第26話 独占欲
翌朝。俺は近所のスーパーでスマホ片手に買い物をしていた。
今日は以前から予定されていた、陽華を講師としてお招きする料理教室の日だ。
オムライスを作る予定なので、それに向けて食材を揃えておかねばならない。米や卵は既にあるが、肉や野菜は買っていなかった。
陽華に送ってもらった買い物リストを見ながら店内を彷徨う俺。
とは言っても、買い足す必要があるのは肉やピーマン、グリーンピースぐらいの簡単なものだ、すぐに揃うだろう。
……陽華をもてなすための飲み物とかお菓子とか、買っておくべきか?
流石に女子を、それも彼女を迎えるのに麦茶一本で通すわけにもいくまい。せっかく来てくれるのだから、少しでも快適に過ごしてほしい。
女子受けを考えるとやはり紅茶とか? しかし俺が紅茶の銘柄なんて知るはずもなく、陽華の好みもわからない……一通りの種類を買い揃えておくか。
とりあえず茶類のコーナーに向かおうと踵を返したところで──
「あ、気付かれちゃった。おはよ、辰巳くん!」
「……おはよう、陽華。もしかして驚かそうとしてた?」
噂をすれば何とやら、輝く笑顔の陽華が、ハイタッチをするように両手を挙げていた。
いつぞやの昼休みと言い、バスでのことと言い、人を驚かせるのが好きな娘だ。悪戯を企む表情にもすっかり見慣れてしまった。
苦笑する俺に、陽華はぺろりと可愛らしく舌を出して、
「考え事してたみたいで、隙だらけだったから……ついびっくりさせたくなっちゃって」
「暗殺者か何か? ……まぁいいけど、随分早いな。予定の時間までまだ結構あるけど」
事前に予定していた時間までまだ二時間近くある。何か急用でもあったのかと聞いてみれば、陽華は軽く口を尖らせて、
「だって、早く辰巳くんに会いたかったんだもん。辰巳くんは違うの?」
「……俺も会いたかったよ。昨日も、陽華が帰ってから無性に寂しくて、どうにかなりそうだった」
取り繕うことすら忘れて、考えるより先に言葉が零れ落ちる。
それを聞いた陽華は一瞬目を見開いて、くすぐったそうに笑った。
「えへへ……私もだよ。ずっと辰巳くんのお家であったことを思い出して、とっても幸せな気分に浸ってた。ほんとに、夢みたいな時間だったから……」
「でも、夢じゃない」
「うんっ。辰巳くんが告白してくれて、恋人になれたのも……たくさんぎゅってして、たくさんキスしたのも、全部現実だもんね!」
そう言って胸の内の幸せを噛み締めるように笑う陽華に、つい見惚れてしまう。
思いを自覚してから、陽華のことがどんどん可愛く見える。元から可愛い女の子だと思っていたが、それ以上に……陽華の一挙手一投足が俺の心を掴んで離さない。
思わずその笑顔に手を伸ばしそうになって、寸前で我に返った。
最近自制心とか羞恥心とか、そう言うのが確実に緩んできている……セルフ羞恥プレイで神経をすり減らすことほどアホらしいこともない。気を付けなければ。
とりあえず店の通路でいつまでも立ち話をしているのも邪魔なので、陽華の手を取って歩き出した。
陽華も素直に従ってくれて、嬉しそうに恋人繋ぎに変えてきた。
……まぁこのくらいは普通のカップルの範疇か。
やってきた場所の陳列棚を見て、陽華は不思議そうに首を傾げた。
「お茶を買うの?」
「俺が自分で飲むためというより、来客用にかな。陽華は好みの銘柄とかあるか?」
「私の?」
俺の問いかけに、陽華は目をぱちくりと瞬かせた。
「あぁ。そもそも家の来客なんて、陽華と優唯ぐらいしか居ないし。彼女を家に招く時にいつまでも麦茶だけ出すってのも、味気ないだろ」
「彼女……ふふ、彼女かぁ。私はあんまり気にしないけど、辰巳くんが私のこと考えてくれたのは嬉しいな」
上機嫌に表情を綻ばせた陽華は、屈みこんでティーバッグを物色し始めた。
……”彼女”って、思ったより簡単に言葉にできるもんだな。俺の性格的に、もう少し恥ずかしくなったりすると思っていたが。
こんなことで喜んでくれるのなら……羞恥心がなくなると言うのも、案外悪いことばかりではないのかもしれない。
§
「今日は髪をまとめてるんだな」
「お料理するからねー。髪が入るといけないし、下向いて作業してると邪魔になっちゃうし」
スーパーでの買い物から三十分ほど経った頃。
俺の家で諸々の準備を終えた俺たちは、ソファーに並んで寛いでいた。
ほとんど抱きつくように俺の腕をがっちりホールドする陽華。ご機嫌そのものの表情で、先ほど購入した紅茶を味わっている。
……以前はここまで密着していると、緊張して慌てたものだが。
腕に触れる感触を意識して若干体が固くなりこそすれ、今はむしろ陽華がすぐ傍に居ることの安心感が勝っている。
これも告白を経て正式に恋人になったことに起因する、心境の変化か。
寄せ合った肩に触れる、さらりとした感覚。声を掛けた俺に、陽華は後ろでまとめた髪をふりふりと揺らした。
ちなみに今日の陽華の服装は、前回の料理教室の時と似た印象のパンツルックの爽やかな装いだ。
「なんか、凄く凝った髪型じゃないか?」
「そうでもないよ? くるりんぱって言ってね、髪をひとつに結んだあと、結び目の上に穴を作って、そこに毛先をくるっと通すだけなの。普通のポニーテールよりもふんわりして、ちょっとおしゃれに見えるでしょ?」
陽華はそう言いながら、手振りを交えて器用に説明してくれる。
確かに、後ろでまとめられた髪が自然に立体感を帯びていて、柔らかな曲線を描いている。
感心する俺に、陽華はにんまりと笑って、
「辰巳くん、この髪型好き? そろそろ暑くなってくるし学校でもまとめようかなって思ってたんだけど……辰巳くんが気に入ったなら、この髪型にしてあげよっかなー?」
「うーん……」
俺の唸り声を聞いて、少し意外そうな表情を見せる陽華。
「あれ、嬉しくない……?」
「嬉しいことは嬉しいんだけど……ごめん、今から凄く自惚れてて、面倒くさいことを言う」
前置きして予防線を張ろうとする姿は何とも情けないが、致し方ない。
さりげなく目を逸らしながら、ぽつぽつと言葉を零す。
「その髪型は……えーと、俺に見せるためにお洒落してくれた、ってことだと思うんだけど」
「そうだよ? 大好きな辰巳くんに、一番可愛いと思ってほしいもん」
ふにゃり、と。頬を赤らめ、柔らかく口元を綻ばせる、蕩けるような笑顔。……凄まじい破壊力だ。座っているのに崩れ落ちそうになった。
しかしここで倒れるわけにはいかない……別に倒れてもいいのか? ともあれ、何とか気力を奮い立たたせて言葉を続けた。
「俺のためのものなら、俺以外にはできるだけ見せないでほしい……と、思う。いや、もちろんお洒落するのは陽華の自由だし、それを制限するつもりは微塵もなくて! これは俺のわがままと言うか……ごめん、やっぱり忘れて……っ!?」
あまりに身勝手な自分の物言いに耐えられなくなり、慌てて手を振って訂正しようとして……唇に触れた感触に、俺は完全に固まってしまった。
ふわりと鼻腔を擽る花のような匂い。眼前に広がる赤く染まった陽華の顔。唇から伝わる仄かな熱と柔らかさ。
身を乗り出してきた陽華に、キスをされた──そう理解すると同時に、息が続かなくなった。
陽華も同じようで、ほどなくして唇が離れていき……荒い息の中で、俺たちは見つめ合う。
「ごめんね、辰巳くん……辰巳くんが、凄く可愛く見えて……我慢できなくなっちゃった……」
「そ、そっか……。可愛くはないと思うが、陽華がしたいならいつでも」
「ならもう一回♪」
「んむっ!?」
伸びてきた細い腕が首元に絡められ、艶やかなリップ音が頭の中に反響する。
隣り合って座っていたはずが、いつの間にか陽華の膝が俺の腰の両側に乗り、体重ごと覆いかぶさってきていた。
至近距離にある大きな亜麻色の瞳がとろりと蕩けて、艶やかな唇からこぼれる熱っぽい吐息が肌を撫でる。
密着した身体から伝播する熱で、理性が徐々に溶かされて行き──ダメだ、そろそろ止めないと……キスはともかくこの体勢はまずい!
「っ、陽華! ちょ、落ち着いてくれ……!」
「んむぅー!」
抱きついてくる陽華の肩を抑え、万が一にも怪我をさせないよう慎重に引き剥がす。
小動物のようなうるうるとした瞳で不満げに睨まれ、罪悪感が刺激されるが……どうかわかってほしい。馬乗りの体勢は流石にまずい。
昨日のキスの時は多幸感と満足感に包まれて、奇跡的に意識せずに済んだ。しかし一夜明けて感情が落ち着くと、そうもいられなくなってしまう。
明瀬陽華という美少女が持つ、所謂女性的な魅力というものを。
改めて思う。陽華をしっかり帰した判断は正しく英断だった。
「けどそっかぁ、辰巳くんも持ってたんだね。私に対する独占欲、ってやつ♪」
再び隣り合って寄り添う体勢に戻り、紅茶を一口含んだ陽華が揶揄うように言ってくる。
独占欲……そうか、これが独占欲か。そうなのか……。
「…………なんかごめん」
「えっ、どうしたの急に」
「前にどこかで、独占欲は”愛情”じゃなくて”所有欲”とか、相手に対する”不信感”とかに由来するものだって見たことがあって……髪型ぐらいで狭量になってる自分が、こう、凄く小さい男に思えて」
「ふふ、それって全然悪いことじゃなくない?」
額を抑えて項垂れる俺を、陽華は明るく笑い飛ばした。
そのまま軽く首を傾げて俺の肩に頬を寄せる。さらりと流れる亜麻色の髪が俺の頬を撫でた。
「むしろ私は嬉しいよ。それだけ私のこと”離したくない”って思ってくれてるってことでしょ?」
「……そうだな」
「あと、私が辰巳くんのモノって言うのは間違ってないじゃない?」
「えっ?」
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がして、思わず顔を上げたが、当の陽華には完璧にスルーされてしまった。
陽華は俺の手を両手で握ると、指ですりすりと弄り始めた。少しくすぐったいが、何やら楽しそうにしている姿に何も言えなくなる。
「それに、私だって同じだよ。辰巳くんが、私以外の女の子と仲良くしてるところを見たら……うん、すっごく妬いちゃう」
「……そうなのか」
「ほら、先々週の雨の日の体育でさ。辰巳くん、佳凛にバドミントンのこと丁寧に教えてあげてたでしょ?」
「そんなこともあったな……」
「あの時も私、ヤキモチ妬いちゃってたんだよ? 佳凛だけズルい、って」
その意外な告白に陽華の方を向けば、少し不安そうにこちらを覗き込んで、
「辰巳くんはこの話を聞いて、幻滅した? 心の小さい女だって思う?」
「全然思わない、むしろ嬉しく……あぁ、なるほど」
「そういうこと。だから独占欲はお互い様だし、そういう気持ちも愛情も、ぜーんぶ含めて”恋”をするってことなんだと思うな」
ひっそりと囁くような言葉には、火傷しそうなほどの熱が籠っていた。
手相をなぞるように動いていた指が、俺の指とゆっくりと絡められる。それに応じるように力を込めて握り返せば、嬉しそうな笑い声が聞こえた。
独占欲も愛情も、全部含めて”恋”、か。
心の中で反芻していると、不思議と腑に落ちる感覚があった。
「陽華。もう一つ、みっともないことを言うんだけど」
「ん、なぁに?」
「陽華のことを独り占めしたい気持ちと同じぐらいに……こんなに可愛い女の子が俺の彼女なんだぞ、って学校中に自慢したい気持ちもあるんだ」
周囲に対して我関せずと言いたげな、一匹狼を気取るような態度を取っておきながら、俺にも人並みの承認欲求はあるらしい。
その欲求を恋人を使って満たそうとする自分の浅ましさに、自嘲の笑みが零れる。……陽華や優唯に言わせれば、こういう風に重く考えすぎるところが俺の悪癖なんだろうな。
想像通りに、陽華は心底から嬉しそうに満面の笑みを浮かべてくれた。
「私も同じ気持ちだよ! こんなにカッコよくて優くて、とっても可愛い男の子が私の彼氏なんだって、みんなに見せびらかしたいもん」
言い切るその声はどこか誇らしげで、そして甘かった。
ぱっと咲いた花みたいな笑顔を見せながら、陽華は身を寄せてくる。細い指先が俺の腕に絡み、そのまま頬を擦り寄せてきた。
「……さっきも言ったけど、可愛くはないだろ?」
「そうかなー? 色々考えすぎてぐるぐるしちゃうところとか……今みたいに、照れて顔を逸らしちゃうところか、すごく可愛いと思う! ……他の人に見せちゃダメだよ?」
「……はい」
釘を刺すような陽華の笑顔に、謎の圧を感じる。
心配せずともそんな俺の姿を可愛いと感じるようなもの好きは、陽華以外に居ないと思うのだが。俺が陽華以外に目移りするのはもっと有り得ないし。
こくこくと素直に頷く俺に満足したのか、その圧は嘘のように消え去り、後には可愛らしい笑顔だけが残された。
……とりあえず、周囲の目にはこれまで以上に気を付けようと思う。
「辰巳くんが嫌ならバレないようにしようと思ってたけど、そういうことならみんなの前で堂々といちゃいちゃできるね! どうしよっかなー、いっそ教室でキスとかしちゃう?」
「流石にそれは各方面から怒られると思うな……」
「休み時間の度にハグとか、お昼休みは辰巳くんの膝の上でお弁当とか!」
「……衆人環視の中ではハードルが高いな」
「じゃあ、手を繋いで登下校したり、お弁当をあーんして食べさせ合ったりとかは!?」
「それぐらいなら、まぁ……」
「やった! 約束ね!」
謀られたのか、俺は……?
最初にどう考えても無茶な要求を突き付け、どんどん水準を下げていくことで本命の提案を通しやすくする、古典的な交渉術だ。
そこまでして人前でいちゃつこうとするとは……まぁ俺も恥ずかしいだけで、何が何でも断りたいと思うほど嫌ではないし。
ガッツポーズをして喜んでいる陽華に水を差す必要もない。橋本や高宮さんのお小言は俺が甘んじて受けるとしよう。
そんなことを考えていると、ピピピッと軽快な電子音がキッチンの方から聞こえてきた。
「これ、炊飯器の音?」
「炊けたみたいだな。……もうこんな時間か。そろそろ始めるか、陽華先生?」
おどけるように言って、そっと手を差し伸べる。
今日の出張料理教室の講師である陽華先生は、笑いながらその手を取って、
「今日も手取り足取りみっちり教えてあげるから、一緒に頑張ろうね!」
陽華先生の指導のもと臨んだ初めてのオムライス作りは、多少形が不格好ながらも、味については先生からお褒めの言葉を頂けるレベルに仕上げることができた。
調理工程がシンプルな料理とは言え、料理への慣れを実感できたことで自信にも繋がったと思う。
これなら普段から作ってみるのもいいかもしれない。今度優唯が来た時にも振舞ってみるか……きっとあいつも驚くことだろう。
……あ。
そう言えば、まだ優唯に陽華と付き合い始めたこと言ってなかったな。
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