第34話 明瀬家①
……そして迎えた翌日。時刻は昼前。
我が家を出発した俺は、合戦に赴く武将もかくやと言った固い表情で、一人バスに揺られていた。
向かう先は当然明瀬家。昨日から今朝にかけて、何度も陽華に確認したバス停の名前を聞き逃さないよう耳を澄ます。
そうしながら、改めて──家を出る前からもう何度も繰り返しているが──今日の服装を確認する。
涼しげなブルーの半袖シャンブレーシャツに、ストレッチの効いたベージュのチノパンという、陽華考案の簡素ながら季節に合った爽やかなコーデだ。
上下ともにアイロンがけもばっちりで、皺一つ見当たらない。……これも陽華にやり方を教わりながらしたものだ。
……彼女の家に行く準備のために彼女の手を借りるという構図に、微妙に情けない気分になってしまった。
しかし今日は、”彼女のご両親との初顔合わせ”という一大イベントに挑まなければならないのだ。万難を排し、万全を期して挑む必要がある。
信幸さんには面と向かって交際を認めてもらっているし、陽華のご母堂も好印象を持ってくれていると陽華から聞いている。
だとしても、その好印象を維持するための努力を怠ってはならない。
最悪の場合は、今日の顔合わせでご両親の不興を買って、交際関係の解消を命じられることも有り得る……かもしれないのだ。
「……胃が痛くなってきた」
はぁ、と重い溜め息を吐き出して、背もたれに沈み込んだ。
きっと陽華の言う通り、俺の不安はただの杞憂でしかないのだろう。それを理解した上で……絶対に大丈夫だと自分を納得させられるほど、俺は俺に対する自信を持てていない。
陽華の隣に立つに相応しい自分になるために、勉強をはじめとして家事の習得や人間関係についても努力は欠かしていないつもりだが……。
「……思考がダメな方向に向いちまってるな」
このままではいけない。こんな辛気臭い顔をして挨拶に臨むつもりか。
べしべしと頬を叩いて意識を切り替えたところで、目的地のバス停に近付いていることを示す車内放送が聞こえた。
降車ボタンを押して約一分後、やや重い足取りでバスから降りると、
「おはよー、辰巳くん!」
「陽華……バス停で待っててくれたのか」
「だって辰巳くん、今朝電話した時もすごく緊張してたから。ウチに着くまでに倒れちゃわないかなーって、心配になっちゃった」
そう言って笑う陽華は、夏の日差しを受けて一層眩しく見える。
強張っていた俺の表情も、自然と緩んだ。
「流石にそこまでじゃない……けど、ありがとう。助かった」
「ん♪ ほら行こっ」
さっと手を取る陽華に引き摺られるように、明瀬家が居を構える住宅街の路地を歩み始める。
繋いだ手の平から伝わってくる熱で、心の中の緊張が解きほぐされていくような気がした。
「本当に手土産とかなくてよかったのかな。今からでも買っておいた方が……」
「昨日も言ったでしょ? 『辰巳くんはまだ高校生で、しかもこっちから招くんだから気を遣わなくてもいい』って、ちゃんと伝えておくようにってパパから釘を刺されてるんだから」
「むぅ……前の大福といいケーキといい、もらってばかりで申し訳ないな」
唸る俺を見て、陽華はくすくすと笑い声を上げて、
「本当に気にしなくていいのに。それならさ、今度私と一緒にお菓子を作って、それをパパに渡すのはどう? 手作りならお金もそんなにかからないし、お裾分けって形で渡しやすいでしょ?」
「なるほど……アリかもな。とは言え、初めて作ったものを人に食べてもらうのは少し気が引けるが」
「私がちゃんと教えるから! パパなら、それにママも絶対喜んでくれるよ!」
そこまで言うのなら……と期待半分不安半分で頷くと、陽華は嬉しそうに笑って何を作ろうかと悩み始めた。
お裾分けはともかく、陽華と二人でお菓子作りに挑むというのは純粋に楽しそうだ。数週間前のクッキー作りも意外と楽しかったし。
そんな風に話していると、ある家屋を前にして陽華の足が止まった。
「着いたよ、ここが私の家!」
目の前に現れたのは、二階建ての端正な佇まいの一軒家だった。
白とベージュを基調とした外壁に、屋根は落ち着いたブラウンで、夏の日差しを受けてもどこか温かみを感じさせた。
玄関へ続くアプローチには石畳が敷き詰められ、その周辺には色鮮やかな花が植えられた植木鉢が並べられている。
家の横にある駐車スペースには、見覚えのある車が停められて、表札には”明瀬”の文字が掲げられている。
陽華の進学とともに新築の住居を買ってこちらに越してきたと言う話だったが、そこには確かな生活感が根付いていた。
「……何と言うか、温かい家だな」
「んふふ、ありがと♪ ……辰巳くん、もう大丈夫?」
笑顔で振り返る陽華に、俺はごくりと生唾を呑み込んだ。
ついに来てしまった。これから、ご両親と”陽華の彼氏”として対面するのだ。
否応なく体を強張らせる俺の肩を、陽華の細い手がポンポンと叩いた。
「そんなに緊張しなくていいってば! ほらほら、深呼吸深呼吸! 吸ってー……吐いてー……」
両手を広げてリズムを取る陽華に合わせ、俺は少し照れながらも素直に息を整える。
不思議なもので、それだけでも肩の力が抜けた気がした。
……もはやここまで来て後戻りはできないし、するつもりもない。
身嗜みはばっちり。会話のシミュレーションも十分してきた。覚悟はとっくに決めてある。
「……よし。行こう」
「ん、いつも通り、とってもカッコいいお顔になったね。大丈夫、パパもママも、辰巳くんのこと待ってるから」
安心させるような優しい笑みを残して、陽華はスタスタと玄関の方へ向かって行く。俺もぎこちない足取りでその背を追った。
ドアを開けた陽華に促される形で、俺は初めて明瀬家の敷居を潜ることになった。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませ~。……パパ! ママ! 辰巳くん来たよ~!」
扉の向こうに広がる空間の広さに驚きながら、軽く会釈して玄関に足を踏み入れた。
陽華の呼びかけから数秒後、パタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえてくる。
「我が家へようこそ、辰巳くん。来てくれて嬉しいよ」
「ご無沙汰しています、信幸さん。今日はお招きいただき、ありがとうございます」
柔和な笑みを浮かべる信幸さんに、ぴしりと折り目正しく頭を下げて挨拶する。
見るからに緊張を前面に浮かべる俺に、信幸さんは小さく苦笑を零したようだった。
「そんなに固くならなくても……と言いたいところだけどね。同じ男として、今君が感じている不安や緊張については、陽華よりも理解しているつもりだよ」
ポン、と肩に手を置かれて、顔を上げるよう促される。
改めて顔を突き合わせれば、彼の視線には深い共感と好意の色があった。
ふとその視線が横に逸れて、陽華の方へと向いた。
「陽華、母さんがお昼ご飯の準備をしているから、手伝いに行ってあげなさい。母さんも辰巳くんと話したくてうずうずしているみたいだしね」
「はーい。辰巳くん、また後でね! パパ、辰巳くんは私の彼氏なんだから、あんまり仲良くしすぎないでよね!」
ぷっくりと頬を膨れさせてそう言い残した陽華は、スリッパに履き替えて奥の方へ駆けて行った。
……肩を竦めた信幸さんに揶揄うような目で見られたが、俺には何も言えなかった。
気を取り直して、俺も靴を履き替える。そうしながら、しみじみと語る信幸さんの話を聞いた。
「斯く言う私も、妻のご実家に挨拶に伺った時はすごく緊張しちゃってね……特に私は、義両親からあまり快く思われていなかったから」
「……そうなんですか」
「そうなんだよ。私と妻は少し年齢差があってね、随分と厳しい目で見られたものだよ……あぁ、すまない。君に愚痴を言いたかったわけじゃなくてだね。君の気持ちを理解した上で。心配する必要はないと言いたかったんだ。さっきも言ったが、妻は本当に今日を楽しみにしていてね」
信幸さんは愛おしいものを見るように目を細めて、廊下の先を見やった。
「全力で君をもてなそうと、今も張り切って料理をしているよ」
「確かに……お腹が空いてくる、いい匂いがしますね」
「ふふふ、そうだろう? 実は私も、さっきからずっとこの匂いを嗅いでるせいで、お腹が空いて仕方がないんだ」
今日は明瀬家で昼食を頂くことになっていた。流石に恐縮してしまったが、陽華のお母さんたっての希望とあっては断れない。
この家に足を踏み入れた瞬間から漂ってくる食欲をそそる香りに、否が応にも期待が高まっていく。
くんくんと控えめに鼻を鳴らしながら、信幸さんに続いて廊下を歩く。
廊下の突き当たり、恐らくダイニングに繋がる扉を開けて中に入っていく信幸さん。その後ろから、そっと身を乗り出した俺は──ぱっと視界が明るくなるような感覚を覚えた。
「あらあら、まあまあっ! あなたが辰巳くんね? ようこそいらっしゃいました!」
視界の先、リビングに立っていたのは──陽華をそのまま数年成長させたような女性だった。
柔らかく揺れる亜麻色の髪に、明るく透き通った瞳。にこにこと綻ぶ笑顔は、見るだけで胸の奥が温まるようだ。
エプロン姿で料理が乗った皿を手に持っていた彼女は、皿をテーブルに置いてパタパタとこちらに駆け寄ってきた。
「初めまして、陽華の母の明瀬香陽と言います。陽華からいつもお話を聞いていて、ずっと直接会ってお話ししたいと思ってたの! 今日は来てくれて本当にありがとう、とっても嬉しいわ♪」
「は、初めまして……柳田辰巳と申します。本日はお招きいただきありがとうございます。娘さんには、いつも大変お世話に……」
「あらあら、礼儀正しい子ね。陽華ったら、こんなに素敵な彼氏を連れてきてくれるなんて! 嬉しいわぁ……感動でもう泣いちゃいそう!」
両手を胸の前で合わせて、感極まったように声を上げる。
その表情には若々しさが溢れていて、とても高校生の娘がいるようには見えない。
俺とお母さんが話している間に、信幸さんと手分けして配膳を行っていた陽華が不満げな声を上げた。
「ママー! ちょっと落ち着いてよ、辰巳くん困ってるじゃん」
「まぁ陽華ったら、ママにヤキモチ? 本当に大好きなのねぇ。陽華はいつでも好きなだけいちゃいちゃできるんだから、今ぐらいはママに譲ってちょうだいな」
「むー」
母親にヤキモチを指摘されるのは流石に恥ずかしかったのか、可愛らしい唸り声をあげて黙り込んでしまう陽華。
そんな陽華を微笑ましそうに見ていたお母さんは、優しい笑みを浮かべてこちらに向き直る。
「でもそんなに固くならないで? 何も結婚の挨拶をしに来たってわけじゃないんだから。今日はお客様として、気楽にもてなされてくれると嬉しいわ。……あっ、もしかして」
はっ、と何かに気付いたように息を呑むお母さん。
「もうそこまで話が進んでたりするのかしら……!? どうしましょうパパ、いきなり息子ができちゃうわ……!」
「ママー、それもうパパがやったよ」
「あら残念」
呆れ気味の陽華のツッコミに、お母さんはぺろりと舌を出す。あざとい仕草が、彼女の纏うふんわりとした雰囲気に絶妙にマッチしていた。
……なるほど、陽華の明るさと包み込むようなお茶目さの根源はこの人か。
そんな母娘のやり取りに、信幸さんが温かく笑いながら声を掛ける。
「二人とも、立ち話はそこまでにしよう。お客様をいつまでも立たせておくわけにはいかないだろう? 後の準備は私がやっておくから、香陽と陽華は座って話を続けるといい」
「はぁい。ありがとうパパ、お先に楽しませてもらうわね?」
「あぁ、私はもう何度か話をさせてもらってるからね。今日は香陽に譲るさ」
「まぁっ! 辰巳くん、パパだけじゃなくて私とも仲良くしてね?」
「あ、はい、是非……」
「私の彼氏なんだけどー」
「もちろん陽華も一緒によ♪ さ、二人とも席に就いて。ご飯を食べながらゆっくりお話しましょ」
ニコニコ笑顔のお母さんに促され、おいしそうな料理が所狭しと並んだテーブルを囲んで席に着く俺たち。
配置としては俺と陽華が並んで座り、その対面にお母さんと信幸さんが座る形だ。……個人的にはお母さんが真正面に居るのは少し落ち着かなかったが、流石に失礼なので口には出さないでおいた。
「これは……凄いですね」
気を取り直してテーブルの量に目をやり、俺は感嘆の息を吐いた。
唐揚げ、串焼き、ハンバーグ、ロールキャベツ……大皿に積まれた主菜級のおかずが一つ二つではなく、これでもかとテーブルを占拠していた。
その横に色鮮やかなサラダやカプレーゼが彩りを加えている。
大皿から立ち上る湯気が食欲をそそり、香ばしい匂いやソースの甘い香りが空間を包み込む。
パーティーもかくやと言う豪華なご馳走で、とても美味しそうだ……。
美味しそうだが……流石に多すぎないか?
「陽華の彼氏が来てくれるって聞いて、ママ張り切っちゃった♪ 沢山食べてね!」
「は、はい。ありがとうございます……」
パチリ、と可愛らしいウインクを飛ばしてくるお母さんに、俺は頬を引き攣らせた。
現役運動部ならまだしも、すでに引退した現帰宅部にこの量は流石にきつい。しかし食べ切れずに悲しませるのも……。
自分の胃袋と壮絶な交渉を繰り広げる俺を見て、隣に座った陽華がこっそりと囁いてくる。
「ごめんね、ママはテンション上がると歯止めが利かなくなっちゃうとこがあって……無理に食べ切らなくていいし、言ってくれればタッパーに詰めて持って帰ってくれてもいいからね」
「……ありがとう、安心した」
小声で言葉を交わして笑い合う俺たち。
そんな様子を見て、お母さんはにまにまと実に楽しそうな笑みを浮かべた。
「あらあら、母親の前でそんなにくっついて! ラブラブで火傷しちゃいそうだわぁ。パパ、私たちの学生時代もこんな感じだったのかしらね?」
「そもそも私たちは学校が違っただろう? あんまり茶化すもんじゃないよ」
「はぁい」
信幸さんに窘められても、その笑顔は微塵も揺らがなかった。
陽華も交えて三人で軽い雑談をしている内に、諸々の準備を終えた信幸さんも着席する。
全員に飲み物が行き渡ったところで、お母さんがコップを持ち上げて、
「せっかくの機会だし、皆で乾杯しましょ!」
「いいね。……どうせ乾杯するなら、酒がよかったんだけどなぁ」
「お昼からお酒はダメですー。今月はできるだけ控えるって約束してたでしょう?」
「わかってる、わかってるさ。ま、数年後に期待しとこうかな」
そう言って茶目っ気たっぷりなウインクを飛ばしてくる信幸さんに、俺も笑みを返した。
「俺も楽しみです。是非呼んでください」
「辰巳くん! パパより先に私とだからね! 絶対だよ!」
「うーん……陽華は血筋的にすごく弱い方だろうし、あんまり人前で飲まない方がいいと思うわ。恥ずかしい姿を見せちゃうかもよ?」
「えー!?」
「……それはそれで楽しみですね」
「辰巳くん!?」
冗談めかして言ってみると、頬を膨らませた陽華にぺしりと腕を叩かれた。全く痛くない。
じゃれ合う俺たちを見て対面のご両親が温かく微笑む。……何だか居た堪れなくなった。
「料理が冷めてしまうし、そろそろ乾杯しようか。私たちの出会いと、二人の前途を祝って……乾杯!」
「「「乾杯!」」」
グラス同士が軽やかに触れ合い、朗らかな笑い声が食卓を包む。
香ばしい料理の香りと温かな空気に、胸の奥を締めつけていた緊張がいつの間にか消えてなくなっていることに気付いた。
こうして、明瀬家でのひとときが穏やかに幕を開けたのだった。




