第30話 ご褒美
「おら席に着けー……こら、制汗剤は使っていいけど無臭か匂いの弱いものに限るって言っただろ」
五時間目の終了後。更衣室で着替えを終えた女子の大半が教室に帰ってきた頃に、書類を抱えた吾妻先生がやってきた。
教室に足を踏み入れるなり顔を顰めた吾妻先生の苦言に、一部の生徒がぶーぶーと非難の声を上げた。
「それならエアコンつけさせてくださいよー。あつーい!」
「そうだそうだー!」
「例年なら冷房開始時期は七月からになってるんだが……今年は暑いからな。今日の職員会議で提案してみるか」
「やったー!」
「吾妻先生最高ー!」
「現金な奴らめ……」
一瞬で手の平を返すクラスの面々に苦笑しながら教壇に立つ先生。
プリント類の配布を手伝おうと陽華が席を立つが、先生はそれを手で制してにやりと笑った。
「ありがとう明瀬。だがこれは今じゃなくてHRが終わってから配ろうと思っててな。今渡したら、お前ら先生の話なんて聞かなくなっちまうだろ」
「それってもしかして……」
「おう、お前らの個人成績表だ。中間テストの合計点と各教科毎の学年、学級での順位、平均点なんかが載ってる」
その宣言に対するクラスの反応は、まさしく悲喜交々。
橋本や濱崎と言った点数が芳しくなかった面々が悲鳴を上げる一方で、陽華や高宮さんのような勉強ができる人たちは至って平然としていた。
俺自身、自分でも意外なほどに冷静だった。十教科の合計で833点。これだけの点数が取れていれば、過度に心配する必要はないだろう。
朝と同じ流れでHRは進行し、各教科連絡係と委員会の連絡を経て先生の話が始まる。
「連絡事項はそれほど多くないからサクサク行くぞ。まず今週で夏服への移行期間が終わる。最近は気温もじりじり上がっているし、夏服の準備をしっかりしておくように。それと……」
続いて二点ほど連絡事項が伝達され、日直の号令によって別れの挨拶をして……いよいよお待ちかねの成績表配布の時間だ。
「この成績表はこれから三年間お前たちの成績を記録して、確認できるようにするためのものだ。学期終わりに集めるから、それまでにテストの反省を書き込んで保護者のサインをもらっておくように。出席番号順に配るぞー。まず赤坂ー」
「はーい」
不安そうな顔で立ち上がった赤坂に続いて、陽華がその後ろに並ぶ。
気負いのない自然な態度で成績表を受け取り、軽く頭を下げて席に戻った……直後に、周囲の女子が陽華の席を取り囲んだ。
陽華が成績表を開くと、本人より先に女子たちから歓声が上がった。
「やば、学年一位じゃん!」
「さっすが陽華! 天才!」
「見事一年で一番勉強ができる生徒の座を勝ち取った感想はー?」
「こりゃ期末も一位行けるんじゃない!?」
「あんまり大声で言わないでよー。天才とかじゃないし、普段の勉強の成果がちゃんと出たってだけだよ。期末は二教科増えるし、次は上手くいくかわからないんだから油断せずに頑張らなきゃ!」
「おー、謙遜と配慮を感じる素晴らしいコメント……」
きゃいきゃいと盛り上がる女子の声に、教室全体も俄かに盛り上がりを見せていた。
近くの友人たちと成績表を見せ合ったり、順位を見た途端に崩れ落ちる生徒や逆に飛び上がって喜ぶ生徒が居たりと、実に賑やかだ。
名字が柳田なので俺の番までまだかかりそうだ。赤坂や岡たちがこちらに歩み寄ってくるのと入れ替わるように、橋本が席を立つ。
「おう赤坂、岡。結果はどーよお前ら」
「俺はまぁぼちぼち。少なくとも半分よりは上」
「おー、意外とやるじゃねぇか」
「何で俺より点数やべぇやつがんな余裕そうにしてんだよ」
「たぶん赤点は回避できてるからヨシ! んじゃ行ってくるわ」
気楽な様子で教壇に向かう橋本を見送って、赤坂が揶揄い交じりに声を掛けてきた。
「明瀬さん学年一位だってな。柳田も彼氏として鼻が高いんじゃねぇの?」
「それは陽華が努力で得た成果だ。恋人とはいえ、俺が誇ることじゃないよ」
「お、おぉ……なんかすまん」
若干引き気味で謝罪してくる赤坂の反応に、逆に申し訳なくなった。
冗談でも言って軽く流せばよかったのに、ただの軽口に対して熱くなりすぎだ。
空気を悪くしてしまったことを謝ると、赤坂は笑って首を振った。
「先に失礼なこと言ったのはこっちだから気にすんなよ。それに柳田のそういう……誠実なとこ? は、間違いなく美点だよ。俺も橋本も、お前がそういうやつだから仲良くしたいと思ってんだ」
「赤坂……」
やはり俺は、人の縁に恵まれているな。
橋本経由で知り合ったことを考えれば、いい意味での”類は友を呼ぶ”実例と言えるかもしれない。
そんな風に話している内に、成績表を受け取った橋本が戻ってきた。同じ”は行”の濱崎も一緒だ。
「ういー……おっ、何か仲良くなってない? 何話してたん?」
「何でもねーよ。んで結局どうだったんだよ結果は」
「ふっふっふ……」
胡乱な笑い声と共に見せつけられた成績表の数字に、俺たちは揃って「うわぁ」と声を漏らした。
そこにあったのは見るも無残な数字の羅列。ほとんどの教科が平均点を大きく下回り、一部は赤点ラインギリギリだ。順位も当然底に近い。
「橋本お前、どうやって受験突破したんだよ」
「こいつスポーツ推薦だからなぁ。この高校、結構有名な強豪校だし」
「確かスポーツ推薦って、競技の実績以外にもある程度の学業成績も必要だったはずなんすけどねぇ」
首を傾げる俺たちに、橋本は何故か得意げに胸を張った。
「中学ん時は彼女にケツ叩いてもらって何とか成績維持してたし、受験の時も助けてもらった!」
「そうか……」
これも惚気にカウントするべきなのだろうか。どちらかと言うと橋本の彼女さんの苦労話と呼んだ方がいいのかもしれない。
そんな話をしている内に順番は進み、俺の一つ前の出席番号の森山が呼ばれる声が聞こえた。橋本たちに一言断ってから席を立つ。
粛々と成績表を受け取って席に戻る際、森山も一緒についてきた。
「おー森山! このバカにサッカー部の実力を見せてやってくれ!」
「何だい実力って……僕も別に人に誇れるようなものじゃないんだけどね」
苦笑を浮かべる森山の手から成績表をひったくる赤坂。おいおいと思ってしまうが、当の森山が怒る様子はない。
俺が過敏すぎるだけか……やはり友達付き合いの経験値が足りていないのか、と少しセンチメンタルな気分になってしまう。
森山の成績表を開いた赤坂たちが、おお、と感心したような声を漏らした。
「いやお前、学級三位に学年八位て……何が人に誇れるようなものじゃないだよ」
「これで誇れないなら俺らの成績は何なんすかねぇ……。勉強できる方ってのは知ってたけど、ここまでとは知らなかったっすわ」
「俺は森山よりサッカーが上手いが、森山は俺より勉強ができる。森山は勉強なら俺に圧勝だが、サッカーだと俺に勝てない。これでバランスが取れてるな!」
何のバランスだよ、と橋本の発言にツッコミを入れながら、俺も称賛の言葉を口にする。
それを受けた森山の表情に喜びはほとんどなく、少し苦みの強い笑みだけがその内心を覆い隠していた。
「……凄く出来のいい幼馴染が居てね。その子に追いつきたくて、昔から勉強を頑張ってたんだ。結局その子には一度も勝てなかったけど……その時の努力のおかげで、今もそこそこの成績を維持できてるってわけさ」
「そこそこの範疇には収まらんと思うが……」
過去を懐かしむような、悔いるような森山の視線が教室を彷徨い……ある一点で静止した。
そこに居たのは、銀縁の眼鏡をかけた長身の女子だ。森山が彼女に視線を向けた……そう思った次の瞬間には、何事もなかったかのように再び笑顔を浮かべていた。
「そう言う柳田くんの方はどうなんだい? あの明瀬さんに教えてもらってたんだろう?」
「ん、あぁ……今見てみるよ」
自分から話題に出してきた以上、そこまで深刻な話ではないのかもしれないが……俺と森山は、つい一時間前に知り合ったばかりだ。踏み込めるほどの関係値もない。
努めて意識を切り替え、自分の成績表を開く。
……学級では四十人中六位、学年では二百四十二人中二十九位。想像していたよりも大分高い。純粋に嬉しい結果だ。
少し高揚したテンションのまま成績表を見せると、橋本たちは露骨に驚く様子を見せた。
「マジかお前、めっちゃ上位じゃん」
「流石っすわ師匠! リスペクトが留まるところを知らねぇぜ」
「柳田に頭いいイメージあんまなかったから意外だわ……すげーな」
口々に投げかけられる褒め言葉に、思わず頬が緩むのを感じた。
その横で、ガクリと崩れ落ちる人影が一人。何事かと目を向ければ、先程から黙りこくっていた岡が床に手と膝をつき、肩を震わせていた。
「くそっ、柳田に負けた……!」
「そんなに悔しがることかよ……お前は何位だったん?」
「…………」
「どれどれ……橋本ほどじゃなくても、お前も下から数えた方が早いじゃん。何でこれで張り合おうと思ったんだよ」
呆れたような赤坂の言葉に、岡がさらに沈み込んだ。
どうやら我がライバル殿は勉強は不得手だったらしい。彼には是非この悔しさをバネにしてこれから頑張ってほしい……どこ目線で言ってるんだ俺は。
岡を励ましたり貶したり、かと思えばいきなり他の面子(主に橋本)に飛び火したりと、実に賑やかな彼らの様子を見て小さく笑みが漏れる。
思えば、こうして友人とテストの順位を見せ合ってワイワイ騒ぐと言うイベントを経験するのは、これが初めてだった。
嫉妬とやっかみ交じりに、何が楽しいんだと腐していた時期もあったが……いざ経験してみると、存外楽しいものだ。
感慨に浸っている俺の耳に、一人の女子の快活な声が届いた。
「辰巳くん!」
「ん、陽華か」
顔を上げれば、満面の笑みの陽華が成績表をずいと突き出してくる。
そこには一桁の数字が連続して記載され、彼女が中間テストにおける最高得点者であることを明示していた。
何かを期待するように見つめてくる陽華に、俺は笑いながら声を掛けた。
「学年一位だなんて凄いな。本当によく頑張ったと思う」
「ふふ、私えらい?」
「凄く偉い。めちゃくちゃ偉い」
「えへへ、うれしい……♪」
俺の飾り気のない褒め言葉に頬に手を当ててはにかむ姿は、直視が憚られるほどに可愛らしい。つい抱き締めたくなってしまう。
先程まで陽華との接触を控えていた反動が来ている……反射的に動こうとした腕を気合で押さえつける。危うく配慮も自重も何もかも投げ捨てるところだった。
必死に理性を保とうとする俺に気付いた様子もなく、陽華はコホンと咳払いをしてポケットからスマホを取り出した。
「彼氏である辰巳くんは、頑張った私にご褒美をあげるべきだと思います!」
「これは……クレープか?」
「そう! 今ちょうど駅前に来てて、結構評判なんだって。六時ぐらいまでやってるらしいから行ってみない?」
なるほど、学年一位のご褒美としてこのクレープをご所望ということか。
もちろん俺に否やはない。それしきのことでこの努力家な恋人への労いになるのであれば、いくらでも奢ろうとも。
「もちろんいいよ。すぐに準備する」
「ありがとう辰巳くん! ふふ、初めての放課後デートだね?」
スマホを口元に当て、屈託のない笑みを浮かべる陽華。
デート、デートか……思い出してみれば、正式に陽華と二人でデートをするのはこれが初めてになるのか。
「しかしそうなると……陽華へのご褒美としては、少し適さなくなるかもな」
「えー、どうして?」
「俺も行きたかったから、陽華とのデートに」
陽華の頑張りへのご褒美と言うのならば、彼女を喜ばせることだけを目的とした場であるべきだ。
自分でも面倒な性分だとは思うが、俺が陽華にしてあげられることで妥協はしたくないのだ。
そんな風に悩む俺に、陽華は何でもないことのように笑って、
「それならさ、今日のデートはテストで頑張った辰巳くんへの、私からのご褒美ってことにすればよくない?」
「……名案だな」
「でしょ!」
デートそのものとクレープ、俺の努力と陽華の努力では吊り合わない気もするが、それ以上は野暮でしかない。
何だかんだ言いつつも、陽華との放課後デートに胸を高鳴らせているのも事実だ。
陽華の気遣いに感謝して、ご褒美の放課後デートの時間を堪能しつつ……陽華にもご褒美を満喫してもらえるよう、努力するとしよう。
「あいつらすげーな……もはや尊敬するわ」
「あっという間に蚊帳の外にされたな」
「これが、俺が見習うべき師匠の雄姿……っ!」
「辞めといた方がいいと思うよ」
ひそひそと囁く声が聞こえた気がしたが、たぶん気のせいだろう。
20話の一部表現、及び辰巳の中間テストの点数を少し変更しました。
また濱崎(辰巳を師匠と呼ぶバレー部男子)の口調を「っす」に統一しました。わかりやすいので。過去の登場話も修正しております。
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