第2話 彼女の過去
明瀬さんが口を開いたのは、俺がコーヒーを飲み切ったのとほぼ同時だった。
「……ごめんね、柳田くん。みっともないところ見せちゃって」
「……いや、そんなこと」
名前を覚えてくれていたことに動揺して、つい返事が遅れてしまった。
流石は完璧優等生、カーストトップ……とは、さっきの話を聞いた以上は簡単に言えないし、言ってはならないだろう。
チラリと隣に視線を送る。
膝から顔を上げ、どこか茫洋とした視線を前方に向けているが、その目元は夕日のせいか少し赤くなっているように見えた。
ふと、その視線がこちらに向けられる。ぱっちりとした大きな瞳は頼りなく揺れているように見えた。
「助けてくれて、ありがとね。ほんとに助かった。私……怖くて、何も言えなくなっちゃって」
「いや……偶然あいつらの叫び声が聞こえて、様子を見に来ただけだから」
「そうなんだ。確かに声大きかったもんね」
そこで会話が途切れてしまう。
どうやら明瀬さんは、階段前で俺とすれ違ったことを覚えていないようだった。恐らくはさっきの件を匂わせるようなメッセージや写真で呼び出されて、そのことで頭がいっぱいだったのだろう。
言葉に迷っているような沈黙の後、明瀬さんは深い溜め息を吐いた。
「……さっきの話、聞こえてた?」
その質問への回答に、少し迷う。
何も聞いていないと偽るべきか、正直に言うべきか。少し考えて……肯定することにした。
聡明な明瀬さんに隠しきれるとは思わないし、そもそも今こうして言い淀んでしまったことが答えのようなものだ。
「……森田……さんが携帯を取り出した辺りから、近くで聞いてた。出て行くべきかわからなくて、様子を見てたんだ。盗み聞きするつもりはなかったけど……ごめん」
「謝らないでよ。そんなに……うん、気にしてないから」
明らかに気にしている口ぶりだったが、それを指摘する気は起きなかった。
閉口してしまう俺を見て、明瀬さんはふっと笑い、こてんと首を傾げる。
それはとても愛らしい仕草で、普段なら俺も胸をときめかせていただろうけれど……彼女の浮かべている笑みは、あまりに痛々しかった。
「聞かれちゃったなら、しょーがないなぁ。……ね、柳田くん。もしよかったらなんだけど、ちょっとだけ……話を聞いてくれる?」
「……俺で、いいのか? もっと仲のいい友達に、それこそ向井さんとか」
SHR後に泣きつかれていた女子生徒の名前を出すが、明瀬さんはふるふると首を横に振った。
「美樹ちゃんたちには、話せないよ。絶対に知られたくない。……誰にも話さないで、隠し切るつもりだったんだけどなぁ」
「…………」
「一応、これから話すことを言いふらさないでくれると嬉しいんだけど」
「まぁ、言いふらすような友達もいないし。俺が明瀬さんのことについて話したって信じる人なんていないだろうから、大丈夫だ」
「あはは、そんなに誇らしげに言うこと?」
思わず、という風に漏れたその笑声は、先ほどまでと比べて幾分自然なものに見えた。
しかしすぐにその笑みは消えて……深い諦観と悲哀に覆われてしまう。
彼女の口元が言葉を探すように小さく動いた。俺は彼女の言葉を決して聞き逃さないように意識を集中させる。
「私、さ。中学三年生の頃……いじめ、られてたんだよね」
”いじめ”。その単語が明瀬さんの口から零れ出したとき、周囲の温度が一気に下がったような錯覚を覚えた。
「当時の私のクラスで、ちょっと柄の悪い子たちが居てね。普段から授業を中に騒いだり、無断でサボったりしてて、他校の不良とも関わりがあるって言われてた。
その子たちに悪ふざけで勉強の邪魔をされたり、物を隠されたり……うん、いじめ、だね。そんな風にいじめられてる子がいて……後から知ったんだけど、恐喝とかもされてたみたい。
私、それを見過ごせなくて。いじめを受けてた子は、やり返すなんて到底できないぐらい凄く気が小さい子で……私が助けてあげなきゃ、って思ったのかな。当時の私も、その子と同じぐらい内気で、引っ込み思案な感じだったんだよ? でも勇気を出して、公の場で注意したんだ。
大勢の人の前で、近くに先生もいたから、その子たちもその場では引き下がってくれたんだけど……」
「……いじめの標的が、明瀬さんになった」
「そう。……最初は授業中に物を投げられたりとか、大声で悪口を言われたりするぐらいで、私も耐えられたんだけど。だんだんそれがエスカレートして行って……悪い噂、を流されたり、教科書を、捨てられたりして」
「……もう犯罪だろ、それは。聞いていいのかわからないんだけど……先生たちは?」
「たぶん、気づいてなかったんだと思う。当時の担任の先生は、育休に入ったベテランの先生の代わりに抜擢された、赴任して二年ぐらいの新任の先生でね。慣れない担任の仕事に、もう毎日大変って感じで……だから、あの子たちに注意することもあんまりできてなくて、好き勝手にされてたし……」
それに、と続けようとした明瀬さんの声が微かに震える。
一拍遅れて続く内容に思い当たった俺が声を上げるより早く、明瀬さんの口から血を吐くような言葉が零れ落ちていく。
「……みんな、その子たちの顔色を窺ってて。……誰も、助けてくれなかった」
「……っ」
「しょうがないよね。誰だって自分がいじめられたくはないもん。数少ない友達も、みんな離れて行っちゃって。
でも……私が助けたいと思ったあの子に、見てみぬふりをされたのは、流石にキツかったなぁ」
あはは、と乾いた笑い声が響く。
そのあまりに痛ましい笑みを見て、胸に軋むような痛みが走る。思わず叫びだしたくなった。
彼女の口調から周囲の人間への憤りは感じられず、そこには目を背けたくなるような諦めの感情だけがあった。
「……こわい顔。何で柳田くんがそんなに怒ってるの……?」
「……すまん。筋違いだっていうのはわかってるけど……」
「……ありがとう」
純粋に感謝を伝える笑みに、思わず目を背けてしまう。
この怒りは見当違いで自分勝手なものでしかなくて、彼女自身が蟠りを見せていない以上、自己満足ですらない。
「こんな人たちに負けたくないって思ってたのと、親や先生に申し訳なくてなかなか自分から助けを求めることができなくて……結局、二か月ぐらいだったかな。水をかけられたりとか、偶然を装って殴られたりとか。
そういう直接的な危害を加えられるようになって……それで、折れちゃったんだ。朝起きたら、学校に行こうとしても動けなくなって……そこで初めて、親や先生にいじめのこと相談したの」
「……驚いただろうな」
「驚かれたし、悲しませちゃった。ママもパパもすごく泣いてたし、先生にも何度も何度も謝られた。その後は、パパと先生たちが色々動いてくれたらしくて、いじめてた子たちは学校から処分を受けたらしいけど……詳しくは聞いてない。
でも私は、その後も学校には行けなくなっちゃって……結局、卒業式にも出れなかったんだ」
淡々と事実を並べるように話す明瀬さんの横顔には、悲しみ以上に後ろめたさが浮かんでいた。
内気で引っ込み思案だったのに、いじめを止めるために動けるような心優しい彼女は、周囲の人を悲しませたことを気に病んでいるのだろう。
彼女のように壮絶ないじめを受けた経験なんてない俺に、彼女の気持ちが理解できるなどと口が裂けても言えるはずがない。
反吐が出るような悪意に囲まれ、誰かに手を差し伸べられることもなく、優しさすら裏切られて……ただひたすらに耐え続けて、押し潰されてしまった。
明瀬さんが感じた恐怖や絶望を想像することすら、俺にはできない。
……でも。
「けど明瀬さんは、立ち直れたんだな」
「ママやパパ、先生たちのおかげだよ。自分の部屋から出ることすら怖がってた私を辛抱強く支えてくれて、わざわざ学校が終わってから私の家に来て、勉強の面倒も見てくれた。
ただでさえいじめの対応で迷惑かけちゃったのに、そこまでしてもらったら……私も応えないわけにはいかないじゃない?」
そんな健気な言葉に、反射的に「違う」と言いそうになって、慌てて口を噤んだ。
彼女の気持ちはわからなくても、その周囲の人々の気持ちは……《《経験》》から推測できた。
きっと彼らは、迷惑だなんて想ってはいなかっただろう。
ただひたすらに、明瀬さんのことを思っていた。追い詰められていた彼女に気付けなかった自分を責めて。明瀬さんのためにできることがあるのなら、何だってしてあげたかったのだ。
……とはいえこれも、全て俺の勝手な憶測でしかないのだが。
「だから、髪形を変えたりお化粧を覚えたりして、苦手だった人付き合いも頑張ってこなして、両親がつけてくれた名前に恥じない人になれるように、いろいろ努力してきたんだ」
期待してくれる人たちを失望させないように。
”みんなが望む”明瀬陽華になれるように。
「心機一転、新しい環境で一からがんばろー! って決心して、私を知ってる人がいない遠くの進学校に頑張って入学できて、友達もいっぱい作って……いろいろ、ほんとに頑張ってきたんだけど、なぁ……」
そう言う明瀬さんの表情は、笑顔の形を取っていた。けれどそれが形だけのモノなのは、俺ですら分かった。
続く言葉に、嗚咽が混ざる。
「はぁ……明るく元気な優等生の『明瀬陽華』も、これで終わりかぁ。ようやく慣れてきたところだったのに。入学してから一か月とちょっと……長いようで短い日々だったなぁ」
明るく振舞ってはいても、その裏には途方もない努力があったのだろう。
辛く苦しい過去をひた隠し、コミュ力抜群の完璧優等生という自分を演じる。それも自分のためではなく、自分を支えてくれた人々のために。
もしかしたら、心の奥底では立ち直れてなんて、いないのかもしれない。
「明日からどうしようかな。もしかしたら、もうクラスLAINで広まっちゃってたりして。……怖いなぁ、嫌だ、なぁ」
築いてきた友達との関係やクラスの人望、自分を取り巻く環境。
これまで必死に積み上げてきたものが一瞬にして崩れてしまうかもしれないという恐怖。
一度その身で経験してしまった彼女にとって、それがどれほど恐ろしいことなのか。
「……俺は」
当てもなく口を開いて、しかし言葉が出てこない。
俺に何を言えるのだろう。俺と明瀬さんは友達でも何でもない、ただのクラスメイトでしかなく……彼女が自分の過去を話してくれたのも、俺がその一端を知ってしまって、明瀬さんが心底弱り果てていたからだ。
応援する……何をどうやって? 彼女の苦悩をすべて理解しているわけでもない俺の、薄っぺらい言葉なんて届くはずもない。
口下手な上にろくな関係値もない俺の言葉で、彼女を励ませると思えるほど自惚れてはいないし、そんな資格もないだろう。
それならば……素直に、明瀬さんの話を聞いて、思ったことを伝えよう。
「──俺は、明瀬さんのことを、凄くカッコいいと……思う」
「え?」
きょとん、と。
何を言われているのかわからない、といった表情で視線を向けてくる明瀬さん。
……何だか無性に恥ずかしくなってきたので、言いたいことを一気にまくしたてることにした。
「もし俺が明瀬さんと同じ立場に置かれたとしたら、たぶん明瀬さんみたいにはなれない。どうして俺がこんな目に、っていじめてきたやつらを恨み続けるし、周囲の人の心配や手助けも……きっと、重みに感じてしまうと思う。
だけど、明瀬さんは違った。自力で前を向いて、新しい環境で、あんなふうに明るく、みんなの前で笑ってる。──それはきっと、誰にでもできることじゃないよ」
だから、
「そんな強さを持ってる明瀬さんは、本当にカッコいいと思うし……尊敬できる、と思う。だから、その、なんだ……えー……」
ここまで来て言葉が出てこない。
結局何が言いたいんだ俺は、「思う」が多すぎだろはっきりしないな、などととりとめのない思考が頭を過ぎる。
こういう時に、自分のコミュ力の低さが嫌になる。
いつもどうでもいいことばかり気にして、無駄に考えすぎて、結局何もできなくなる。
けれど、それを言い訳にはしたくない。
こんなにカッコいい女の子の前で、これ以上カッコ悪い姿を見せたくはないから。
「今の明瀬さんを見て、カッコいいって思った人間が……少なくとも一人はいるってことを言いたかったんだ。もし……これから先、誰かに何か言われたら、その時は俺のことを思い出してもらえれば、と……」
……カッコよく決めたかったのに、結局最後は言い淀んでしまった。
伝えたいことをまとめられず脈絡もない、何というみっともなさだ。
案の定明瀬さんからの返事はなく、ただきょとんとした顔でこっちを見つめて──えっ。
ぽろり、と。
見開かれた亜麻色から零れ落ちた雫に、俺の焦りはピークに達した。
「あ、ちょ、えっ、あの……ご、ごめん明瀬さん! 俺みたいなぼっちが生意気言って申し訳ない! 俺のことなんて思い出しても──」
「ぐすっ……ちがうよ」
「意味な──えっ、ち、違う……とは」
「ずるいじゃん、そんなこと言われたらさぁ……! 泣いちゃうに決まってる……!」
ぼろぼろと流れる涙を拭いながら……明瀬さんは、笑っていた。
先ほどまでの空虚な作り笑いとは違う、彼女本来の、明るい笑顔。
「ありがとう、柳田くん。すごく、嬉しい……!」
「……喜んでもらえたなら、よかった」
……俺はこれまで、明瀬陽華さんという人について可愛い女の子だなーとは思いつつも、それは謂わばテレビの中のアイドルを見るような感覚でしかなかった。
しかし現在、彼女の美貌を彩る満開の笑顔に、そしてそれが俺だけに向けられているというシチュエーションに。
俺の心は、今までに感じたことがないほどの衝撃に襲われていた。
有り体に言えば、完全に見惚れていた。
心臓が早鐘を撃ち、顔が熱を持つのを実感する。
意識の全てが目の前の少女に集中して、その全てを余すところなく堪能していたくて、目に焼き付けたくて、瞬きすらしたくないと思ってしまう。
願わくば、この笑顔をずっと───
──キーンコーンカーンコーン
「……っ!!」
「あっ、これ予鈴……? うわっ、もうこんな時間!?」
突如響いたチャイムの音に、固まっていた俺の体がようやく再起動を果たす。
スマホの画面を見て声を上げる明瀬さんの言う通り、今のは下校時間の五分前を告げるチャイムだ。
完全下校時刻までまだ多少時間があるとは言え、あまりのんびりもしていられない。
「ねっ、柳田くん。荷物は教室?」
「えっ、あぁ、そうだけど」
「私も教室に置きっぱなしなんだ、急いで取りに行かなきゃ!」
「そうだな……って、ちょぉっ!?」
未だふわふわした気持ちで生返事を返す俺の手を、ぎゅっと握る暖かい感触。
はてこれは一体、と視線を向ければ、明瀬さんの女の子らしい小さな手が俺の手を掴んでいて──!?
「あの、明瀬さんっ? 何で手を……」
「ほーら! 早く早く!」
「待って待って! 自分で歩ける! 歩けるから……!」
聞いちゃいなかった。
慌てふためく俺を無視してグイグイと引っ張っていく明瀬さん。
力づくで払えば振り解けるだろうが、華奢な彼女に怪我をさせてしまうかもしれないし……正直、嫌な気分ではなかったので、されるがままになってしまう。
何故か手を握られたまま靴を履き替え、そのまま教室へと駆け足で向かう。
無人の校舎を手を繋いで早歩きする二人組は、見物人がいればさぞや奇妙に見えたことだろう。あるいは……いや、流石に思い上がりすぎだ。
「あははっ! なんだか楽しいね!」
「それはよかった……でもいいのか? こんなとこ誰かに見られたら……」
「私は気にしないよ? それとも……柳田くんは、嫌だった?」
先ほどまでの涙で潤んだ上目遣いで問いかけられて、ほとんど反射的に首を横に振っていた。
それは反則にもほどがある。レフェリーをお願いしたい。
……彼女自身は気にしていないらしいが、流石にこの状況を余人に見られるのはまずいだろう。
俺のようなぼっちと仲睦まじくおててを繋いで~なんて、彼女のイメージを大きく損ねてしまう。……あるいはやけっぱちになっているのか。そう思えば、今の異様なテンションにも納得がいく気がした。
そうして階段を上り終え、教室に向かおうとしたところで、
「おうお前ら、もう下校時刻だぞー。早くかえ……って……」
「あ、吾妻先生……」
「はーい! ごめんなさーい!」
俺たち……正確には俺たちの手元を見てぽかん、と口を開ける吾妻先生。何故かひどく気まずい気分の俺。そして何も気にしていないかのように元気よく返事をする明瀬さん。
固まる先生の横を、明瀬さんに手を引かれて通り過ぎる。
「こりゃあ驚いた。……たったの一時間で友達どころか、彼女まで作っちまうとはなぁ」
「いや、ちが──!」
感心するような声に弁解する機会は与えられなかった。
感想・ブックマークなどよろしくお願いします。