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第35話 明瀬家②

「うっま……!」


 小皿に取り分けた唐揚げを一つ口に運んで、俺は感嘆の声を上げた。

 パリッとした衣を噛み切れば、ジューシーで熱々の肉汁が口内を蹂躙してくる。その痛みに眉を顰め、しかし次の瞬間には濃厚な肉の旨味に頬が綻んだ。

 ゆっくりと味わってから嚥下し、お茶を一口。そしてせっつかれるように再び箸を伸ばす。今度はご飯と一緒に味わってみよう。次はまた……いや、おかずは唐揚げだけではない。ハンバーグやロールキャベツも実に美味しそうだ。

 焦ることはない。一つずつ味わって頂くとしよう。


 夢中になって箸を動かす俺を見て、お母さんは嬉しそうに笑って、


「あらあら、いい食べっぷり。お口に合ったのなら嬉しいわ」

「んぐ……ごくん。めちゃくちゃ美味しいです。これならいくらでも食べられそうです……!」


 流石はあの陽華の料理の師匠だ。出来立てということもあって、どの料理もとんでもなく美味い。

 箸が止まらない。最初の不安もどこへやら、かつてない勢いでご馳走を胃袋に収めていく。

 意地汚くがっついているように思われないかと不安になったが、対面のご両親は実に満足そうにしていた。


「いやぁ、何とも気持ちのいい食べっぷりだね。若さっていいなぁ」

「パパも十年ぐらい前までは、こんな風にいっぱい食べてくれてたのにねぇ……」

「寄る年波には、ってやつだね……辰巳くんも、若い内にできるだけ楽しんでおくといいよ。三十を過ぎた辺りから一気にクるから」


 遠い目をしながら串焼きをゆっくりと咀嚼する信幸さんの姿には、何とも言えない哀愁が漂っていた。

 腹の具合を気にしてこの料理を自由に楽しめないのは、確かに辛いものがあるだろう……と、共感と同情を覚えてしまう。


 含蓄のある忠言に従って、今は何も考えずに楽しませてもらおうと机に向かったところで、隣の陽華がやけに静かなことに気付いた。

 視線を向けると、何やら不満げに頬を膨らませて俺を見つめている。


「……ママの料理、そんなに美味しい?」

「あぁ、凄く美味しいよ」

「私の料理より?」

「あー……」


 むすっとした表情に、思わず苦笑が漏れる。

 半目に細められた瞳には微かに嫉妬の色が見えた。何ともいじらしいヤキモチだ。


「……偉そうな言い方になるけど、やっぱり陽華よりお母さんの方が料理の腕前は上だと思う」

「むぅ……それはそうだけど」

「けど、俺が好きなのは陽華の作ってくれた料理だよ」

「ほんとぉ?」


 もちろん、と頷いて、陽華の目を真っ直ぐ見据える。


「本当だ。大好きな陽華が、俺だけのために作ってくれる料理なんだ。味以上に特別なものだと思ってる」


 俺が言い放った言葉を受けて、陽華はみるみる頬を赤くして視線を逸らしてしまった。

 そのあまりに可愛らしい様子に、ふっと笑みを浮かべて……この場に居るのが俺たちだけではないことを思い出す。


 恐る恐る視線を移せば……まるで初々しい恋愛ドラマを観るかのように、目を輝かせるご両親の姿があった。


「見てるこっちが照れちゃうわね。二人の仲が良くて何よりだわ」

「私たちが付き合いたての頃も、ここまでではなかった気がするなぁ」

「…………」


 居た堪れず沈黙する俺に対して、陽華は気安い様子で「もー! やめてよ二人ともー!」と抗議して……。

 明瀬家の人々と囲む食卓は、暖かい笑顔に包まれていた。


「それと辰巳くん? 私のことも”お母さん”じゃなくて名前で呼んでくれる? 私だけ仲間外れで寂しいわ~」

「……わかりました、香陽さん」

「よくできました♪」




§




「ごちそうさまでした。凄く美味しかったです」

「お粗末様でした♪」

「いやはや、一人で半分以上食べてしまうとはね……大丈夫かい?」

「動けないほどじゃないので、大丈夫です。ありがとうございます」


 賑やかな食事の時間は、俺のギブアップを待って終了と相成った。

 美味しい食事を食べさせてもらった感謝の気持ちを込めてしっかりと手を合わせる俺に、香陽さんはニコニコと嬉しそうに笑って、信幸さんは感嘆の声を上げた。

 食後の片付けを始める信幸さんに手伝いを申し出たが、「お客さんに手伝わせるわけにはいかない」と断られてしまった。


 お言葉に甘えて椅子に座り直し、小さく息を吐く。

 ……強がって大丈夫だと言ったが、流石に食べ過ぎたな。腹の苦しさを紛らわせるように背もたれに寄り掛かる。

 そんな俺の顔を陽華が心配そうに覗き込んできた。


「ほんとに大丈夫? 苦しそうだよ?」

「限界ギリギリではあるけど、まぁ問題ない。少し休めば楽になる」

「あんまり無理しないでね。お茶は飲む?」

「もらうよ」


 自分の腹の容量ぐらいはきちんと把握している。あまりに美味しくて、少しばかりセーブが利かなかった節はあるが。

 陽華が淹れてくれたお茶を受け取り、礼を言ってから大きく呷る。

 一息吐く俺の腹に……ポンポン、と優しく触れる手が一つ。


「……陽華?」

「苦しそうだから擦ってあげようかなって。ふふ、ぽっこりしてる」

「そりゃ食べた直後だし。……恥ずかしいからやめてくれ、って言ったらやめてくれるか?」

「んー?」


 キュートな笑顔で受け流された。

 俺の腹を撫でる手を引っ込めるつもりはないらしい。……となれば、


「ひゃあっ!?」

「お返し。陽華だけ不公平だろ」

「ちょ、辰巳くんっ!? そこ、ダメ……っ」


 慌てて押し返そうとする陽華だが、力で俺に敵うはずもない。

 手の平をゆっくりと撫で擦るように動かせば、陽華の身体がびくりと震えて、俺の手を握る力が強まる。


「ほんとに、ダメだから……っ」

「……っ!」


 赤くなった頬に戦慄く口元、とろんと蕩けた視線……今更ながら、とんでもないことをしでかしてしまったんじゃないか?

 服の上からだし問題ないだろうという楽観や、恥ずかしがる陽華をもう少し見ていたいという悪戯心が徐々に萎んで──直後に聞こえた咳払いの音に、一瞬で背筋まで凍り付いた。


「こほんっ! ……二人とも、そろそろいいかしら?」

「……すいません。陽華もごめん、調子に乗った」

「う、うん……私も、その……ごめんね、悪ノリしちゃって」

「「…………」」


 陽華に謝罪の言葉をかけるも、僅かに潤んだ瞳で見つめ返されて思わず言葉に詰まる。

 気恥ずかしいようなむず痒いような、若干湿っぽい雰囲気を吹き飛ばすように香陽さんがパンパンと手を叩いて、


「陽華も辰巳くんも、二人で居ると周りが見えなくなっちゃうところがあるみたいね。人前では気を付けなきゃだめよ?」

「肝に銘じます……」

「はーい」


 至極真っ当なお説教を食らってしまい、恐縮する俺たち。

 ……既視感のある光景だ。そろそろ本気の本気で反省するべきなのではないか?

 俺も夏休みが始まって浮かれている部分があるだけで、もう少しすれば落ち着いて対応できるようになる……はずだ。たぶん、恐らく。

 幸い香陽さんの表情に怒りの色はなく、純粋に面白がっているだけのようだ。それはそれで居た堪れないが。


「ご飯の残りはタッパーに入れて持って帰ってもらう形でよかったかしら? タッパーは食べ終わってから、陽華に持たせてもらえば大丈夫だからね」

「それはありがたいんですけど、いいんですか?」

「いいのいいの、辰巳くん今は一人暮らしなんでしょう? 色々大変でしょうし、人の手を借りられるところは借りていかなきゃ」


 言い聞かせるような香陽さんの言葉に、キッチンの信幸さんも笑って頷いて、


「そうそう、人に助けてもらうことは恥でも何でもないんだから。気にせず受け取ってくれると嬉しいな」

「……ありがとうございます、頂きます」


 本当に、温かい人たちだ。

 明瀬家の人々の心遣いに感じ入っていると、対面に腰掛けた香陽さんが手に持っていた数冊の大判の本をテーブルに置いた。

 これは……アルバムか? 首を傾げる俺を他所に、隣の陽華が「あっ」と素っ頓狂な声を上げた。


「ちょ、ちょっとママ! 何でそんなの持ってきてるの!?」

「せっかくの機会だもの、陽華の可愛いところを辰巳くんにも見てもらいたくて♪ 辰巳くんも見たいわよね?」

「えっ、あー……」


 唐突に水を向けられた俺は、思わず考え込んでしまう。

 若干涙目で懇願するよう唸視線を向けてくる陽華と、自分自身の欲望を天秤にかけて──……


「めっちゃ見たいです」

「辰巳くん!?」


 すまん陽華。これも君への愛故なんだ。

 もっともらしい言い訳を内心で呟いて自己正当化を終え、開かれたアルバムにじっと見入る。


 まず目に飛び込んできたのは、ぽてんと床に尻もちをついて指を咥えている、とても可愛らしい赤ちゃんの写真だ。


「これ、陽華が赤ちゃんの頃の写真ですか?」

「えぇ! これはまだ0歳の頃ね、この頃からもうほんとに可愛くて可愛くて~」

「確かに……凄く可愛いですね」

「うぅ~……」


 恥ずかしそうに唸り声をあげる陽華。そんな顔しなくても、ちゃんと可愛いから大丈夫だぞ。


「本当はもっとたくさん撮ってたんだけどね~。ここにあるのは厳選に厳選を重ねた特に可愛い写真だけなのよ」

「……この場面だけで十枚以上ありますけど」

「全部可愛いでしょう?」

「そうですね」


 間違いない。迷いなく頷く俺に、香陽さんは満足そうに笑った。

 やはり可愛らしい赤ちゃんは心を和ませてくれる。和みすぎて思考と口も緩んできた。

 そこでタッパーに詰める作業を終えた信幸さんが戻ってきた。机に広げられたアルバムを見て、懐かしそうに目を細めている。


「随分と懐かしい写真を見ているね。おや、これは初めて掴まり立ちができた時のものだね」

「こっちは陽華が初めて”まま”って呼んでくれた時の写真ね!」

「余程嬉しかったのか、あの時は一日中陽華を抱いて動き回っていたねぇ……」

「あら、陽華もきゃっきゃと喜んで何度も”まま、まま”って呼んでくれてたのよ? 陽華は覚えてないかしら?」

「一歳にもなってない頃のことなんて覚えてるわけないでしょ……」


 敷き詰められた写真と、その時の出来事を克明に記す書き込みをなぞりながら、鑑賞を続ける。


「これは……初めてスプーンを自分で持てた時かな?」

「そうそう! まだ上手に扱えなくてね、ヨーグルトが頭から顔からべったりになっちゃって」

「ははっ、服まで真っ白になってますね……可愛いです」

「ぐむぅ……」


 思わず声を上げて笑ってしまった俺の脇腹を、膨れっ面の陽華が肘で突いてくる。全く痛くなくて可愛いだけだ。


 続いて幼児期のゾーンに入った。まだまだ小さい陽華がスモックを着て、幼稚園の運動会やお遊戯会で楽しそうに笑っている。

 その愛らしい姿に頬を緩める俺の隣で、陽華も身を乗り出していた。

 自分でも覚えていないぐらい昔のことに、本人も興味をそそられたらしい。

 ページが進む毎に陽華の表情も緩み、幼稚園の卒業式の写真が出る頃にはすっかり機嫌も直って普通に会話に参加するようになっていた。


「ここからは小学生だね。写真は入学式だ」

「初めてランドセルを背負って外を歩いた日だったのよね。ランドセルが重くて何度も転びそうになるものだから、気が気じゃなかったわ……」

「結局転んだことはなかったでしょ?」

「あら、忘れたの? 入学式が終わってから私たちのところに駆け寄ろうとして、派手に転んで大泣きしてたじゃない」

「えっ、うそ!? 全然覚えてない……」

「確か写真にも……あった、泣き疲れてパパの背中で寝ちゃったのよねぇ。見て辰巳くん、可愛い寝顔でしょう?」

「そんなの辰巳くんに見せないでよぉ!」


 そして勃発する、見せたい香陽さんと見せたくない陽華の母娘バトル。

 俺個人としては是非とも見てみたいところだが……ここは口を挟むべきではないんだろうな。

 静観の構えに入って正面に視線を向けると、苦笑する信幸さんと視線が合った。無言で肩を竦める様子を見れば、どうやらそれで正解のようだ。


 その後も和気藹々とした雰囲気の中で鑑賞会は続き、やがて香陽さんが持ってきた分のアルバムは全て見終わってしまった。

 最後のアルバムを閉じたところで、陽華が不思議そうに首を傾げた。


「あれ、小学生の時までしかないの? 中学の時のアルバムも作ってなかったっけ」

「……あら、いけない。ママ忘れて来ちゃったみたい」

「なら私取って来るね。二階の書斎だったよね?」

「おや、あんなに恥ずかしがっていたのに随分ノリノリだね」


 意外そうな信幸さんの言葉に、陽華は小さく唇を尖らせて、


「ここまで見られたら今更だし……それに、辰巳くんは見たいんでしょ?」

「俺? あぁ、見たいな。もっと陽華のことを知りたい」

「……っ! もうっ!」


 俺の言葉に、陽華の耳がほんのり赤く染まった。

 視線を逸らしながら立ち上がると、逃げるように足早にリビングを出て行った。


 その後ろ姿を見送って、パタパタという足音が聞こえなくなったところで──……


「辰巳くん、本当に……本当に、ありがとう」

「えっ、と……?」


 徐に立ち上がった香陽さんに、深々と頭を下げられた。

 その声音に宿る真摯な響きに思わず背筋が伸びる。


「実はね、中学生の頃のアルバムを持ってこなかったのは、わざとだったの。あの子にとって……私たちにとっても、とても辛くて苦しい記憶がたくさんあるから」

「……!」

「それなのに、自分から見せようとするなんて……あなたに出会う前の陽華からは考えられないことだわ。だから辰巳くん……あの子を助けてくれて、本当にありがとう……!」


 震える声で、絞り出すように言葉を紡ぐ香陽さんの姿は……傷つけられた娘のことをどれほど気にかけて、心を砕いてきたのか、察して余りあるものだった。

 そんな香陽さんの肩をそっと抱いて、信幸さんが静かに語りかけてくる。


「私も妻と同じ気持ちだよ。君が居なかったら、同級生たちに脅迫を受けた時に……今度こそ取り返しのつかないことになっていたかもしれない。陽華を助けてくれて、本当にありがとう」

「俺は、何も……」

「……私たちの言葉は、あの子にとってどうしても重荷になってしまっていたから。何もできなかった、とまでは言わないけれど、私たちではあの子を本当の意味で立ち直らせることはできなかったと思う。君の素朴で真っ直ぐな言葉が、あの子の心を救ったんだよ」

「……っ」


 信幸さんの穏やかな笑顔と深い感謝の籠った言葉に、俺は二の句が継げなくなってしまう。

 俺なんかがどうこうしたわけじゃない、そう言いたい気持ちはあった。

 けれど……陽華をずっと見守ってきたご両親に心からの感謝を告げられてまで、謙遜する気は起きなかった。


「俺の下手な言葉が、少しでも陽華の痛みを和らげることができたのなら……それ以上に嬉しいことはないです」


 言葉を選びながらそう返すと、二人も深く頷いてくれた。


 その時、リビングの外からパタパタと足音が響き、アルバムを抱えた陽華が戻ってきた。


「持ってきたよー。……あれ、何かあった?」

「いや、何でもないよ。早速陽華の可愛いセーラー服姿を見せてもらおうかな」


 少ししんみりしていた空気を誤魔化すようにおどけてみれば、陽華はじっとりとした視線をこちらに向けて、


「……辰巳くん、今のちょっと変態っぽいよ」

「…………」


 自覚はある。



 ──その後も陽華が持ってきたアルバムを囲んで、お茶を啜りながら

談笑に興じる俺たち。

 撮影された当時のことを振り返る中で、当事者である陽華ですら忘れていたような話や、逆にここで初めて真相が明らかになったような話も出てきたりして……。

 四人で囲む食卓から笑い声が絶えることはなく、和やかに時が過ぎていった。


 ちなみにセーラー服姿の陽華はめちゃくちゃ可愛かった。

 今度目の前で着てほしいくらいだ……流石に変態チックすぎる気がしたので、口には出さなかったが。




§




 気がつけば外はすっかり夕暮れ時。

 玄関で靴を履いた俺を、明瀬家の三人が揃って見送ってくれていた。


「来てくれて本当にありがとう、辰巳くん。……夕飯も食べて行ってくれてもよかったのよ?」

「流石にそこまでお世話になるわけには……おかずも頂いてしまってますし」

「まぁまぁ。無理強いはよくないし、何も今日が最後というわけでもないんだから」


 頬に手を当てて残念そうに溜め息を吐く香陽さんに恐縮する俺と、それを優しく宥める信幸さん。

 俺の手にはタッパーを入れた手提げ袋が下げられている。これが今日の俺の夕食になる。


 改めて明瀬家の面々に向き直り、深々と頭を下げた。


「今日は美味しい料理と楽しい時間をありがとうございました。これからもよろしくお願いします……!」

「こちらこそ! 沢山話せて嬉しかったよ。またいつでも遊びにおいで、歓迎するよ」

「陽華やパパだけじゃなくて、私とも仲良くしてくれると嬉しいわ! 今度は晩ご飯も一緒に食べましょ♪」

「はい、是非」


 穏やかに会話を交わしていると、靴を履き替えた陽華が自然な動作で隣に並んだ。


「じゃあ私、辰巳くんの見送りに行ってくるね!」

「はいはい、あんまり遅くならないようにしなさいね~」


 最後にもう一度頭下げて、俺は陽華を伴って明瀬家を後にする。

 後ろを振り返れば、玄関先で寄り添い合う夫婦が笑顔で手を振ってくれていた。


 その様子を見て目を細めた俺は、上機嫌に隣を歩く陽華に声を掛けた。


「いいご両親だな。陽華が凄くいい子に育ったのも納得できる、明るくて、優しい人たちだ」

「ふふ、なぁにいきなり? でも……うん、私の自慢の両親だから。辰巳くんと仲良くなってくれてよかった!」

「俺の方こそ、信幸さんたちみたいな人と仲良くなれてよかった。今日は家に呼んでくれてありがとう」


 感謝の言葉を伝える俺に、陽華は嬉しそうに笑って俺の腕に抱きついてきた。


 周囲の気配に気を配ってみれば、住宅街というだけあってそこかしこで人の営みが息づいているのを感じる。

 どこからか漂ってくる香辛料の匂いに、昼食の消化がいち段落した若い胃腸が小さく音を立てた。

 その音に陽華がくすくすと笑みを零す。仕方ないだろ、食べ盛りなんだから……。

 照れ隠しのように、先程から気になっていたことを陽華に尋ねてみることにした。


「あー、陽華。来週誕生日なんだろ? 何か欲しい物とかあるか?」


 あまりに突拍子のない質問に、陽華は大きな瞳ぱちぱちと瞬かせた。


「誕生日なのはそうだけど……あれ、私教えてたっけ?」

「アルバムに書いてあったのを見た。……と言うか、もう少し早く教えてくれよ。何か準備しようにも時間が全く足りないぞ」

「ごめんごめん、言い出す機会がなくて……」


 愚痴る俺に苦笑しながら謝罪する陽華。

 ……まぁ、わざわざ自分の誕生日に言及する機会なんてそうないか。斯く言う俺も陽華に教えた覚えはないし。


「サプライズとかじゃなくて、直接聞いてくるのも何だか君らしいね?」

「それもありかもしれないが……生憎、自分のセンスってものに自信がなくてな。恋人の誕生日を祝うなんて初めてなんだ、確実に喜んでもらえるものを送りたいと思って」

「ふふ、そっかそっか。ますます辰巳くんらしいよ♪ うーん、とは言っても欲しい物なんて…………あっ」


 うんうんと悩んでいた陽華が、ふと何かを思いついたように顔を上げた。

 そして俺の顔を覗き込んで、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。……この顔は、明らかに何かを企んでいる時の顔だ。


「……一応言っとくけど、俺個人に叶えられる範囲のことにしてくれよ?」

「だいじょぶだいじょぶ! そんなに難しいことじゃないから! けど、色々と準備が要るから……欲しいものは誕生日の当日に教えるね!」


 ……プレゼントをもらう側に準備が必要? しかも何が欲しいか当日まで秘密……?

 訝しむ俺に構わず、上機嫌で何事かを画策している様子だ。本当に大丈夫なのだろうか。

 不安になって問い詰めようとするも、タイミングよく──あるいは悪く、目的のバス停に到着してしまった。


 途端に陽華は組んでいた腕をするりと解き、弾む足取りで踵を返す。


「辰巳くん、今日は本当にありがとう! 誕生日については、当日を楽しみにしてて! ばいばーい!」

「え? あぁ、じゃあまた……気を付けて帰れよ!」

「辰巳くんも!」


 大きく手を振り足早に去っていく後ろ姿を見送って、俺は首を傾げた。

 どう考えても誕生日を祝われる側の言動ではない……何故か逆にサプライズを仕掛けられている。

 ……まぁ陽華のやることだし、早々酷いことにはならんという安心感はあるか。


「とは言え完全に任せ切りにするのもな……優唯に相談して、何か見繕っておくか」


 やってきたバスに乗り込みながら、そう独り言ちる。

 果たして今回は一体何を企んでいるのやら──窓枠に頬杖をついて考えを巡らせるも、答えなど出るはずもなく。

 僅かな不安と、それを大きく上回る期待を抱きながら……窓の外で移り変わる景色を、じっと眺めていた。

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