第10話 緊急避難
「うーん……」
度々質問をしながら勉強に励むこと数時間。
軽く伸びをして窓の方へ目を向けた明瀬さんが、困ったような呻き声を上げた。
釣られてそちらに視線を向ければ、今にも降り出してきそうな一面の曇り空が広がっていた。
「流石に降ってきそうだな。……そう言えば明瀬さん、傘持ってきてないんだっけ」
「うん……。うぅ、ちゃんと朝に降水確率も確認してたのに、何で忘れちゃうかなぁ……浮かれすぎてたかなぁ」
落ち込む明瀬さんを宥めつつ、思案する。
現在の時刻は十七時を少し過ぎた頃。この学習スペースは十八時まで解放されているので、ギリギリまで勉強する予定だったが、この空模様では少し繰り上げた方がいいかもしれない。
「降り始める前に帰った方がよさそうだし、今日はこのくらいにしとこう」
「そうだね。教科書とか濡らしちゃうわけにもいかないし」
机に広げていた教科書類を手早くカバンに戻し、消しカスを近くのゴミ箱に捨てて片付け完了。
速足で市民会館を後にする俺たちを、ロビーの職員さんは笑顔で見送ってくれていた。
最寄りのバス停に向かおうとしたところで……ゴロゴロゴロ、と。曇天の空から不穏な音が聞こえて、俺と明瀬さんは顔を見合わせる。
「……今の、雷の音だよね?」
「だな……本格的にヤバいかもしれな、あ」
ぽつり。言葉の途中で頬に当たる感触。
ついに降り始めてしまった雨は、ぽたぽたと落ちてくる水滴を皮切りに堰を切ったように勢いを増し、ほんの数秒の内に容赦ない大雨へと変わった。
慌てて傘を開くが、その間にも全身を水滴が打ち付け、服に染み込んでいくのがわかる。
「ちょっ、嘘でしょ!? 早すぎ……!?」
「明瀬さん、こっちに!」
もはや葛藤している暇はない。
明瀬さんの手を引いて強引に傘の中に押し込む。所謂相合傘の形になったが、生憎それを気にしている暇はない。
「早くバス停に行こう、あそこは屋根があったはずだ」
「そ、そうだね!」
少しでも雨水から庇えるようにカバンを体の前側に抱え直して、小走りでバス停へと急ぐ。
俺と明瀬さんとでは身長と歩幅にそれなりの差があるため、俺のペースで行こうとするとどうしても明瀬さんが傘から出てしまう。
四苦八苦する俺に気付いてか、明瀬さんが俺の腕を掴んで、勢いよくこちらに体を寄せてきた。これなら俺も走りやすい。
……傘を持つ腕に当たる感触は、努めて気にしないことにした。
そんな努力の末に、俺たちはようやくバス停の屋根の下に辿り着いた。
「はぁ、はぁ……ありがとう柳田くん、ほんとに助かったよ。それとごめんね、私背が小さいから……柳田くん、全然傘に入れてなかったでしょ?」
「傘開くまでの間にもう大分濡れてたから……俺のリュックも撥水性だし、そんなに気にしなくていいよ。明瀬さんの方こ、そ……っ!?」
傘をバサバサとしながら明瀬さんの方を振り返った俺は──すぐさま視線を横に逸らした。
明瀬さんが着ていた白いブラウスは雨水を大量に吸って、その下の素肌の色がわかるほどに透けてしまっていた。
致命的なものを目にする前に視線を外したファインプレーを自画自賛しながら、ジャケットを脱いで明瀬さんの肩に被せた。
このジャケットも相応に濡れてしまっているが、明瀬さんの上半身を隠す役割は全うできるだろう。
「柳田くん?」
「その……見えちゃってる、と思うので。これでどうにか隠していただければ、と」
「見えて……っ!?」
いきなり服を被せられたことに首を傾げていた明瀬さんは、すぐに俺の言いたいことに気が付いたようだ。
頬を赤く染めてこちらをじろりと睨む視線に、慌てて首を横に振る。
「誓って何も見てない! 見えたのは腕だけ! 本当に!」
「……まぁ、柳田くんだし信じるよ。ありがと、ちょっと借りるね」
「あ、あぁ……」
俺のジャケットで上半身を包みながら、やや赤らんだ顔で柔らかく笑う明瀬さん。頬に張り付く髪や滴る雫も相まって、何と言うか……普段より色っぽく見える。
……破壊力が高すぎて、先ほどとは別の意味で直視できない。
「……次のバスはいつだろうな」
ふらふらと宙を彷徨う視線が、バスの時刻表を捉えた。これ幸いとそちらに意識を集中させる。
駅に向かう便が来るまであと十分程度かかるらしい。大雨による遅延も考慮すればさらに伸びるか。
それまでに荷物が濡れていないか確認して……これからのことについて話しておかないとな。
「明瀬さん、教科書とかは大丈夫そう?」
「うーん、端っこがちょっと濡れちゃってるなぁ。これ以上バッグが濡れると厳しいかも」
「俺のジャケットでバッグも一緒に隠すようにすれば、多少はマシになると思う。……それで、駅まで戻った後はどうする?」
俺の質問に、明瀬さんは困ったように首を振った。
「家に帰るには、駅からちょっと歩いてまた別のバスに乗り換えないといけないんだよね……」
続けて告げられた明瀬さんの自宅の大まかな住所を聞いて、俺は思わず苦い顔を浮かべてしまう。
明らかに傘なしで行くには遠すぎる距離だ。
「親御さんに迎えに来てもらうのは?」
「今日はパパがお仕事に車乗って行っちゃったから……お願いしてみるけど、時間がかかるかも。傘持ってくるのを忘れた私が悪いんだし、パパが来てくれるまで駅で待つことにするよ」
気丈に微笑む明瀬さんだが、直後にくしゅん、と小さくくしゃみをしてしまう。
よく見れば、肩を小さく震わせている。雨水を浴びたことで体温が下がってしまったのだろう。
こんな状態で何時間も外に居れば、間違いなく体調を崩してしまう。
濡れ鼠となって震える明瀬さんを駅に一人残して自分だけ家に帰る……そんなの無理に決まってる。
……仕方ないか。
「明瀬さん、もし嫌なら遠慮なく断ってくれていいんだけど、明瀬さんがいいなら……その、ウチに来るか?」
「……えっ?」
§
「……どうぞ」
「お、お邪魔します」
自宅の鍵を開けて促せば、どこかぎこちない動きで明瀬さんが玄関に足を踏み入れた。
……まさか出会って数日の女子を、自分の家に案内することになるとは、人生はわからないものだ。
駅から歩いて三分。家賃にして六万ちょっとの学生向けマンション。1LDKの間取りで風呂トイレ別、オートロックにWi-Fiも完備。
それが現在俺が一人暮らしをさせてもらっている部屋だった。
高校生には過分に過ぎる内容だが……せめてこれぐらいはさせてくれと父と義母に懇願され、家賃等の仕送りを受けながらここに住むことになったのだ。
「とりあえず中で荷物を置こう。タオルを用意してくるからちょっと待っててくれ」
「わ、わかったよ。あ、ソックスも濡れちゃってるんだけど……」
「いいよ、後で拭いておくから」
明瀬さんをリビングに案内して、俺はすぐに洗面所からバスタオルを数枚手に取ると、すぐにリビングに行って彼女に手渡す。
室内に来たことで体の震えは止まったようだが、肌は青白いままだ。
やはり水気を取るだけでは不十分だろう。濡れた服を着替えて、体を温めてもらう必要がある。
そう考えながら、どこか所在なさげにしている明瀬さんに提案する。
「あー……とりあえず、シャワーでも浴びる、か?」
「しゃ、シャワー!?」
「いや、そういうのじゃなくて! その、濡れたままでいると風邪引くかもしれないし! ウチは乾燥機もあるから、服もすぐ乾かせるし」
顔を真っ赤にする明瀬さんに、そういうのってどういうのだよと思いながらも慌てて否定する。
二人揃って慌てだしたことで逆に冷静になったのか、顔を赤くしたまま
明瀬さんは小さく頷いた。
「うん、ありがとう。……お借りしても、いい?」
「も、もちろん。タオルは洗面所にあるからそれを使ってもらって、着替えは……悪いけど、俺のシャツとジャージで我慢してくれ」
「我慢なんてそんな、貸してもらえるだけありがたいよ」
寝室から半袖のTシャツとジャージを持ってきて明瀬さんに預ける。一応大きめのサイズにしたから入らないということはないだろう。
「洗濯は……明瀬さんが上がってからにしよう」
時間的な効率を考えれば同時進行で行うのがいいのかもしれないが、明瀬さんの服を洗うということは、必然的に脱衣をしてもらう必要がある。
明瀬さんも異論はないようでこくりと頷き、脱衣所へと向かって行った。
「じゃあ、シャワー借りるね」
「ごゆっくり」
脱衣所の扉が閉まる音を聞いてから、俺も着替えを始める。
脱いだ服はとりあえず椅子に掛けておいて、明瀬さんが帰ってから洗濯することにした。まさか明瀬さんの服と一緒に洗うわけにもいくまい。
身体に張り付くシャツを肌着ごと脱ぎ捨て、明瀬さんの着替えと共に持ってきたシャツを手に──取ったところで、脱衣所の扉が開いた。
「ごめん、柳田くん。バスタオルって棚の上にあるもので──……」
ひょっこりと顔を出した明瀬さんの視線が俺の姿を捉えて──そのまま固まった。
呆けたような表情が徐々に赤く染まっていくのを見ながら……とりあえず彼女の疑問に答えることにした。
「……脱衣所にあるものなら好きに使ってくれていいよ」
「~~~っ!? ご、ごめんなさいっ!! ありがとう!!」
リンゴのように真っ赤に染まった顔が脱衣所の中に引っ込められ、バンッ! と大きな音を立てて扉が閉められた。
「……そういうのって、普通逆じゃない?」
男の上裸を見られたところでこちらには特にダメージはないが、年頃の女子的には刺激の強いものだったのだろう。
普段からあの手この手で俺を翻弄する明瀬さんだが、俺の家に来ることになってから妙にそわそわしていたり、先ほどの反応だったり、実はかなり初心な性質なのかもしれない。
彼女の過去を考えれば納得できることではあるが、こちらも気をつけねば。
決意を新たに着替えを済ませ、今度はカバンの中の教科書の状態を確認する。
中学時代に部活動で使用していた撥水性の高いバッグだけあって、特に濡れている様子は見られず一安心。
一通り確認を済ませ、窓の外へ視線をやる。相変わらずの大雨。止むどころか、むしろ雨脚が強まっている気さえした。
現時刻は十八時、この時間なら夕方のニュースがやっているはずだ。テレビの電源を付け、何度かチャンネルを変えていると、ちょうどお天気コーナーを放送している番組に行き着いた。
「今日一杯は大雨が続く模様、か。参ったな……」
これでは明瀬さんを帰すに帰せない。
車で仕事に行ったという明瀬さんのお父さんの帰りを待つしかないか、と悩んでいると。
ピロリロリン♪ ピロリロリン♪ と、どこからか軽快な電子音が聞こえてくる。
スマホの着信音か? しかし俺のスマホはデフォルト設定のままで、こんな音楽ではない。だとすれば……。
ソファーから立ち上がってテーブルを確認すると、明瀬さんの荷物の横に置かれたスマホが鳴っていた。画面に表示されている発信先の名前は、『パパ』。
どう対応するべきか迷って、とりあえずスマホの持ち主に確認することにした。
洗面所の近くに寄って、気持ち大きな声で明瀬さんに呼び掛ける。
「明瀬さん! お父さんから電話来てるみたいだ!」
『わっ、び、びっくりした……。パパから? さっき送ったLAINの返事かな。……うーん』
何かを悩むような沈黙の後、明瀬さんはとんでもないことを要請してきた。
『柳田くん、もしよかったら電話に出て、パパに事情を説明しといてくれない?』
「えっ」
えっ?
「……マジで言ってる!?」
『おねがーい!』
そう返す明瀬さんの声は、もはや聞き慣れた悪戯っぽい色が乗っているように感じた。
彼女が調子を取り戻していることは喜ばしいが、流石にこれは洒落にならない。あまりにハードルが高すぎる。
しかし一方で、こんな大雨の日に傘を持たずに外出した我が子の身を案じる父親の気持ちを考えれば……せめて無事を伝えるぐらいのことはした方がいいのかもしれない。
……葛藤の末に、俺は半ば自棄になって明瀬さんのスマホを手に取り、着信ボタンをタップした。
『もしもし、陽華かい?』
「……もしもし」
通話の向こう側から聞こえてきた渋い男性の声に、躊躇いながら言葉を返す。
だが俺の言葉に返事はなく……妙な誤解を生む前に、名前を告げて事情を説明するべきだろう。そう思って口を開くと同時、
『……失礼。もしや君が、柳田くんかな?』
「えっ、あ、はい! 柳田辰巳と申します、娘さんにはいつも大変お世話になっております……!」
まさか向こうから名前を呼ばれるとは思っておらず、無駄に丁寧な口調で返してしまう。
明瀬さんのお父さんは、存外穏やかな口調で、
『そう畏まらずともいい。陽華から話は聞いているよ。むしろ娘の方が君に色々助けてもらったようで、私と妻も君に礼を言いたかったんだ』
「そんな、お礼なんて……明瀬さんが自力で立ち直ったんです。俺は言いたいことを言っただけで」
『そうか……君とはもっと色々話したいところだが、今はそれよりも陽華のことだね。あの子は君と一緒に居るのかな?』
その問いにどう答えるべきか悩んで……事実をそのまま伝えることにした。
「はい。雨宿りってことで……俺の家に来てます」
『ほう、君の家に。……今、陽華は何をしているのかな?』
「……服がずぶ濡れで体が冷えてしまっていたみたいなので、シャワーを浴びてもらってます」
『ほうほう、シャワーに』
一人暮らしの男の家で愛娘がシャワーを浴びているというとんでもない状況。
その事実を伝えられた父親はどう思うのだろうか。……まずいい気持ちはしないだろう。
どんな叱責も甘んじて受ける覚悟で話す俺に対し、電話先の声はむしろ楽しげですらあった。
『そうかそうか。娘が迷惑をかけたね。では陽華がシャワーを上がったら伝えてくれるかな、こちらの仕事はそろそろ終わるから、一……二時間後に迎えに行くと。後で君の住所を教えてもらってもいいかい?』
「わ、わかりました。あの……いいんですか?」
『ん? あぁ……』
お父さんはどこか安心したように笑って、
『まぁ確かに驚きはしたよ。ただそれは、あの子が他人の……それも男子の家でシャワーまで借りるほどに、心を許しているという事実にさ』
「心を……許されてるんですかね」
『もちろんさ。君も知っての通り、陽華は他人を頼るというのが昔から苦手な子でね。……例の件があってからは、その傾向はより強くなってしまっていた』
声に苦々しいものが混じる。
しかしすぐに明るいものに変わって、
『そんなあの子が、非常事態とは言え男の子の家に避難して、シャワーまで借りていると言うじゃないか。父親としては色々と心配してしまうところもあるが、それ以上に安心しているんだよ』
「……」
『ありがとう、柳田くん。あの子の頼れる存在でいてくれて』
素直な感謝の言葉に、胸に熱いものが込み上げてくる。
『じゃあ、また後で。陽華によろしく伝えてくれ』
「はい……お気をつけて」
通話が切れた後も、しばらくその場から動けなかった。
震える手でスマホをテーブルに置き、固まった足を引きずるようにしてソファーへ倒れ込む。
「……緊張した」
心の底から漏れ出た声は、自分でも驚くほどしわがれた弱々しいものだった。
ここまで緊張したのは、もしかしたら人生で初めてかもしれない。高校入試の面接ですらもう少しリラックスして臨めた。
しかし、極度の緊張による精神的な疲労の中で……奇妙な喜びと安心感を感じていることもまた事実だった。
を感じていることもまた事実だった。
その理由までは判然としなかったが、意外と悪い気分ではない。
「それはそれとして、もう二度と御免だ」
呟いて、俺はそのままソファーに突っ伏した。
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