第33話 夏休み
「えー、明日からいよいよ夏休みに入りますが、えー、皆さんね、わが校の生徒としての自覚と責任を持った、行動をね、えー、心がけるようにね。皆さんの行動の一つ一つが、えー、我が校の全校生徒723人に対する印象として降りかかることを、えー、決して忘れないこと……そして何より、えー、怪我には十分に気を付けて、安全と体調に気を配りながら楽しみなさいね。えー、そして──……」
全校生徒が一堂に会する体育館に、マイク越しに増幅された我らが校長先生の少し掠れた声が響く。
校長先生が壇上に立って既に十分近く経つが、まだ話は終わらないようだ。余程話したいことが多いようで、カンペの類も見当たらないのに矢継ぎ早に新たな話題が飛び出してくる。
今日の日付は七月二十日。夏季休暇に入る前の最期の登校日であり、現在は一学期の終業式、その真っ最中だ。
梅雨明けから二週間近く経って、季節はとっくに夏に突入している。天気は憎たらしくなるほどの快晴。700人以上の人間が詰め込まれた狭い空間で、日本の夏特有の高温多湿が牙を剥き……率直に言って地獄だ。
当然だが体育館に冷房などない。体育館の四隅に設置された大型扇風機が大きな音を立てて首を振るが、ほとんど火に油だ。
立ち込める熱気の中に、徐々に溜め息や嘆息、舌打ちの音などが混ざり始めた。校長先生もハンカチで額を拭きながら、それでも尚話を……あ、教頭先生のストップが入った。
そろそろ本気で体調不良になる生徒が出て来そうだったしな。正直もう少し早く止めてほしかったが。
校長先生と入れ替わるように足早に壇上に上がる教頭の背中に、生徒たちからの無言の喝采が飛ぶ。
その後は簡単な伝達事項の確認と挨拶を終えて、晴れて俺たちは地獄から解放されることになった。
体育館全体に色濃い疲労と安堵の空気が広がる中で、出席番号順で前に座っていた森山が心底くたびれた様子で振り返ってきた。
「……校長が何回”えー”って言ったか数えてたんだけど、聞くかい?」
「……一応聞いとこうか」
「100超えた辺りで意識が途切れて諦めた」
数えてないじゃん、とツッコむべきか、よく100回まで数えてたな、と褒めるべきか。
少し考えようとして……面倒臭くなって放り投げた。心身ともに疲労している時に、余計な思考にエネルギーを使いたくない。
ぞろぞろと出口に向かう人混みを遠巻きに眺めていると、少し離れた場所に居た陽華と視線が合った。
高宮さんたちと一緒に居た彼女は、疲れを感じさせない明るい笑顔でこちらに手を振ってくれた。
疲れ切った時に見る陽華の笑顔は凄いな。萎え切った体に一瞬で活力がチャージされる感覚がする。
多少の元気を取り戻した俺は、陽華に手を振り返しながら、隣で項垂れる森山の肩を叩いて、
「へばってないで早く教室に戻ろう。夏休みはもうすぐそこだぞ」
「……そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」
「すまん、調子乗った」
「いいよ」
中学の国語の授業で読んだ覚えのある文章を口にしながら恨めしそうに睨んでくる森山に、素直に謝罪した。
熱さに茹っていた頭に追加で燃料を投入されて、少しおかしなテンションになっているようだ。
「明瀬さんが絡むと君いつもそんなんだけどね」
「……自覚はある」
「逆に明瀬さんも君が絡むとそんな感じなんだよね」
「可愛いだろ?」
「うるさいよ。……ま、君らがいつでもどこでもそんな感じだからこそ、最近は色々落ち着いてきた印象だけどね」
そう言って、森山は周囲の喧騒を見回した。
この数週間の内に、”あの明瀬陽華に彼氏ができた”という情報は学校中に知れ渡っていた。
学年を飛び越えて学校のアイドルとしての地位を築き上げていた陽華のスキャンダル(?)に学校は大盛り上がり。
人目を憚ることなく二人で登下校を繰り返していたために、彼氏である柳田辰巳という男の情報も一瞬で広まり、一躍俺たちは学校中の注目の的となった。
登下校や教室移動の度に、周囲から浴びせかけられる好奇や嫉妬の視線。
情報の真偽を確かめるためか、あるいはただの見物人か、教室にまで押しかけてきて……中には俺や陽華に直接問い詰めてくる者も居た。
その喧騒に対して、俺たちが選んだ対処法は──即ち静観だ。
俺と陽華は真っ当に絆を深めて、正面から告白をしたことで交際関係になったのだ。恥じる必要も、遠慮する必要もこれっぽっちもない。
人目を気にせず堂々と恋人として接する俺たちの態度と、クラスメイトたちの証言によって、俺と陽華の関係は公然の事実となった。
それによって学校中を巻き込んだ大騒ぎは、一応の収束を見せた。
どうしても受け入れられないのか、陽華や俺に迫ってくる輩も居たが、それは全て俺が睨みを利かせてシャットアウトした。
……中学の頃までは、他人に威圧感を与えて人を遠ざけてしまう自分の風貌に複雑な感情を抱いていたものだが。今となっては頑丈で大柄な体格に産んでくれた両親に感謝しかない。
騒ぎが落ち着いたとはいえ、俺たちが未だ注目される立場にあることは変わりない。
友達と談笑する陽華と同じぐらい、俺の方にも周囲からの様々な感情を含んだ視線が飛んでくる。
「……本当に大丈夫かい?」
「直接詰め寄ってくるようなのはもう居なくなったし、陽華の周りも高宮さんが目を光らせてるから心配は要らないと思う。じろじろ見られるのは鬱陶しくはあるけど、特に害があるわけでもないからな。それに……」
「それに?」
不思議そうに見上げてくる森山に、俺はフンと鼻を鳴らして、
「そんなことに煩わされて、陽華と過ごす時が減ったり楽しめなくなる方が馬鹿らしいだろ」
「ははぁ……」
微妙な表情で顎を擦る森山。
「夏休みかぁ……」と脈絡のない呟きを漏らす彼の表情は、どこか怯えているようにも見えた。
「何だよ」
「いやぁ、夏休み……一か月と少しの間、君たちは何の制約もなく心置きなく存分にいちゃつけるわけでしょ? 今でさえ胸焼けしそうなぐらいに甘い君たちの関係が、休みが明けたらどうなってるかと思うと……不安で夜しか眠れないよ」
「…………」
ちゃんと眠れてるじゃねぇか、とツッコむ気は起きず。
胸中に浮かんだ同様の不安を誤魔化すように、森山の背中を強めに押して歩き出した。
§
「ほらほら、サクッとHR終わらせてやるから、早く夏休みに入りたかったらさっさと席に着け!」
吾妻先生の言葉で、思い思いの場所で談笑していたクラスメイトたちが俊敏な動きで席に着いた。
その光景を苦笑して眺めて、先生は号令すら省略してHRを開始する。
様々な配布物を委員長の陽華と手分けして配りながら、伝達事項を話し始めた。どうやら先生も早く終わらせたいらしい。
「……これが俺の電話番号とメアドだ。何かあったらまずこの番号に電話するかメールを送るように! 優秀なお前らなら俺の手を煩わせることはないと信じてるぞ!」
「せんせーを遊びに誘うのはアリですかー?」
「暇な時話し相手になってくれたりしません?」
「ダメに決まってんだろ、お前らは夏休みでも先生は色々あるんだよ。他の学校に研修に行ったりとか、受験の準備とか……なんなら今日もこれから近くの大学の先生が来るから、早く準備に取り掛かりたいんだ。
それはそれとして、もし万が一事故に遭ったり大きな怪我をした時は、必ず連絡してくれよ! 絶対だぞ!」
念を押すように真剣な表情でそう告げて、話を終える先生。
次は通知表の配布だ。矢継ぎ早に呼ばれる名前に、駆け寄るように教壇に向かうクラスメイトたち。
全員の手に渡ったことを確認して、吾妻先生は教壇に手を置いて全員の課をゆっくりと見回した。
「再三だが、怪我や病気には十二分に気を付けるように……九月にまた、こうして元気なお前らの顔を見られることを願っている。せっかくの長期休暇だ。海で遊ぶなり旅行に行くなり、存分に楽しめ! 以上! 日直……いや、委員長、号令を頼む! 一学期最後の挨拶だ、しっかり声を出せよ!」
「はいっ!」
陽華の号令の下に行われた別れの挨拶は、蒸し暑い夏の熱気を吹き飛ばすような爽やかさがあった。
そうして、ついに始まった夏休み。
ワッと一斉に盛り上がる教室内で、橋本が笑顔で振り返ってくる。視界の端で森山や赤坂たちもこちらに寄って来るのが見えた。
「おいお前ら! ついに夏休みだぞ夏休み! 海か!? 祭りか!? バーベキューか!? うおおお楽しみが止まらねぇぜ!!」
「いきなりうるせぇなお前……まぁ気持ちはわかるが」
「僕たちの場合は遊ぶより先に練習でしょ、大会も近いんだし」
「もちろん大会も楽しみに決まってらぁよ!」
テンション高く叫ぶ橋本に苦言を呈しながらも、赤坂と森山も笑みを隠し切れていなかった。
そんな橋本に、俺も笑って声を掛けた。
「試合の日程がわかったら教えてくれ。応援に行くよ」
「おうよ! 無敵のエース様の活躍をしっかり目に焼き付けるといいぜ……あまりのカッコよさに惚れんなよ?」
テンションが高まりすぎてどこかぶっ壊れているらしい。アホなことを宣う橋本の頭をぺしりと叩いて、
「バカ言うなよ。陽華が居て目移りなんてするわけないだろ」
「あ、そっちなんすね」
呆れ気味にツッコんでくる濱崎。それ以外に何があると言うのか。
俺たちのやり取りに、赤坂が羨ましそうな目を向けてくる。
「彼女持ちはいいよなぁ。夏休みなんて完全にボーナスタイムだろ。水着で海行ったり、浴衣で夏祭りに行ったり……あー羨ましい」
「まったくっすよ! 少しは持たざる者への配慮ってやつを……」
「お前はお前でこの夏で少しは進展させろよ。せめて自分から向井さんに話しかけるぐらいできないと、お前ただのストーカーのままだぞ」
「ストーカーなんかじゃないっすよ失礼な!」
いや、客観的に見て若干粘着質なのは事実だと思うぞ。それを直接言わないだけの優しさは俺にもあった。
それはともかく……そうか、浴衣で夏祭りか。
水着で海に行くのは前から決まっていたので必死に覚悟を決めているところだったのだが、夏祭りについては全く頭になかった。
浴衣か……はっきり言ってめちゃくちゃ見たい。レンタル代は俺が負担するから、着てほしいと頼んでみるか。
「辰巳くーん!」
そんな話をしていると、濱崎たちの後ろから陽華たちが歩み寄ってくるのが見える。
ウキウキとした笑みを浮かべる陽華に、とりあえず直接聞いてみることにした。
「えっ、浴衣? うーん、ママが着てたのが家にあったと思うけど……着てほしいの?」
「あぁ。それで夏祭りにも行きたいと思って」
「夏祭りかぁ~! いいね、それ! 絶対行こう!」
よし。夏祭りの大きな楽しみがまた一つ増えた。
呆れた視線を向けてくる橋本たちを他所に、俺は手早く荷物をまとめて立ち上がった。
「何だ、もう帰るのか。この後昼飯誘おうと思ってたんだが」
「悪い、先約があってな。また今度誘ってくれ」
「ちなみに俺も無理だぜ! これから彼女とデートなんでな! ……いてっ、何で俺だけ!?」
「柳田についてはもはや諦めの境地だが、お前はまだムカつくわ」
「理不尽!」
取っ組み合いを始める橋本と赤坂。元気が有り余っているようで何よりだ、これは試合の活躍も期待できそうだな。
適当なことを考えながら、森山たちと簡単に別れの挨拶を交わして陽華に向き直る。
「じゃあまたね、佳凛! 美樹!」
「えぇ、また。夏休みだからって羽目を外しすぎないようにしなさいよ」
「佳凛ってばお母さんみたーい。またね陽華! 後で連絡するねー!」
「ふふ、気を付けまーす」
「あなたにも言ってるのよ、美樹。遊ぶならちゃんと宿題をした上で……」
「うわーん! 陽華ぁ、佳凛が虐めてくるよぉー!」
「おーよしよし……私も手伝うからさ、宿題はちゃんとしよ?」
なんとも和やかなやり取りを終えて、陽華もこちらにやって来る。
そのまま自然な流れで手を取られたので、俺も指を陽華のそれと絡めるように動かして恋人繋ぎの形に変えた。
ふっと笑い合い、教室を出て帰路に着く。
「今日はスーパーに寄ってから、そのまま俺の家でいいんだよな?」
「うん! 今日は暑いし冷やし中華にしようかなって。さっぱりしてていいでしょ?」
「冷やし中華か……いいな。具材は卵とハムときゅうり?」
「そうそう! あとトマトも買って行こうかな。辰巳くんはトマトが苦手とかはなかったよね?」
「あぁ、むしろ好きな方だ。楽しみだよ」
自然に会話は弾む。けれど心の奥では、ほんの少しだけ落ち着かない。
陽華お手製の冷やし中華に心が弾む一方で──その後に待ち受けることを考えると、胃の辺りが妙に重たくなる。
やや歩調の鈍った俺に、不思議そうに陽華が顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 辰巳くん」
「いや、ただ……その、明日のことを考えて、少し。……食後は、ちゃんと話し合って、段取りを詰めておかなきゃ」
緊張に身を固くする俺を元気づけるように、陽華はにこやかに笑ってぎゅっと腕を抱き締めてくれる。
「そんなに緊張しなくていいって、何度も言ってるのに! ふふっ……じゃあしっかり食べて、頭も冴えた状態で頑張らなきゃね」
「……あぁ、そうだな」
明るい陽華の笑顔に励まされつつも、俺の心臓は落ち着くことなく鼓動を速めていた。
それも当然だろう。何故なら明日は……陽華の家にお邪魔させていただくことになっているのだから。