第25話 君でよかった
──互いの気持ちを確かめ合えた嬉しさに、いつまでも続くかと思われたキスの応酬は、突如響いた着信音によって強制的に中断された。
その着信音を聞いたことで、俺の中のトラウマが刺激され…… キスの感触に蕩けていた頭が一瞬で覚めた。
「……パパからだ」
予想に違わず、それは陽華のお父さんの信幸さんからの着信だった。
「もぉ~……タイミングが悪いなぁ」
「そう言うなよ。……いつの間にか外も暗くなってるな」
不満顔で電話に出る陽華を横目に時計を確認して、愕然とした。
時計が示す時刻は二十時。陽華に告白したのが確か十八時半頃だから、実に一時間以上抱き合ってキスをし続けていたことになる。
夢中になり過ぎた……もしあのまま電話がかかってこなければ、冗談抜きに唇がふやけてしまっていたかもしれない。
ずっとキスをしていて喉が渇いた。飲み物を取ってこようと腰を浮かせたが、すかさず陽華に腕をホールドされてしまった。
仕方なく再び座り直せば、電話を続けたまま肩にこてんと頭を預けてくる。そんな仕草が可愛くて仕方がない。
思わず頭を撫でようと手が動いたが、電話中だ……我慢我慢。
「うん、大丈夫。ごめんね、連絡してなくて……うん、そう。辰巳くんのお家だよ」
『辰巳くんの家に? そうか、そうか』
こんな時間になっても娘から何の連絡もないと来たら、親は当然心配になるだろう。
……この至近距離だと通話相手の声まで聞こえてしまう。疚しいことは何もないのについ身構えて……疚しいこと、してる、か?
しかししっかり恋人になった上でキスで踏み止まれているのだから、まだ健全な付き合いの範疇と言えるのではなかろうか。
俺が自分に言い訳している内にも、親子の会話は続いている。
『もう遅いから、車で迎えに行ってもいいが……陽華はそれでいいかい?』
「それでいいって?」
『今日はそっちに泊まったりとか』
「ぶっ!?」
信幸さんの揶揄うような言葉に、思わず反応してしまった。
いきなり何を言い出すんだこの人は……胡乱な目を向ける俺を他所に、陽華はキラキラと目を輝かせて、
「えっ、いいの!?」
「ダメに決まってるだろ……!」
信幸さんに聞こえないように小声で抗議すれば、陽華は不満そうに頬を膨らませて、
「何でダメなの? やっと恋人になれたんだから、彼氏の家にお泊りぐらいしてもいいじゃん! 服は前みたいに辰巳くんのジャージ借りればいいし、ご飯も作ってあげるよ? 彼女の愛情たっぷり晩ご飯、食べたくない?」
「んぐっ」
にっこり笑う陽華の言葉に、言葉に詰まる。
魅力的な、とても魅力的な提案だ……が、それでもダメなものはダメだ。
「むしろ恋人だからまずいと言うか……」
「どういうこと?」
「あー……その、だな。俺も、人生初の彼女で、それも相手が陽華ってことでかなり舞い上がってて……」
「えへへ、私も辰巳くんが初めてだよ」
「嬉しいよ、凄く。……まぁ、つまり。そんな状態で、陽華と二人っきりの部屋で一晩過ごすとなると……たぶん、歯止めが利かなくなる。さっきみたいに……さっきよりも、もっと先まで欲しくなる。陽華のことが大事だから、傷つけたくないんだ」
へっ、と素っ頓狂な声が漏らす陽華の目を、真っ直ぐに見据える。
するとたちまち陽華の顔が朱に染まる。さっき……キスのもっと先にある行為、陽華もそれに思い当たったのだろう。
しかし陽華は忌避感や嫌悪感を示すどころか、ふにゃりと表情を緩めて、
「辰巳くんにされることなら、私……いやじゃないよ? 私も辰巳くんのこと、大好きだから……辰巳くんがしたいことなら、私もしてみたい……」
「……っ!」
それは、反則だ。
上目遣いに見上げてくる瞳には、僅かな不安に羞恥、そして大きな期待が浮かんでいる。
密着している腕から伝わってくる熱に、柔らかさに、意識が集中してしまう。これに直接触れたら、どうなってしまうのだろう。
衝動的に手を伸ばそうとして、慌てて止める。
……落ち着け、俺。
「……でも、ダメだ。いつか、その、そういうことをするにしても。ちゃんと段階を踏んで、心と体の準備をしっかり整えてからにするべき、だと思う。ヘタレだと思ってくれて構わない。でも、陽華を傷つけたくないんだ……絶対に」
「辰巳くん……ごめんね、私、自分のことばっかりで……」
しゅんと眉根を下げる陽華の髪を、そっと撫ぜる。
「大丈夫……もっと陽華と触れ合いたいのは、俺も同じだから。焦る必要なんかないさ」
「うん、そうだね……私たち、まだ高校一年生だもんね。時間はたっぷりあるもん」
陽華は安心したように微笑んで、俺の手に頭を擦り付けてくる。
その可愛らしい仕草に内心で悶えて……ふと、指先に当たる硬質な感触に首を傾げる。
これは一体、と手元に視線をやった俺は──一気に顔を青褪めさせた。
『……あー、二人とも。そろそろいいかな?』
陽華の手に握られたスマホから聞こえてくる、どことなく気まずそうな声に、俺と陽華はビクリと肩を震わせた。
……何をやってんだ俺は!! よりにもよって彼女の父親が聞いてるところで、何をしみじみと際どい話を語っているんだ。
以前から陽華と一緒に居る時に周りが見えなくなることが多々あったが、今回は流石に度が過ぎている。
激怒されても文句は言えないぞ、と戦々恐々とする俺だったが、信幸さんの声は意外にも明るい雰囲気だった。
『いやはや単なる冗談のつもりだったんだけどね。そうか、漸く付き合い始めたんだね。父親として少し複雑な心境ではあるけど、まずは陽華、おめでとう。本当によかった』
「うん、ありがとうパパ!」
父親からの祝福の声に嬉しそうに返す陽華。……とりあえず歓迎されているようで一安心だ。
『柳田くんと代わってくれるかな』という信幸さんの要請を受けて差し出されたスマホを、震える手で受け取る。
「……もしもし、柳田です」
『やぁ、辰巳くん。一週間ぶりだね。……そう緊張する必要はないよ、前にも言ったが私たちは君に本当に感謝している。陽華との交際に反対するつもりもないさ』
「ありがとうございます。必ず、大切にします」
力強く、揺るぎない決意を籠めた俺の言葉に、信幸さんは小さく笑い声をあげた。
『君は本当に真面目というか、実直……そう、実直な男だね。さっきの言葉も聞かせてもらったよ。娘との関係を、真剣に考えてくれてありがとう。陽華が選んだのが君でよかった』
「……っ! あ、ありがとうございます……!」
万感の籠った声に背筋が伸びる。
彼女の父親に信頼してもらえる嬉しさと、それを裏切ってはならないという責任感。けれどそれは、決して重圧には感じなかった。
『さて、それじゃあすぐに迎えに行くよ。君の理性の頑張りを無駄にしないためにもね』
「お願いします。……着いたら、改めて挨拶をさせてください」
『そんなに畏まらなくてもいいのに……』
軽い挨拶を終えて、電話は切られ……俺はソファーに深く沈み込んだ。
信幸さん本人はとても気さくな人で、有難いことにかなり好意的に接してくれている。
それでもやはり、”彼女の父親”という立場は、俺の心臓を縮み上がらせるには十分すぎるもので。彼氏0日目で直面する状況としてはあまりにハードすぎる。
……しかし、いつまでもそうしてはいられない。最低限の身嗜みを整えておかねば、と立ち上がろうとして……ぐい、と腕を引かれた。
視線を向けると、眉をハの字にした寂しそうな表情の陽華が、上目遣いで俺を見上げて、
「どうしても、泊まっちゃダメ?」
「……ダメ」
……一瞬揺らぎそうになったが、グッと堪えた。
努めて真顔で首を振る俺に、抱き締めた俺の腕に額をグリグリして抗議してくる陽華。
とんでもなく可愛い。可愛いが、ダメなものはダメだ。
「……もっと、一緒に居たいよ」
「俺もだよ。ずっと、こうしてたいな」
「……辰巳くん」
「ん?」
「キス、したい。寂しくなくなるように……」
「わかった……少しだけ、な」
何とか信幸さんが来るまでに切り上げられた。
§
「パパ、来るの早いよー」
「そう言わないでくれ、これでも遠回りしてきたんだよ」
車から降りるなり投げられた冗談交じりの娘の文句に、信幸さんは苦笑して返した。
一週間前とは違ってカジュアルな私服を着て、いかにも休日のお父さんと言った装いだ。動きやすいからと──実際はドラマか何かに影響されて──春夏秋冬いつも甚兵衛を着て過ごしている父さんとは大違いだ。
娘との会話に区切りをつけ、こちらに視線を向ける信幸さんに、俺は会釈した。
「お久しぶりです、信幸さん」
「やぁ辰巳くん。元気そうで何よりだ」
にこやかな笑顔だが、圧を感じてしまう……のは、俺がそう感じているだけか。内心の緊張が認識に影響を及ぼしているのだろう。
一つ深呼吸をして、一歩前に出る。そして真っ直ぐに信幸さんを見据えて、
「今日から、陽華さんとお付き合いをさせていただくことになりました。未熟者ですが、これからもどうかよろしくお願いします……!」
「固い固い! 結婚の挨拶ってわけでもないんだから、そんなにきっちりしなくてもいいよ。私と君の仲じゃないか……あっ、もしかして」
明るい笑みを浮かべる信幸さんは、何かに気付いたようにハッと息を呑んで、
「実はもうそこまで決まっていたりするのかい!? 学生結婚……は後二年かかるから、婚約の申し込みだったの!?」
「えっ!? いや、違……くもない、かもしれませんけど、違うんです……!」
わざとらしく驚いた顔をする信幸さんに、俺は慌てて手を振った。
……かつて、これからずっと傍に居ると誓った以上、当然それについても考えてはいる。しかし高校生の、親に養ってもらっている身でそれを自信満々に口にできるほど、楽観的にはなれない。
情けない話だが……共に生きるという”決意”はあっても、現実感と実現性を伴った、本当の意味での”覚悟”は未だできていないのだ。
重いと思われるかもしれないが、それだけ俺が陽華との関係を真剣に考えているのだと思ってほしい。
だから──……
「そういう話は、もっとちゃんとした場で、俺と陽華の色々な準備ができてから……改めてさせてください」
「辰巳くん……!」
確固たる意思を込めた俺の宣言に、陽華が嬉しそうな声を上げて手を握ってきた。俺も強く握り返す。
彼女とずっと一緒に居るという約束を、口だけのものにしたくはない。
俺に持てる全てを懸けて、必ず陽華を幸せにしたい……いや、してみせる。この笑顔と、この温もりさえあれば、俺は何だってできる。
そんな俺たちを見て、信幸さんは暖かく微笑んでくれた。
「……私の考えは、先程の電話で言った通りだ。こうして直接話してその思いはますます強くなった。陽華が選んだのが、陽華を選んでくれたのが、君でよかった。君になら、私たちの大切な愛娘を任せられる」
「ありがとうございます……! その信頼に応えられるよう、精一杯頑張ります」
「だから固いってば……今の内から、お義父さんって呼んでくれてもいいんだよ?」
「それはまたいずれ……」
「ははは、その”いずれ”を楽しみにさせてもらおうかな!」
流石に交際一日目からそれは早いと思います。
緊張が解けて緩んだ雰囲気の中で、俺の手を握ったまま、陽華が静かに口を開いた。
「パパ、本当にありがとう。……私ね、今本当に幸せだよ。毎日楽しくて……大好きな男の子と恋人になれて、きっとこれから先も、ずっと幸せだよ!」
「そうか……そうか。よかったね、陽華。本当に、よかった」
そう言って何度も頷く信幸さんは、心の底から安堵したような表情で、目尻に光るものが見えた気がした。
たった一人の愛娘が酷いいじめによって心に深い傷を負い、それを押し殺して優等生としてあろうと笑い続けるのを、見ていることしかできない……そんな父親の心境なんて、俺に想像できるはずもなく。
今目の前で、心から幸せそうに笑う娘を眩しそうに見つめる父親の気持ちも、俺にはわからなかった。
「……陽華、そろそろ」
「うん。じゃあ……また明日、だね。明日はオムライスの作り方をしっかり教えてあげるから、楽しみにしてて!」
「あぁ、楽しみだよ。また明日」
握られた手がするりと解かれ、少し寂しい気分になってしまう。……これじゃ陽華にとやかく言えないな。
内心で苦笑する俺に、信幸さんがにこやかに、
「もう遅いし、私たちはここで失礼するよ。……夏休みにでも、私たちの家に遊びにおいで。私も妻も、もちろん陽華も歓迎するよ」
「ありがとうございます。お邪魔でなければ、是非」
「邪魔だなんてとんでもない。妻も『パパだけ二度も会えたなんてずるい、わたしも会いたーい』と拗ねちゃっててね……ご機嫌取りと、陽華の交際祝いにと思ってケーキも買ってきたんだ。……あ、忘れるところだった」
苦笑する信幸さんだが、家族仲睦まじい様子で微笑ましくなってしまう。
ふと何かを思い出したように車の助手席側のドアを開け、帰ってきた彼の手には、小さな包みがあった。
「カップケーキだよ。チョコケーキにしたけど、大丈夫だったかい?」
「えっ、俺にですか? チョコは好きですけど、いいんですか?」
「もちろんさ。お祝いと、陽華のことをよろしくって意味も込めて、是非受け取ってくれ」
「……ありがとうございます、頂きます」
差し出された包みを両手で受け取り、深く頭を下げる。本当によくしていただいて恐縮することしきりだ。
俺の掌中の包みを見て、陽華が感心するような声を上げた。
「あっ、これ駅前の有名店の! パパ、私の分はある?」
「ちゃんと買ってあるから安心しなさい。夕飯が終わってから皆で食べよう」
「はーい! ……私もそろそろ行くね。またね、辰巳くん!」
また明日、と返そうとしたところで、陽華の顔にもはや見慣れた悪戯っぽい表情が浮かんだ。
両手を後ろに組んだまま、目を瞑って、軽く背伸びをする陽華。
……信幸さんは既に車に戻っている。今なら誰も見ていない。
気恥ずかしさと、それを遥かに上回る愛おしさに突き動かされて……軽く、唇を触れさせる。
接触はごく一瞬。すぐに顔を離すが、少し不満げな顔をされてしまった。
「一回だけ……それにちょっと短くない?」
「ここで何度もできるわけないだろ。むしろ一回でもできた俺を褒めてくれ」
「ふふ、辰巳くんは恥ずかしがり屋さんだもんね。よくできました! よしよ~し」
「…………」
恥ずかしがりとかそういう問題じゃないだろ、と抗議してやりたかったが……楽しそうに頭を撫でられて何も言えなくなってしまった。
つくづく、ずるいと思う。
「陽華ー、そろそろ行くよー」
「はーい! おやすみ、辰巳くん! ……大好きだよ」
「お休み……俺も好きだよ、陽華」
輝く笑顔を残して、足早に車に乗り込む陽華を、小さく手を振って見送る。
信幸さんの運転する車が見えなくなるまで、俺はその場で立ち尽くしていた。
どこかふわふわした心持ちのまま何とか部屋に戻って、手に持っていた包みをテーブルの上に置く。
丁寧に施された包装を開けば、小ぶりなチョコカップケーキが姿を現して、ふわりと甘い香りが広がった。
一緒に入っていたプラスチックのスプーンを手に取って、一口。
「……美味いな」
そう呟くも、声が返ってくることはない。当然だ。
少しビターな甘さが体に染み込む中で、信幸さんの『陽華のことをよろしく』という言葉が脳裏に蘇る。
信幸さんは俺のことを認めてくれたのだ、陽華の”恋人”として。
──そう、”恋人”だ。
勇気を出して陽華に告白して、陽華もそれに応えてくれた。
”好き”という言葉をお互いに数え切れないほど口にして、初めての大好きな人とのキスに時間も忘れて没頭した。
出会った時から恋焦がれていた女の子と、本当に恋人になれたのだ。
夢のような、あるいは今もまだ夢の中に居るのかもしれない。
……いや、違う。夢なんかじゃない。この手に残る温かさも、唇に刻んだ感触も、頭の中で反響する言葉も、全て現実にあったことだ。
もう一生忘れられない、かけがえのない時間。
この部屋で、彼女と過ごした時間を思い返して、胸の内がかきむしりたくなるほどに熱くなって……次第に、寂しさが込み上げてきた。
「……静かだな」
ぽつりと、口をついて出たその言葉に、自分でも驚いた。
さっきまであんなに笑い合って、抱き締め合って、甘いキスを交わしていたのに。陽華の声も、笑顔も、温もりも……まだ全部はっきり覚えてるのに。
今この部屋に響くのは、プラスチックの無機質な擦過音と、エアコンの低い駆動音だけ。暑苦しいとすら感じていたのに、今は寒気を感じている。
一人暮らしなのだから、これが普通のはずなのに。
温もりのない静けさが、やけに胸に染みた。
……たった数分離れただけなのに、会いたくて仕方がない。
この部屋の中には、陽華がいない。それだけで、無性に寂しい。
「恥ずかしがり屋の上に、寂しがり屋かよ」
呟いて、両手で顔を覆う。
彼女の声が聴きたい、手を繋ぎたい、抱き締めたい、キスをしたい。
そんな願望が溢れて止まらない。
まさか自分が、こんなにも誰かを恋しく思うようになるだなんて、想像すらしなかった。
”恋煩い”なんて言い方をすることもあるが……なるほど、これはまさしく病の類、それもとんでもない難病だ。
治したいと思えないところが、特に厄介だな。
もし陽華にこんな姿を見られたら、どう思われるだろう?
幻滅……されることはないだろうが、滅茶苦茶揶揄われそうだ。それもいいかもしれない。
いっそ明日、正直に言ってみるか。陽華に一晩会えなくて寂しかった、と。
「……早く会いたいな」
零れた呟きが、静かな部屋に吸い込まれていく。
明日が待ち遠しい。
明日になれば、また会える。
陽華に……俺の彼女になってくれた、大好きな女の子に。
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