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第11話 未遂

 俺の心身に多大なダメージを与えた通話から数分後、脱衣所の扉が開く音が聞こえた。

 何気なく音の方に視線を向けて……俺はソファーから転げ落ちた。


「な、な、何で下履いてないんだ……っ!?」

「だ、だってジャージがぶかぶかで、履いてもずり落ちちゃうんだもん! 上は着てるんだし……い、いいでしょっ!?」


 顔を真っ赤にして叫ぶ明瀬さんの恰好は、あまりに目に毒だった。

 上半身は俺のTシャツを羽織っているが、サイズが違いすぎて首元どころか鎖骨まで露わになってしまっており、何かの拍子にすとんと抜け落ちてしまいそうだ。

 それ以上に問題なのが、下半身。何も履いていない。素足。生足。

 Tシャツの裾で大事なところは守られているが……ほっそりとしていながら柔らかそうな太ももの半分から下は丸見えだった。


「あ、あんまり見ないで……」


 シャツの裾をぎゅっと握り締めて、潤んだ瞳の上目遣いでそんなことを言う明瀬さん。

 それならせめてタオルを巻くなりしてくれ、と叫びたくなる衝動を堪えて、素早く立ち上がる。……このまま寝転がっているのは流石にまずい。


「とりあえず、小さめのサイズのジャージ取ってくるから、座って待ってくれ」

「う、うん、わかった……きゃっ!?」


 控え目に頷いて歩き出した明瀬さんが、突如バランスを崩した。

 ずぶ濡れのまま家の中に入ってきた時の水滴、色々ありすぎて拭くのを忘れてた……!

 心中で舌打ちしながら、俺の体はほぼ自動的に動き出していた。


「明瀬さん!」


 ……間一髪、倒れ込もうとしていた明瀬さんと床の間に体を滑り込ませることに成功した。


「てて……だ、大丈夫か?」

「う、うん……」


 目を開けると、明瀬さんの顔がすぐ近くにあった。

 自分の体を下敷きにして受け止めたことで、明瀬さんの体は俺の腕にすっぽりと収まる形になっている。

 上半身が密着して、俺の胸元に非常に柔らかい感触が押し付けられていたが……俺の意識は、目の前に広がる光景に完全に惹きつけられていた。


「うん、大丈夫……」

「よ、よかった」

「あ、ありがと。その、助けてくれて……」

「あぁ……」


 十センチも離れていないような至近距離で、俺たちは見つめ合っていた。

 水を滴らせる亜麻色の髪、微かに震える濡れたまつげ、潤んだ大きな瞳、赤らんだ頬、ぷるんとした唇……それらすべてが俺の視界と意識を席巻し、掴んで離さない。

 垂れ下がった髪がまるで俺を捕える檻のように広がって、外界の全てを遮る。


「…………」

「…………」


 お互いの吐息すら感じられる距離。俺と明瀬さんは、一言も発することなく、身動ぎすらせずに、ただひたすらに見つめ合っていた。

 沈黙の中で、するりと流れた前髪が俺の頬に触れる。

 ほとんど無意識に指でその髪を払うと、明瀬さんの目がくすぐったそうに細められた。


「んっ……」

「……ごめん、勝手に触って。嫌だった?」

「……いいよ。君になら」


 手を放そうとしたとき、明瀬さんの指先がそっと触れた。

 そのまま俺の腕が彼女の頭の上に誘導される。視線だけで意図を窺えば、甘えるような声で名を呼ばれる。


 ……慎重に、優しく、決して傷つけないように。手のひらを彼女の髪の上に乗せ、ゆっくりと撫でる。

 しっとりと濡れた髪が硬い指を優しく迎え入れ、僅かな引っ掛かりすら感じない。極上の触り心地と言っていい。


「んぅ……」

「っ」


 猫のように目を細め、甘い吐息を零す明瀬さんに、俄かに鼓動が早くなる。

 その拍動が密着していた彼女にも伝わったのか、くすりと口元が綻んだ。


「……ドキドキしてる」

「当たり前だろ……」

「んふふ、そうだね。……私も、凄くドキドキしちゃってる。ね、もっと撫でて……?」


 そう言って目を瞑った明瀬さんは、さらに俺に体重を預けてくる。

 その拍子に、柔らかな髪を撫でていた指先が、彼女の頬に滑り落ちた。

 けれど彼女はそれを振り払おうとはせず、むしろ嬉しそうに頬を擦り付けてきた。


 彼女の体温が、触れ合った体を通じて伝ってくるような感覚。全身が熱く火照り、思考が麻痺していく。

 明瀬さんの頬を撫ぜる指先を追う視線は、やがて唇へと向けられた。

 ほんのりと色づいた唇。言葉の代わりに甘く微笑む、その形が、すぐそこにある。

 薄く開かれた亜麻色の瞳が俺を見つめる。その視線には、どこか懇願するような色が浮かんでいて──……



 ──ゴロゴロゴロ……ッ! ドォン!!


「きゃっ!?」

「うぉっ!?」


 突如として響いた轟音に、俺たちは飛び上がった。

 ビクリと明瀬さんの肩が跳ね、俺も反射的に身を引いた。


「い、今のって……雷……?」

「……みたいだな。それも大分近い」


 冷静を装って答えながら、俺の頭の中は混乱に包まれていた。

 今俺は何をしていた。何をしようとしていた?

 雷鳴の衝撃によって、火照った頭と体は一瞬で冷め切った。


 なぜあんなことをしたのかと言われれば、その場の雰囲気と勢いとしか言いようがない。勢いで、取り返しのつかないことをしようとしたのだ。

 絶妙なタイミングで水を差してくれた雷に最大限に感謝したい気分だ。

 ……少しだけ残念に感じている気持ちを全力で蹴り飛ばして、そっと明瀬さんの肩を押す。


 案外素直に俺の上から退いてくれた明瀬さんが、少しだけ残念そうに呟いた。


「……もう少しで、キスしちゃうとこだったね」


 改めて言葉にされると意識しちゃうから勘弁してほしい。

 ……もう少し嫌そうにしてくれないとどうしたらいいかわからなくなるので勘弁してほしい。


 ふぅ~っ、と大きく溜め息を吐いて、気持ちを切り替える。


 ──『ありがとう、柳田くん。あの子の頼れる存在でいてくれて』

 脳裏に過ぎる、明瀬さんのお父さんの言葉。預けてくれた信頼を裏切るわけにはいかない。


「とりあえず、明瀬さんの服を洗濯しようか」




§




 洗濯と乾燥が終わるまで、およそ二時間ほどの時間を要した。


 その間俺たちは、雑談をしたり俺の持っているゲームで遊んだりして時間を潰すことになった。

 ちなみに明瀬さんはゲームがかなり上手かった。


「引き籠っていた時に家でやることなくて、結構やりこんでたんだよねー」

「……なるほど」


 触れづらい。思わず返答に困ってしまった。


 ゲームもひと段落し、ソファーに並んで腰かけゆっくりする俺たち。ここ最近の昼休みを思い出して、座っているだけなのに妙に心が華やぐ自分がいた。

 そんな中、ふと明瀬さんが心配そうに問いかけてくる。


「そろそろ夕飯の時間じゃない? 準備しなくて大丈夫?」

「あぁ……一応カップラーメンの貯蓄はあるから、明瀬さんが帰ってからそれを食べるよ」


 いつもなら近くのスーパーに何か買いに行くところだが、今日は生憎の雨だ。味気ないが仕方あるまい。

 そんな俺に明瀬さんはじとりとした目を向けて、


「……いつもそんなのばかり食べてるの?」

「まぁ、俺は料理できないし……スーパーとかコンビニで弁当とか総菜買ってきて食べてるかな」

「そんな生活続けてるといつか体壊すよ……?」


 責めるような、というより心から心配そうな視線を向けられて、流石に居心地悪く感じてきた。

 一応以前に自炊をしてみようとしたことはあった。

 特に五年前──母さんが亡くなってすぐの頃は、仕事と家事に忙しくしていた父さんの負担を減らそうと、包丁を手に取ったのだが……母さんの手伝いすらしてこなかった俺は見事に怪我をしてしまったのだ。

 それ以来、父さん共々祖父母の家に世話になり、俺が料理に触れることはなくなった。


 家の事情を省いて以前怪我をしたと言う話を手短に明瀬さんに話せば、彼女は真剣な表情で聞いてくれた。


「そっか……その件で、包丁がトラウマになったとか……?」

「いや、そういうわけじゃない。ただ何と言うか、何となくやってみる気が起きなくてな」

「よかった……。それならさ、私と一緒に、料理をやってみない?」

「明瀬さんと、料理を?」


 意外な提案にオウム返しに聞き返すと、明瀬さんはこくりと勢いよく頷いた。


「一人暮らしなら簡単な自炊はできるようになった方が食費も抑えられるし、健康にもいいし! 全部自分で作れとは言わないけど、そういうものばかり食べてると、やっぱり体に良くないし……」


 そこで言葉を切り、俺の全身をしげしげと眺める明瀬さん。


「……改めて見ると、柳田くんっていい身体してるよね。さっき見た時もムキムキだったし……」


 なんか言い方がアレじゃないか?

 隣に座る俺の二の腕をツンツンと突いてくる指先をこそばゆく感じながら、俺は努めて冷静に返した。


「中学までは部活に入ってたし、今も筋トレは続けてるから。生粋の帰宅部よりは体力がある方だと思うよ」

「へー、部活やってたんだ! 柳田くんぐらいの体格だと、バレーとかバスケとか?」

「いや、バドミントンだな」


 俺が口にした競技名に、明瀬さんは目を丸くした。見慣れた反応である。


「なんか意外かも……バドミントンを選んだ切っ掛けとかあったの?」

「切っ掛けとかは特にないかな。小学校の頃のクラブ活動でやっててその流れで、って感じで……何だかんだ楽しんでやってたよ」

「うーん、確かに柳田くんって手足も長いし、バドミントン強そう! 高校ではやらないの?」

「……あー、まぁ、な」


 明瀬さんの何気ない問いに、つい言葉を濁してしまった。

 不自然極まる俺の反応に何かを察したのか、明瀬さんは殊更に明るい声で話を変えようとする。


「……それはともかく! やってみようよ、料理! 私が包丁の使い方から盛り付けまできっちり教えてあげるから! あの金平ごぼうもすぐに自分で作れるようになっちゃうよ?」

「……魅力的な提案だな」


 彼女の気遣いに感謝しながら、笑みを浮かべた……ところで、ピロリロリン♪ と言うメロディが耳に届き、俺はビクリと肩を揺らした。

 包丁はそうでもないが、こちらの方はトラウマになってしまったかもしれない。


「あ、パパからLAINだ。もうちょっとで着くって! ……そんなに怯えなくても。優しい人だったでしょ?」

「それはわかってるんだが……なんか、こう、プレッシャーが」

「あはは。パパがいつか話してみたいって言ってたから、ちょうどいい機会だと思って……ごめんね?」


 ぺろりと舌を出す明瀬さんの仕草はとても可愛らしい。

 が、それはそれとして俺の心に負わせたダメージはとても深いものなのだと、知っておいてもらわねば……。


「……次からは、せめて心の準備をする時間をくれ」

「はーい」


 次ってなんだよ、と自問している間に明瀬さんは脱衣所に着替えに行ってしまった。

 ……何だろう、この感覚は。知らぬ間に何かが進行しているような、外堀を埋められているような……考えすぎか?


 うーむ、と悩みながら着替えを終えた明瀬さんと共にマンションのロビーへと歩く。


「見送りなんて気にしなくていいのに」

「俺が気にするんだよ」


 ロビーに着いて外を確認すると、ザーザーと降り頻る豪雨の向こうに、マンションの入り口付近に停車中の一台の軽自動車が見えた。

 明瀬さんが大きく手を振ると、運転席のドアが開き一人の男性が傘をさしてこちらへ歩いてくる。恐らく彼が、明瀬さんのお父さんだ。


 ぴしりとスーツを着こなした壮年の男性。身長は俺と同じぐらいだが、明瀬さんと通じるものを感じる柔和な顔つきと表情をしていた。

 その男性は俺たちの前で立ち止まり、ニコリと微笑んだ。


「やれやれ凄い雨だね、ほんのちょっと車から出ただけでこんなに濡れてしまった。……初めまして、柳田くん。陽華の父の、明瀬信幸(のぶゆき)です。気軽にノブと呼んでくれていいよ?」

「は、始めまして、柳田辰巳と言います。えっと、信幸さん」

「遠慮しなくていいのに……」


 残念そうな表情を浮かべるお父さ……信幸さん。確かな血の繋がりを感じてしまう仕草だった。


「色々と話したいことはあるが、今日はもう遅いからね……辰巳くん、娘が本当に世話になった。このお礼はまた今度させてくれ。行くよ陽華」

「はーい、パパ。あ、ちょっと待って」


 信幸さんに一言言ってこちらを振り返った明瀬さんは、何故だかとても不満そうに頬を膨らませていた。


「……柳田くん、パパのことはすぐに名前で呼ぶんだね」

「えっ? あ、いや、この場には明瀬さんが二人居るし、それに」

「柳田くん」

「はいっ」

「私、次の中間テスト、絶対勝つから!」


 よくわからない決意を漲らせた明瀬さんは、そのまま信幸さんの傘に入って軽い足取りで車に乗り込んで行く。

 微笑ましいものを見るような目でこちらを見る信幸さんに、何故だか無性に腹が立った。

 ブックマーク・コメント等よろしくお願いいたします。

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