第20話 名前で呼んで
迎えた金曜日。中間テストの最終日からちょうど一週間後、その放課後。
机の上にはこの一週間で返却された中間テストの答案用紙が広げられ……目の前には、同じ答案用紙を手に満面の笑みを浮かべる明瀬さんの姿があった。
「それじゃあ……早速始めよっか?」
「……おう」
まずは現代国語と言語文化から。
「100点と97点。柳田くんは?」
「91点と82点。……100点? マジで?」
「ふっふーん」
「おお、すげぇ……」
次に数学Ⅰと数学A。
「私は98点と97点。ケアレスミスがなかったら100点取れてたんだけどなぁ」
「負け惜しみ側が言うセリフだと思うんだが……75点と77点。あれだけ見てもらったのに不甲斐ない……」
「元々苦手教科なのに凄いよ! 苦手意識もちょっとは克服できたんじゃない?」
「……もっと時間があれば、もう少し点数伸ばせたんじゃないかと思えるようになった。教えてくれて本当にありがとう」
「ん♪」
次にコミュニケーション英語と英語表現。
「ふっふっふ……なんと両方満点です! 凄いでしょ?」
「凄いなんてもんじゃないよ……これ俺も言わなきゃダメ? 結果わかり切ってるだろ……77点と82点です」
「柳田くんも十分高いじゃない? うーん……リスニングが苦手な感じ?」
「何となく苦手意識が拭えなくてな」
「普段から家で勉強する時に、読んでる文章とか単語を声に出して読んでみるのがいいと思うな。私は最初の頃そういう風に勉強してたよ」
「なるほど……やってみる」
次に生物基礎と化学基礎。
「92点と93点……ちょっと失敗しちゃった」
「その点数で失敗と言われたらこっちの立つ瀬がないんだが。俺は81点と83点。一応過去最高点数だ……これも勉強会の時に明瀬さんに教えてもらったおかげだよ」
「役に立てたならよかった!」
最後に公共・地理総合と歴史総合。
「私は両方100点だったよ。暗記科目だしね」
「その一言で片付けないでくれ……95点と90点」
「柳田くんもすごいじゃん!」
「まぁ暗記科目だしこのぐらいは……あ」
「ふふっ」
以上五教科十科目が、点数にして合計千点満点が今回の中間テストの内訳となる。
合計点をカウントすれば……俺が833点で、明瀬さんが977点。明瀬さんの圧勝である。
「全部90点以上か……流石としか言いようがないな。新入生テストに続いて総合一位も狙えるんじゃないか?」
「うーん、どうだろう……D組の東郷さんって子も凄く勉強できるみたいで、新入生テストでも私と一点しか違わなかったみたいだし。それより柳田くんも凄いじゃん! これなら優唯ちゃんも安心だね!」
「何故優唯の名前が……もしかして、何か言ってた?」
「『兄さんは結構ずぼらだからちゃんと勉強してるか心配』、ってLAINで言ってたよ」
「あいつは……」
兄のプライバシーを何だと思っているのか。
思わず苦い顔を浮かべる俺に、明瀬さんは朗らかに笑って、
「大丈夫だよ、一緒に勉強会したりで頑張ってるよって教えてあげたから! 『兄さんのことこれからもよろしくお願いします』だって」
「あいつの妙な気遣いに載るのも少し癪だが……勉強に関しては、これからも頼ることになると思いますので、よろしくお願いいたします……」
「ふふ、何で敬語なの?」
例の勉強会以降も、休み時間や放課後等に度々お世話になっていたのだ。
明瀬さんの助けがなければ今回のような高得点を取ることはできなかったし……そこまで助けてもらったのに不甲斐ない結果は見せられぬと、高いモチベーションを維持したまま臨むことができたのもよかったと思う。
とは言え……負けは負けなので。
「さて、柳田くん。そろそろ覚悟はいいかな?」
にやにやと口元を緩ませる明瀬さん。
さっと周囲に視線を巡らせる。まだクラスの半分程度は教室に残って雑談をしたり部活の準備をしたりと、そこそこ賑わっていた。
こちらに注目しているようなやつは……いや、男女ともにまぁまぁ居るな。
「柳田くん」
「はい」
柔らかな、けれど有無を言わさぬ気配を感じて瞬時に前を向く。さっきと変わらない笑顔は、どこか威圧感のようなものを感じさせた。
「約束、覚えててくれてるよね?」
「……中間テストの点数で明瀬さんが勝ったら、俺は明瀬さんのことを名前で呼ぶ、と」
「そうそれ。でも……明瀬さん、じゃないよね?」
にっこりと、綺麗な笑みで首を傾げる明瀬さ……あー。
……正直ほとんど無理矢理に押し付けられたようなもので、突っぱねることもできなくはない気がする。
しかしまぁ、あの時にしっかり断らなかった俺も悪いし、こんなことで彼女を怒らせる、あるいは悲しませるのも本意ではない。
それに……恥ずかしいだけで、別に嫌ではないのだし。
ふぅ、と息を吐いて、改めて向き直る。対面の彼女は、少しだけ頬を赤らめながらも、実にワクワクとした笑顔を浮かべていた。
……よし、言うぞ。言え!
「……は、陽華……さん」
……ちっさ!
思わず自分でツッコんでしまうぐらいの、まるで蚊の鳴くようなか細い声。
案の定明瀬……陽華さんからも「聞こえなーい」とダメ出しを受けた。
一つ咳払いを挟んで、もう一度。
「陽華さん……」
「さん付けはダメって言わなかったっけー? ちゃんと呼び捨てで、もう一回!」
「ぐぬ……」
たかが名前を呼び捨てにするぐらいのことで、何を躊躇っているんだ俺は。
優唯に手を出そうとしたやつに殴り掛かったり、真壁たちに立ち向かったりした時の度胸はどこに行ったんだ……!
引き攣る喉と震える唇を何とか動かして、言葉を紡ぐ。
「……は」
「”は”?」
「……陽華」
「……聞こえないなぁ」
「は、陽華」
「もう少し!」
「陽華!」
……さっきまでの反動か、思っていたよりも大きな声が出てしまった。
案の定、教室に残っていたクラスメイト達の視線がこちらに集まる。
好機と嫉妬の視線に晒されてたじろぐ俺に対し、何かに浸るように目を閉じていたあ……陽華が、静かに口を開いた。
「もう一回呼んで?」
「陽華」
「もう一回……今度は囁くみたいに」
「陽華……」
「大きな声で、もう一回!」
「陽華!」
「……んふふ」
何の時間なんだこれは!?
周囲から向けられる視線が、徐々に「何やってんだあいつら」という呆れに変わっていくのを感じて居た堪れなくなる。
俺に謎のプレイを強要している張本人たる陽華の、非常に満足そうな様子に何か言ってやろうと渋面を向けて──……
「ふふ……なぁに、辰巳くん?」
蜂蜜のような、とろりと甘い声で呟かれた言葉に、全ての思考が吹き飛ばされた。
鼓動が早まり、顔が火照りを帯びる。
陽華の声が何度も頭の中で幾度となく反響を繰り返して、意識の深いところに焼き付けられる感覚に襲われた。
混乱の極地にある意識の中で、妙に冷静な思考が囁いてくる。
嗚呼……陽華があれほどに名前呼びに拘っていた理由はこれか、と。
ただ呼び方を変えたと言うだけのことで……これ以上なく明確に、何かが変わった。
それは恐らく、俺と彼女の間にあった、精神的な距離感のようなものなのだろう。
物理的な距離はそのままなのに、より近くに彼女の存在を感じてしまう。
気が付けば、俺の口が勝手に動いて、言葉を発していた。
「……呼ばせたのは、陽華だろ」
「呼んだのは辰巳くんでしょ?」
「陽華がそう言ったんだろ」
「でも辰巳くんは呼んでくれたじゃん」
「……陽華が嬉しそうだったから」
「嬉しいよ。辰巳くんが呼んでくれるから」
「陽華って、そんなに呼ばれたいのか?」
「うん。辰巳くんは? 嬉しくない?」
「……俺も、陽華が呼んでくれて嬉しいよ」
「んふふ、そっか。ねっ、辰巳くん」
「なに、陽華」
「何でもないよ、辰巳くん」
「……陽華」
「なぁに、辰巳くん?」
「陽華を呼んだだけ」
「変な辰巳くんだなぁ」
「陽華もな」
「辰巳くん、ひどい」
「……陽華って呼びすぎて、何だかよくわからなくなってきたな」
「ふふ、確かに。……でも、楽しいね、辰巳くん」
「……陽華」
「辰巳くん」
「陽華」
「辰巳くん」
「もういいだろ、陽華」
「だめだよ、辰巳くん」
「……陽華」
「はい、辰巳くん」
もはや自分でも何を言っているのかわからない。たぶん、陽華の方もそうだろう。
着地点なんて一切考えない、ただお互いの名前を口にすることだけを目的とした、中身のない会話。
陽華と呼ぶことに慣れすぎて、口を開けるだけで零れてしまいそうだ。
口が陽華の形になってしまう……なんて意味の分からない思考まで湧いてくる。
完全に止め時を失って、二人だけの世界に没頭しようとしていた俺たちを、「ごっほん!!」と大きな咳払いの音が遮った。
パッと顔を上げれば、そこには頬を赤く染めた高宮さんが心底呆れ果てたような目で俺たちを見下ろしていた。
「二人とも……イチャつくのはいいけれど、せめて場所は考えてくれないかしら」
「「…………」」
言われてようやく、ここが教室で周囲のクラスメイト達に見られていることを思い出した。
……しかし、雰囲気に茹った頭は中々正気を取り戻してくれず。
俺と陽華は顔を見合わせて、
「辰巳くんのせいで怒られちゃったじゃん」
「何で俺のせいなんだよ、始めたのは陽華だろ」
「最初に呼んだのは辰巳くんの方でしょ」
「それを言うなら陽華が──……」
「二人とも」
「「はい」」
結局俺が我に返ったのは、家に帰ってからのことで。
公衆の面前で醜態を晒した事実に悶えて深夜まで寝付けず、若干寝不足の状態でカラオケに参加することになってしまったのだった。
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