えられないような、実に豪勢なメニューだ。

 これを作っている間、一人寝こけていたことに申し訳なさを感じてしまうが、当の陽華は楽し気に微笑んでいる。


「「いただきます」」


 二人で手を合わせ、食材と作ってくれた陽華への感謝を込めて食前の挨拶。

 いそいそとスプーンを手に取って、スクランブルエッグを口に運ぶ。……美味い。とろとろの食感とまろやかな味に、思わず頬が緩んだ。


「美味しい。流石は陽華だな」

「そんなに特別な作り方はしてないよー。よかったら教えよっか?」

「頼む。これからの朝の楽しみが増えたよ」


 互いに穏やかな笑みを浮かべて、ゆったりとした朝食の時間が過ぎていった。

 やがてそれぞれの皿が空になり、俺はコーヒーを、陽華は紅茶を啜りながら談笑する。

 俺が朝食の出来栄えを褒め称えていると、陽華は少し照れたように頬を赤くしながらも自慢げに胸を張って、


「お泊まり中のご飯は私に任せてね? 泊めてくれる分、頑張っちゃうから!」

「流石に全部任せるのは申し訳ないし、俺も作るよ。陽華先生に仕込まれた技術をお見せする時だ」

「ふふ、じゃあ曜日毎に当番を決めてさ、たまに二人で一緒に作るようにするのはどう?」


 なるほど、名案だ。……いつの間にか、長期のお泊まりが確定しているのには言及しないことにした、今更だし。

 スマホのカレンダーアプリを開く俺を見ながら、陽華は上機嫌に笑って、


「共同生活って感じで、なんかいいね。こういうの」

「……そうだな」


 もっと言えば、”同棲”という言葉も想起されるが……まだそこまで行ってないし。

 ”まだ”? まぁ、そのうちそういうこともある、のか?


 飛躍しそうになった思考を振り切るように、二人分の食器を手に席を立つ。


「私の分は自分でするよ?」

「家事の分担も共同生活の一環だろ。料理をしてもらったんだから、皿洗いぐらいは俺が担当するよ」

「……わかったよ。ありがとう」

「あぁ」


 朝食の分だけならそれほど時間もかからない。手早く洗って布巾で水気を拭き取る。

 乾いた食器を棚に戻してからダイニングに戻れば、陽華はテーブルの上に問題集を広げていた。


「宿題か?」

「うん。朝は脳の集中力が一番高まる時間って言うしね」

「俺も聞いたことあるな、それ。……ちなみに全体の進捗としては」

「大体八割ぐらいは終わってるかなー。あと残ってるのはこの問題集と、あと英語の作文ぐらい?」


 流石の要領の良さである。俺も見習わなければ。

 感心する俺に陽華はにっこりと笑いかけて、


「せっかくの夏休みだもん、宿題なんて気にせず心の底から楽しみたいじゃない?」


 一度自室に行って、宿題の問題集と筆記用具を手にダイニングに戻る。


 この家で陽華と二人で勉強に励むのは、何も初めてではないが……こんなに朝早くから始めることはなかった。

 窓から差し込む朝日と、テレビに映る朝のニュースに少し不思議な気分になりながら、問題集にペンを走らせる。

 設問の量としてはそれほど多くはないが、その分普段の課題と比べて難易度が高く感じる。数分毎に指が止まってしまう。


「……陽華。ここの問題なんだけど」

「あー、これはね。この公式を使って……」


 わからないところを陽華に聞くのもいつも通りだ。

 陽華と出会ってから努力を重ねているとはいえ、依然として俺の彼女の学力にはそれなり以上の差がある。

 以前、陽華が二学期以降の内容を勉強していたところを目撃した時は、戦慄したものだ……。


「そう言えばさ、英語表現の作文の課題ってもう済ませちゃった?」

「字幕付きの洋画を見て感想文を書くやつだっけ? いや、まだ手を付けてないな」


 高校の英語教科は、英語表現とコミュニケーション英語という二つの科目に分けられている。

 このうち英語表現の方では、問題集やワーク等の課題がない代わりに、英作文の課題が課されていた。

 お題は俺が言った通り、先生からオススメされたいくつかの洋画の中から好きなものを選んで視聴し、その内容の要約と感想を英語で文章にまとめると言った感じだ。


 俺はまだどれを見るかも決めていなかったのだが、どうやら陽華は見たい映画があったようで、


「これなんだけど、どうかな」

「……俺でも聞いたことあるタイトルだな、ラブロマンス系の映画だったか」

「そうなの! 私は前に見たことがあるんだけど、すごく素敵な映画でね……大好きな彼氏と一緒なら、もっと楽しめるんじゃないかなって!」


 そう言って微笑む陽華はとても幸せそうで、気恥ずかしさに手元のプリントへ視線を逸らしてしまう。

 ……確かに、以前までは単なる娯楽として楽しんでいたラブコメ漫画や小説も、今ならまた違った楽しみ方ができるのかもしれない。


「サブスクで探しとくよ。視聴済みなら解説とかも頼む」

「ありがとう! 解説なら任せてよ、もう何度も見返してる大好きな映画だから!」


 頼もしいことだ。せっかくお泊まり中なのだし、いつ見るかは後でゆっくり決めるとしよう。


 その後も一時間ほど机に向かったところで、俺たちは一度切り上げることにした。

 今日はこれから、日用品等の買い出しに行く予定があるのだ。本格的に気温が上がる前に出発したいし、そろそろ準備を始めるべきだろう。


「じゃあ私は着替えとちょっとお化粧してくるから、脱衣所借りるね?」

「あぁ。俺は自分の部屋で着替えてるから、何かあったら呼んでくれ」

「はーい」


 着替えとメイクポーチを手に脱衣所へ向かう陽華を見送って、俺も足早に自室に戻った。

 やはりこの時間は少し落ち着かない気分になってしまう。慣れるまではできるだけ別のことをして、考えないようにするべきだ。

 ……果たして本当に慣れることがあるのかと聞かれれば、何とも言えないのだが。


 手早く着替えを終えて、しばらくスマホを弄って時間を潰してからリビングに戻る。陽華はまだ準備中のようだ。

 ぼーっとテレビを眺めること五分ほど、涼しげなワンピースを纏った陽華がリビングへやってきた。


「やっぱりワンピース似合うな。可愛いと思うよ」

「えへへ、ありがとっ! 私もこれお気に入りなんだ、涼しくて可愛いし……それに脱ぎやすいしね」

「ぬ……っ!?」


 急な問題発言に動揺する俺に、当の陽華は不思議そうに首を傾げて、


「水着の試着をするには脱ぎやすい服の方がいいでしょ?」

「み、水着……? あぁ、水着ね……」


 そう言えばそんな話もあったな、と今更のように思い出す。

 ”陽華の水着を選ぶ権利”を賭けた戦いに敗れた俺に、彼女は勝者の権利として”陽華の水着選びを手伝う”ことを要求してきたのだ。

 ……もはや勝負そのものの意義すら怪しいが、結果的に成績は飛躍的に向上して、俺の願望も叶えられたので文句があるはずもない。


「ふふ、楽しみだなぁ。辰巳くんが私に着てほしい水着って、どんな感じなのかなぁ♪」

「…………」


 色々あってすっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、もうすぐ八月だ。


 せっかく買い物に行くのだから、いい機会だしついでに済ませてしまおうと言うのは理解できる……が。

 それはそれとして、もう少し心の準備をさせてほしい。

 壁を隔てて着替えをしているだけでここまで意識しているのだ。水着姿を、それも何着も目にするとなれば……俺は一体どうなってしまうのだろうか。


 とは言え敗者たる俺に、勝者の決定を覆す権利などない。

 腹を括って話を進めることにする。


「……なら午前中に水着を買っておくか。日用品は荷物がかさばるだろうし」

「確かにその方がいいかもね。お昼はどうしよっか」

「モール内のフードコートとか近くのレストランとか……まぁ、行ってから考えるか。金は俺が出すから」


 俺の提案を聞いた陽華は、少し不満そうに頬を膨らませて、


「自分の分ぐらい払えるよ? パパとママからも多めにお金もらってるし」

「……ここだけの話、夏休みに入ってから”彼女さんとのデート代に”って名目で仕送りが増やされててな。むしろ奢らせてくれ」


 余計なお世話と思わなくもないが、バイト禁止の高校故に金銭的な余裕があまりない身としては、素直にありがたい。

 両親の気遣いに報いるためにも、機会があれば盛大に使っていきたいと思う。

 懇願するような俺の言葉に、陽華は渋々と言った様子で頷いて、


「わかった……そういうことなら、今日はお願いするね。でも水着とかのお買い物は全部私が出すからね!」

「……俺は折半のつもりだったんだが。水着はともかく、日用品は二人で使うものもあるんだから俺にも出させてくれ」

「む、むむ……」


 しばらく押し問答を続けて……結局決着はつかず、とりあえず行ってからまた話し合うことに相成った。

 もういい時間だし、そろそろ出発するべきだろう。

 水着を選ぶ時間を少しでも多く確保しようと、ぱたぱたと荷物をまとめる陽華を尻目に、俺も財布とエコバッグを肩掛けのカバンに詰め込む。


「よし、準備完了。それじゃあ行こうか」

「うんっ! 楽しみだね、お買い物デート!」

「あぁ、そうだな」


 帽子を被って、輝くような笑顔を向けてくる陽華に、俺も素直に頷いて笑みを返した。

 そうして俺たちは、手を繋いで真夏のショッピングデートへと踏み出したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ