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第39話 おやすみなさい

 当日までひた隠しにされてきた、陽華がご所望の誕生日プレゼント──それは我が家へのお泊まりだった。


 陽華と交際を始めてから放課後デートや休日デート、お家デートまで幾度となく経験しておきながら、お泊まりをしたことは一度としてなかった。

 交際初日からそれとなく……それとなく? 直接的にお泊まりをしたがっていた陽華に対して、俺はやんわりと断り続けていた。


 何故か。それは偏に、俺が自分の理性に自信を持てなかったからだ。

 陽華と思いを確かめ合ったあの日、心に刻んだ……陽華のことを大事にしたい、決して傷つけるようなことはしないと言う、誓い。

 俺自身の欲望を抑えきれずに陽華を傷つけてしまうことが怖くて、彼女のお願いにどうしても頷けずにいた。

 初日からキスをしまくっておいて何を言うのかと思われるかもしれないが、だからこそ歯止めが利かなくなってしまう気がして怖かったのだ。


 しかし……それで陽華に我慢を強い続けてしまっていたのは、明確に俺が悪い。


「……ちなみに、期間としてはどれぐらいを想定してるのか、聞いてもよろしいでしょうか」

「何で敬語? とりあえず、パパとママの旅行と同じ三泊四日を希望してまーす」

「とりあえず……?」

「ほんとは夏休み中ずっとがいいです! 毎日辰巳くんの家まで移動するのは大変だし、せっかく長期休暇なのに、いつも夕方までしか一緒に居られないの寂しいもん!」


 俺の腕を掴んで熱弁を振るう陽華に、思わず気圧されてしまう。

 何も毎日来る必要はないと思うのだが……陽華と毎日会えるのは俺にとっても嬉しいことなので、そこにはツッコまないでおいた。


 一方で、外でデートをするとき以外はいつも陽華の方から訪ねてくる形ばかりだったのは、以前から気になっていることでもあった。

 映画館やショッピングモールのような、デート御用達の施設が駅周辺に密集していることもあり、デートの際は俺の家に集合して俺の家で解散する流れが出来上がってしまっていたのだ。

 労力的に陽華にばかり負担をかけている現状に、いくら本人が気にしていないとは言え、申し訳なさを覚えていたのも事実だ。


「……ご両親の許可は」

「もちろん取ってるよ! 辰巳くんのご両親の許可も!」

「そう……はっ? な、なんで……どうやって!?」


 あまりにも予想外の発言に素っ頓狂な声が漏れた。

 俺の両親? 父さんと義母さんが許可を出した!? 何故二人が……いや、そもそもいつの間に接触を!?

 混乱の極地に居る俺を見て、陽華はまぁまぁと宥めるように俺の肩を叩いて、


「直接お話ししたわけじゃなくて、優唯ちゃん経由でお願いしたの。手強い辰巳くんを陥落させるための、説得材料を集めるためにね!」

「……ち、ちなみにそれは、いつ頃の話で……?」

「辰巳くんが私の家に来てくれた日の夜にLAINで。『二人とも二つ返事でOKをくれました! お布団は私が泊まる時用のものを使ってください!』って」


 そう言って見せつけられたスマホの画面には、確かに言葉通りの陽華と優唯のやり取りがあった。

 優唯のやつめ……! 何が『ヘタレの兄には秘密にしておきます、サプライズ成功するといいですね!』だ……! お前の言うヘタレの兄がどれほど葛藤してきたと、と言うかあいつは俺のプライバシーとかその他諸々を何だと思ってるんだ!?


 とりあえず優唯にはお盆に帰省した時にしっかり言い聞かせるとして……俺の両親のことについては、一旦脇に置いておこう。これ以上考えても精神衛生上よくないし。


「陽華のご両親は、何も言ってなかったのか? 一人暮らしの男の家に連泊することに……」

「パパは”辰巳くんなら何も心配要らない”って。ママも元々賛成してくれてたけど、この前直接会ってからはすごく応援してくれてたよ」


 応援って何だよ、そうツッコむ気も起きなかった。

 自分たちがすぐに駆け付けられない状況で、愛する一人娘を預けてもいいと思うほどに信頼していただけるのは、とてもありがたい……ありがたいのだが。

 いよいよ外堀は完全に埋め立てられ、陽華の野望を阻むものは、俺の心理的障壁が最後となってしまった。


「……どっちみち、今日はもう帰れないか」

「そうだね。最後のバスも……ちょうど今、なくなっちゃった」


 スマホで時間を確認して楽しそうに笑う陽華。これも彼女の狙い通りだったのだろう。

 まさかこんな時間に陽華を一人で帰らせるわけにもいかない。これで少なくとも、今日一晩は泊めざるを得なくなった。


「……往生際が悪いな、俺」

「辰巳くん?」


 ……いい加減に覚悟を決めろ、柳田辰巳。

 いつまで陽華の優しさに甘えて、恋人の願いを無碍にし続けるつもりだ。

 必ず幸せにすると誓ったんだろう。お前のくだらない葛藤や苦悩は、陽華の笑顔と引き換えにする価値があるのか?


「陽華、明日の予定はあるか?」

「えっ? ううん、何もないけど……」

「そっか……じゃあ、明日は一緒に日用品とか買いに行こうか。色々入用だろうし」

「……! 辰巳くん、それって……!」


 途端にキラキラと目を輝かせる陽華に、俺は苦笑を返して、


「誕生日プレゼントなのに、結局俺からは何も渡せてないからな。シャンプーにボディソープみたいな風呂用品とか、歯ブラシに充電器……あと、食器も買い足しといた方がいいか? まぁ……そういう、うちに常備しておけるものをプレゼント代わりってこと、でぐふ……っ!?」


 照れ隠し気味にまくし立ててる俺の言葉を遮るように、横腹を強烈な衝撃が襲った。

 勢いよく抱きついてきた陽華に、完全に気を抜いていた俺は碌な反応もできないままソファーの上に薙ぎ倒される。

 痛みに呻く俺を、下手人たる我が彼女様は感激に潤んだ瞳で見下ろして、


「本当にありがとう、辰巳くん! 大好きっ!!」

「お、おぉ……喜んでもらえたなら、よかった……。そんなに嬉しいか?」

「嬉しいに決まってるよ! これからは時間を気にせずに、大好きな辰巳くんと一日中ずっと一緒に居られるんだもん!」


 高らかに謳いあげる陽華の表情は、純粋な喜びの感情に溢れていた。

 ワクワクと期待に輝く瞳で見つめられて、俄かに鼓動が早まるのを感じる。


「二人で一緒に遊んで、一緒に寛いで、一緒にご飯を食べて……たくさん触れ合って、たくさんの言葉を交わして! 一日の最後と最初に、大好きな人の顔を見ながら過ごすの! とっても素敵でしょ?」

「あぁ……それは、いいな。すごくいい」

「でしょ!?」


 興奮気味にまくしたてる陽華を微笑ましく思いながら、俺自身も期待に胸を高鳴らせていることを否定できなかった。

 いや、隠す必要もないか。恋人と同じ屋根の下で過ごす時間を楽しみにするのは、ごく普通で……とても幸せなことだ。




§




「上がったよ。お次どうぞ」

「わ、もう終わったの?」


 風呂上がり。タオルで髪を乱雑に拭きながら陽華に声を掛けると、驚いたような目を向けられた。

 どうやらバッグの荷物を整理していたらしく、数着の衣服や化粧品、衛生用品等が散らばっていた。


「ごめんね、私まだ整理が終わってなくて……もうちょっと待ってもらえる?」

「別に急がなくていいから、ゆっくりやってくれ。……あー、その、下着類とかはできるだけ見えないようにしてくれると助かる」

「ふふっ、はーい。けど長期間のお泊まりなら、洗った後干さないといけないし……あははっ、そんな顔しないで? ちゃんと考えてるから!」


 余程情けない顔をしていたのか、愉快そうに笑う陽華。こっちとしては全く笑い事じゃないんだが。

 当然のことだが下着を見せるのは抵抗があるようで、何日か毎に明瀬家に戻ってそちらで洗濯をするとのことだ。とても助かる。


 お泊まりの緊張故か、あるいは別の要因か。いつもより更に火照った風呂上がりの体を冷まそうと、冷たい麦茶を入れてソファーに腰掛ける。

 するとそこに、陽華が小さな紙袋を差し出してきた。


「パパから辰巳くんへの差し入れだって。色々あってつい忘れちゃってた……」

「信幸さんから? 何だかいつももらってばかりな気がするな……」


 後でお礼を入れておくか、と心に決めて紙袋を受け取る。以前のケーキとはまた別の店のお菓子のようだ。

 意外とと言ったら失礼かもしれないが、信幸さんは甘いものが好きなのか?


「よし、大体こんなとこかな。じゃあ私もお風呂借りるね」

「ごゆっくり。服は脱衣所の洗濯ネットに入れといてもらって……今日はもう遅いし、洗濯は明日しようか」

「はーい」


 元気に返事をして、メイクポーチと着替えの入った袋と……俺が貸したシャツを持って立ち上がる陽華。

 今更ながら本当にそれでいいのだろうか。まぁ陽華本人は喜んでいるようだしいいのか……明日パジャマも買っておこうと提案したら断固拒否されてしまったし。

 陽華に貸す用のシャツをいくつか見繕っておくべきかもしれないな……。


 そんなことを考えながらぼーっと陽華の後ろ姿を眺めていると、ふと彼女がこちらを振り返って、


「……覗かないでね?」

「絶対しない」


 ノータイムで即答する俺に、何故か少し不満そうな顔で脱衣所に消えていく陽華。


 ……釘を刺されたせいで、妙に意識してしまう。

 たったの数メートル先、壁一枚隔てた向こうで陽華が服を脱いでいる……そう考えただけで、よくない衝動が体の内を駆け巡る。

 これはまずい、本当にまずい。


 少しでも気を逸らすために、そして万が一にも衣擦れの音なんかを耳に入れないために、テレビの電源を入れて音量を一気に上げる。

 画面のバラエティ番組に意識を集中させようとするが……内容が全く頭に入ってこない。くそっ、何が面白いんだこの芸人!

 笑い声の向こうから微かに聞こえてくる水音に、思わず耳を澄ましてしまう。思春期男子かよ俺は……思春期男子だった……!


「……そう言えば、信幸さんからお菓子もらったんだったな」


 ローテーブルの上に置かれた紙袋を見て……そこから彼女の父親という存在を思い出したことで、急速に思考が冷えていった。

 今頃温泉を堪能しているだろう信幸さんに内心で感謝を告げつつ、紙袋を開けて中身を取り出してみる。缶詰めされたクッキーか、今日はもういい時間だし、明日以降陽華といただくとしよう。


「ん? まだ何かあるな」


 紙袋を折り畳もうとして、もう一つ何かが入っていることに気が付いた。

 袋の上から覗き込んでみれば、クッキー缶より更に小さな箱のようだ。

 箱の表面には何かの数字が書かれていて……0.01……っ!?!?


「なっ、あ……コ……っ!?」


 その箱の正体に思い当たった俺は、思わずソファーの上で飛び上がって袋を放り投げてしまった。

 テーブルで跳ねた袋の口からそれ(・・)がチラリと顔を出して……慌てて袋の中に押し込み、そのまま反射的にクッションの下に隠した。

 隠す必要があるかは定かではなかったが、とにかく視界に入れたくなかったのだ。


「……ふー……落ち着け、落ち着け俺……!」


 両手で顔を覆い、深呼吸を繰り返す。それでも胸の鼓動はうるさいぐらいに高鳴り、顔の赤みも引く様子を見せない。


 ……信幸さんがアレを渡してきた意図は理解できる。親としては当然の懸念であると納得もできる。

 だが、だがそれでも……何でこんなドンピシャなタイミングで出てくる!?

 入浴中の彼女を待ちながら、避妊具を手に待ち惚ける男。完全にそういう行為の事前だ。


「……とにかく、これのことは一旦忘れよう」


 とりあえずどこか。陽華の目に触れない場所に隠しておく必要があるだろう。

 クッションの下に隠した袋を手に、自室に戻って隠し場所を探す。

 あーでもないこーでもないと室内をうろうろするが、なかなか決まらない。

 いっそ自分でも手が届かないような場所に投げ込んでしまおうとも思ったが……男女が一つ屋根の下で生活する以上、万が一の備えとして、すぐに取り出せる場所に置いておくべきだとも思う。


「まぁ、ここら辺でいいだろ……。ついでに陽華用の布団も出しておくか」


 箪笥から、優唯が泊まる時のために常備していた布団と枕を取り出して床に敷く。

 ……寝るのは俺の部屋でいいのかという疑問が湧いてくるが、まぁ今更だな。たぶん陽華も猛抗議してくるだろうし。

 果たして俺は今夜、ちゃんと寝付けるのだろうか。

 そんな不安を抱えつつ、掛布団代わりのブランケットを出して諸々の作業を終え、リビングに戻る。


 いつの間にか随分と時間が経っていたようで、浴室の方から聞こえていた水音はぱたりと止んでいた。

 俺がソファーに再び腰を沈めたタイミングで、ガチャリと脱衣所のドアが開く音がして、


「ふぅー、さっぱりしたー!」


 そう言って、明るい笑顔を浮かべた陽華が戻ってきた。


 上気した肌に、タオルで軽くまとめた濡れ髪。

 俺から借りただぼだぼのシャツと、下には丈の短いショートパンツだけを纏った、あまりに無防備すぎる格好。


「……っ」


 その姿を目にして、一瞬息が詰まった。

 サイズの合わない俺のシャツを着ていることで、彼女の華奢さがさらに強調され、ショートパンツから露出した細い脚は眩しいばかりだ。

 率直に言って目のやり場に困る。布団の設置作業に没頭することで遠ざけていた煩悩塗れの思考が、再びぶり返してきた。


 そんな俺に、髪の水気を拭いながら俺の隣に座った陽華は不思議そうに首を傾げて、


「んっ? どうしたの、そんなにじっと見つめて」

「いや……何でもないよ。お茶入れてくるけど、陽華も飲むか?」

「じゃあお願い!」


 はいよ、と返して、足早にダイニングの方へ向かった。

 幸い俺の動揺が陽華に察せられてしまうことはなかったようで、上機嫌に鼻歌を歌いながらスキンケアをしている。

 女子の美容への気遣いに感心しながら、グラスを手にリビングへ戻った。


「ありがとう! やっぱりお風呂上がりは冷たい飲み物が欲しくなるよね~」

「同感。……そうだ、寝る時はどうする? 俺は布団で寝るから、陽華が嫌じゃなければベッドの方を使ってほしいと思ってるんだが」


 俺の提案に、陽華は困ったように眉根を寄せて、


「嫌とかじゃないけど……家主を差し置いてベッドを使わせてもらうのは、ちょっと申し訳ないかな」

「そんなのは気にしなくていい。彼女を床で寝させるのは、彼氏としては正直気が引けるし」


 カッコつけようとして若干の照れが滲んでしまった。

 視線を逸らした俺にくすりと笑みを零した陽華は、いかにもいいことを思いついた! という顔で、


「それならさ……辰巳くんも一緒に、同じベッドで寝ればよくない?」

「ダメです」

「なーんーでー!」

「何でも何もない、絶対ダメ。ただでさえ色々限界なのに、これ以上俺を虐めないでくれ……」


 もはや懇願するような俺の言葉に、陽華も不満顔ながらそれ以上追及してくることはなかった。

 彼女はどうにも、男の欲望を侮っている節がある。……理解した上で煽っている可能性も無きにしも非ずだが、その場合どうすればいいのかわからないので考えないようにした。


 そんな益体もない……俺にとってはとても重要なことを考えていると、目の前にずいっとドライヤーが突き出される。


「一緒に寝るのは諦めるからさ。その代わりに、私の髪を乾かしてほしいな。優唯ちゃんにはやってあげてるんでしょ?」

「……仕方ないな」

「やったー!」


 陽華の髪にドライヤーを当てるのも緊張することに変わりはないが、同衾するよりはずっとましだ。

 優唯にやってあげているように、ソファーを立って陽華の背後に回る。


「じゃあ始めるぞ」

「はーい」


 陽華がタオルを外してふわりと亜麻色の髪を広げた。まだ所々に水滴が残っていて、毛先を雫が滑り落ちていく。

 ドライヤーのスイッチを入れて、そっと指先で髪をすくう。しっとりと濡れていながらさらりと流れていく感触に、つい夢中になってしまいそうだ。

 髪とドライヤーが近づきすぎないよう注意しながら、優しく温風を当てて軽く梳くように指を動かしていく。


「わ、気持ちいい……。辰巳くん、上手だね」

「腕の違いが出るものでもないと思うけどな」

「そんなことないよ。ね、明日からもしてくれる?」

「……陽華がしてほしいなら」

「うん、してほしい。優しくて、温かくて……すごく安心する。ふわ……」


 ふと、陽華の口から小さく欠伸が漏れた。よく見れば、こくこくと頭が揺れている。

 俺の手で眠気に襲われるほどの安心感を与えられていると思えば、少し誇らしい気持ちになるが、流石にここで寝られるのはまずい。


「陽華、陽華。もう少し耐えてくれ。寝るならベッドで寝よう」

「んぅ……ごめんね、誕生日でちょっと……はしゃぎすぎちゃったかなぁ。もっと、辰巳くんとお話ししたいのに」


 残念そうに呟く口調もどこかふわふわとしている。

 くしくしと猫のように目元を擦る仕草を微笑ましく思いながら、優しく囁くように語り掛けた。


「話したいことがあるなら、明日聴くよ。時間はいくらでもあるから」

「……えへへ、そっか。ね、辰巳くん?」

「なんだ?」

「だいすき」

「…………」

「辰巳くんは言ってくれないの?」

「今言ったら寝そうだから言わない」

「むぅー、寝ないもん……ふわぁぁ」


 大欠伸に思わず笑ったらむくれられてしまった。そういうところも可愛いんだ。

 本当に、俺にはもったいないくらいに可愛らしい彼女だよ。




§




「ほら、着いたぞ」

「んぅー……」


 寝る前の準備を終えて、ほとんど寝落ち寸前の陽華を支えてベッドまで連れて行く。

 もはや瞼は閉じ切っていて、応答すら返ってこない陽華に苦笑しつつ、その華奢な体を抱え上げてベッドの上に優しく横たえた。


 すると陽華はベッドの上でもぞもぞと動き、枕に顔を埋めて、


「んへへ……辰巳くんのにおい……」

「やめなさい。……恥ずかしいから、こっちの枕と変えてほしいんだが」

「やっ!」


 子どもかよ。どうやら陽華は眠気が限界に達すると幼児退行を起こすタイプらしい。

 衝動的に頭を撫でてみれば、心地よさそうにふにゃりと笑って、手のひらに擦り付けてくる。あまりの可愛らしさに眩暈がしそうだ。


「ん、ぅ……」


 いよいよ反応すらしなくなってきた陽華にブランケットをかけてやりながら、そっと耳元に顔を近付けて、


「さっきは言ってあげられなかったからな……好きだよ、陽華」

「…………えへへ」


 聞こえてきた笑い声に顔を上げれば、心底幸せそうに表情を蕩けさせた陽華が俺を見つめていた。


「眠たいんじゃなかったのか?」

「まだおやすみって言ってなかったもん……んっ!」

「……それは?」

「おやすみのちゅー! 誕生日だしいいでしょ……?」


 そのいじらしいおねだりに、思わず笑ってしまいそうになる。

 誕生日じゃなくても、俺が陽華とのキスを断るはずはないだろうに。


「んっ……」

「……おやすみ、陽華。また明日」

「おやすみなさい、辰巳くん……また明日!」


 互いの鼻先が触れ合うほどの至近距離で、囁くように言葉を交わす。

 亜麻色の瞳が瞼の裏に隠されたのを確かめてから、枕元のリモコンで部屋の照明を落として俺も布団に入った。


 瞼を閉じて、今日の出来事を反芻し、明日のことに思いを馳せる。

 その中でふと、つい先ほど陽華が口にしたある言葉が脳裏に蘇った。


 ”一日の最後と最初に、大好きな人の顔を見ながら過ごす”、か。

 ──なるほどそれは、とても素敵なことだ。


 あぁ……明日からの夏休みが、本当に楽しみだな。

 一か月も抵抗していたくせに、いざお泊まりが始まるとウキウキで胸を躍らせる自分の単純さに苦笑してしまいながら。

 溢れんばかりの期待を胸に、俺の意識は少しずつ眠りの中に落ちて行った。


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