第8話 惚れさせ屋①
「……また、神城かよ」
そのつぶやきは、誰にも聞かれないように低く、小さく吐き出された。
教室の隅。佐伯拓也は、手元のプリントに目を落としたまま、前方の一角をちらりと見やった。
そこには、クラスメイトの神城玲が、隣の席の男子と何気ない会話を交わしていた。その会話の合間、教室の外から声をかける少女の姿が見えた。
「神城くん、今日の午後、ギルド行くんでしょ? 先に行ってるねー」
そう声をかけてきたのは、同じクラスの如月穂花だった。明るく人懐っこい性格と整った容姿で、男女問わず人気がある。ギルド登録者でもあり、最近はダンジョンにも定期的に潜っているらしい。
続いて姿を現したのは、もう一人の美少女――白雪綾。落ち着いた雰囲気と優れた成績、何より冷静で整った顔立ちが目を引く。噂では、彼女もすでにスキルを2つ持っているという。
「神城くん、忘れ物ないようにね」
白雪の静かな一言。玲は「了解」と短く応じ、彼女たちは去っていった。
何気ないやりとり。けれど佐伯には、違って見えた。
(……なんで、あいつばっかり)
神城玲。顔立ちは整っている。けれど飛び抜けて目立つほどではない。性格も目立つタイプじゃない。誰とでも距離を保つ、どこにでもいるような男子生徒――少なくとも、以前は。
しかし今は違った。
スキルを発現した。空間魔法というレアスキルだと噂されている。
そして、美人2人とパーティーを組んで、ギルドの評価も上々。教室内では静かな注目を集めていた。
対して、佐伯は――
スキルが、ない。つまり、告白されたことがなく、自己申告できるものもない。
(俺だって、顔が悪いわけじゃない。性格だって普通だ。努力だって、してる)
けれど、何も起きなかった。
何も手に入らなかった。
(……何かが、間違ってる)
歯を食いしばりながら佐伯は視線をそらす。羨望が、焦りに変わり、焦りが苛立ちに、そしてどこにも行き場のない怒りへと変質していく。
昼休み、彼は人気のない裏庭に出た。
ベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。検索窓には既に履歴が残っていた。
「スキル 告白されるには」
「潜在スキル 増やす 方法」
「スキル発現 裏技」
そして、次の検索候補がふと視界に入った。
「惚れさせ屋 本物」
佐伯はそれを、無意識にタップした。
ページが開かれる。怪しげな黒背景に、簡素な文章が並んでいる。
《本気にさせて、告白させる。それが俺の仕事。》
《スキル発現は“本心の告白”で起きる。ならば、感情を操作すればいい。》
《完全合法・違反性なし・即効果。依頼多数につき選考制。》
佐伯はページを読み進めながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(……本当に、こんなものが……?)
信じたわけじゃない。けれど、ページ最下部の「依頼はこちら」の文字に、指は自然と伸びていた。
そして気づけば、タップしていた。
送信フォームが開く。
「標的の名前」「性格」「接触済みか否か」など、いくつかの項目を埋める。
その指は、躊躇いながらも止まらなかった。
最後の空欄に、彼はこう記した。
標的:白雪綾
数秒の沈黙のあと、画面が切り替わった。
《依頼を受理しました。明日、午後5時。駅前カフェにてお会いしましょう。》
画面の奥から、ぞわりと這い寄るような寒気が走った。
佐伯は、スマホをそっと伏せ、ポケットにしまう。
そのまま空を見上げた。
晴れているのに、雲が重くのしかかってくるように見えた。
そして小さくつぶやいた。
「これで、俺にも……スキルが手に入る」
***
午後五時、駅前のカフェは放課後の学生と仕事帰りの社会人で混み合っていた。
そんな喧騒の中、角のソファ席でひとり腰掛けていた佐伯拓也の背筋は、不自然なほどまっすぐだった。
「……佐伯くん、だよね?」
声をかけてきたのは、ひとりの青年。白のシャツに薄いネイビーのジャケット、柔らかそうな髪と整った顔立ち。笑みを浮かべて座ったその男に、佐伯は言葉を失った。
「どうも。はじめまして、朝倉律っていいます。大学生……ってことにしとこうか」
軽口を叩くようなトーンで名乗りながら、律はごく自然な動作で水を飲んだ。
その動作の一つひとつに、場慣れした雰囲気がにじんでいる。
「本当に……来るんですね、こういうのって」
「怪しいでしょ。でも、思ったより信じてたでしょ?」
佐伯は苦笑しながらも、うなずいた。画面越しの文字だけでは想像できなかった“実在する存在”が、今目の前にいるという現実。そのギャップに、脳が少しずつ追いついていく。
「さて、早速だけど――依頼内容、改めて確認させてくれる?」
律はタブレットを取り出し、スライドさせながら項目を確認していく。
「白雪綾さん、高校二年生。落ち着いてて真面目。おそらく恋愛経験は浅め。警戒心は高め……ってところかな?」
「……たぶん、そうです」
「いいセンスだね」
律はさらりと返しながら、さらに問う。
「どれくらい接点あるの?」
「同じクラスです。でも、話したことは……ほとんどないです」
「ふむ、接点は薄い、と」
彼はタブレットを閉じ、指先でテーブルをトントンと叩いた。
「じゃあこっちで、段階を踏むよ。最初は“偶然の接触”から始めて、3日以内に印象を植え付ける。
次に“小さな恩”を重ねて、信頼を少しずつ掘り下げていく。5日目で“助ける場面”を演出して、最終的に7日目で告白寸前の心理状態に持ち込む――そんな感じのプランでいいかな?」
佐伯は息をのんだ。
「……本当に、そんなことできるんですか」
「できる。俺がやるのは、恋愛感情の“演出”じゃない。
彼女の中にある“可能性”を引っ張り出して、火を点けてやるだけさ」
そして、にこりと笑う。
「その火が、誰に向かって燃えるかは……ね?」
その一言に、微かな引っかかりを覚えた佐伯は眉をひそめた。
「え、俺に惚れさせるんじゃ……」
「もちろん、依頼主に惚れさせるよう“努力”はするよ。でもさ」
律は急に声のトーンを落とし、テーブルに身を乗り出した。
「もし、彼女の気持ちが俺に傾いたら――それはもう、仕方ないことだよね?」
その瞬間、佐伯の背筋に冷たいものが走った。
だが律は何事もなかったかのように姿勢を戻し、また微笑を浮かべる。
「まあ、ほとんどの依頼は成功してる。結果は出してるんで、安心して。ね?」
「……わかりました」
佐伯は曖昧に返しながら、心の奥にかすかな不安のしこりを残したまま、その場をあとにした。
***
そしてその日の深夜。
白雪綾の通学ルートを記した地図が、律の端末に表示されていた。
「さて……最初の“偶然”は、どこで会おうかな」
指が画面をなぞりながら、にやりと笑う。
夜の光が、端末に表示された綾の名前を照らしていた。
***
翌朝、登校時刻の十数分前。
制服に身を包んだ白雪綾は、いつものように駅前の書店で新刊の棚を確認していた。ルーティンのように、通学の合間でほんの数分立ち寄るのが日課だった。
そのとき、棚のすぐ脇で人と肩がぶつかりそうになる。
「あ、ごめ――」
綾が顔を上げたその瞬間、相手の手が素早く棚の本を取って、彼女に差し出した。
「これ、探してたやつじゃない?落ちそうになってたから」
見覚えのない青年。柔らかい笑み、爽やかな声。昨日カフェで佐伯と会っていた男――朝倉律だった。
「あ……ありがとうございます」
綾は本を受け取り、律に軽く会釈する。
「最近、ここでよく見かけるなって思ってたんだ。通学路?」
「……はい、そうです」
警戒心を緩めるほどの言葉ではなかったが、不自然でもなかった。何より、その場で深く話すでもなく、律は「じゃ、またね」と一言残して歩き出した。
ほんの数秒の出来事。だが綾の胸には、どこか残るものがあった。
(偶然……?でも、話し方も落ち着いてたし、感じのいい人だった)
警戒はしていた。だがそれ以上に、「よく知らないけど、悪い印象じゃない」という不思議な余韻が残った。
***
その日の放課後。ギルド本部の前で、玲、穂花、綾の3人が顔を合わせていた。
「今日はE級ダンジョンの確認だけだよね?」
「うん、受付で情報収集だけしておこうって話になってる。実戦じゃないけど、装備は持ってきた?」
「一応、最低限は」
綾が静かにうなずき、穂花は笑顔を向けた。
「さっすが白雪さん。ちゃんとしてるなあ〜」
玲はふと綾の様子を見て、小さく眉をひそめた。
「……なんか、疲れてない?」
「え?」
「顔。ちょっと赤い。気のせいかもだけど」
「……そう? 朝、ちょっと走っただけだから、大丈夫」
綾はそう言ってごまかしたが、自分でも何となく気づいていた。
あの時、朝倉律と“偶然”会ったときのことを――ずっと、頭の隅で繰り返していたのだ。
名前も、所属も、何も知らない相手。けれど、どこか気になる。声や顔を思い出してしまう。
(……変なの)
綾は首を振り、思考を振り払った。
「さ、行こっか」
穂花の声に背中を押されて、3人はギルドの自動ドアをくぐっていく。
その背中を、少し離れた場所から見ている者がいた。
駅の反対側、カフェのガラス越しにコーヒーを飲んでいた朝倉律が、目だけを動かしてその様子を追っている。
「悪くない反応だったな」
カフェの窓越しに、その表情は一瞬だけ陰を帯びた。
(あの目つき……“信頼を得られる余地”は、十分にある)
律はそう確信していた。
これまで数多くの“ターゲット”を落としてきたが、綾のようなタイプは珍しい。
真面目で警戒心はあるが、親切には素直に礼を言い、適度な距離感を保とうとする。
一見冷静に見えて、実は情にもろい。
「焦らないことが大事なんだよ、こういう子は」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやいて、彼はスマホを取り出した。
画面には、スケジュール表のようなメモ。
【DAY1:偶然接触】
【DAY2:視線の接点を増やす】
【DAY3:落とし物】
【DAY4:恩の演出(怪我)】
【DAY5:救出・感情の起伏】
【DAY6:距離の短縮】
【DAY7:告白へ】
綿密に組まれた7日間の「恋愛導線プラン」。
画面をスリープにしながら、律は静かに笑う。
「彼女が“自分の意思”で俺に告白したら、それは誰にも止められない」
指先がカップの縁をなぞり、そのまま彼は視線をギルドの方角から外した。
──ゆっくりと、確実に。罠は、動き出している。
***
「いい感じに進んでるよ。白雪さん、素直で綺麗な子だね」
夕暮れの空の下、律から届いたメッセージを読みながら、佐伯拓也はスマホを握りしめていた。
放課後の教室。すでに誰もいなくなった時間帯、彼だけが一人残って窓際の席に腰を下ろしていた。
外の景色は夕日に染まり、街の輪郭をオレンジ色に包んでいる。
(……始まったんだ)
胸の奥で、何かが確かに動き出している。
ずっと止まっていた時計が、ようやく音を立てて回り出したような感覚。
(これで、白雪さんは……俺に近づいてくる)
そう思おうとしても、内心では分かっていた。
彼女の視線の先にいるのは、自分ではないことを。
無意識に神城玲の名前が浮かび、そのたびに喉の奥が焼けつくような思いがこみ上げてくる。
(どうして……あいつなんだよ)
同じクラス、同じ年齢、特別目立つわけでもなかったのに。
気づけば“スキル持ち”で、ギルドに評価されて、白雪さんと如月さんのそばに立っていた。
(俺の方が、先に白雪さんのことを見てた。
声もかけられなかったけど、ずっと、見てたのに)
嫉妬ではなく、怒りでもなく。
それは、静かに沈殿していく“喪失感”に近かった。
──自分は、誰にも必要とされていない。
──誰にも、選ばれていない。
そんな感情が、ゆっくりと彼の胸を満たしていく。
そのとき、スマホがもう一度震えた。
《明日は“目線の共有”を仕掛けるよ。場所は学校の廊下。
不自然じゃないように、1〜2回目が合うだけで充分。
心に残すには、それだけでいい》
精緻に組まれた計画。その一つ一つが、現実を上書きしていく。
(これが、俺のやり方だ)
神城玲のようにはなれない。
正面から立つことも、誠実に好意を伝えることもできなかった。
でも、スキルが欲しかった。
それがあれば、自分は“対等”になれると思った。
──違う形でも、勝てると思った。
自分の心を、必死に正当化するように、佐伯は窓の外をにらむ。
「告白されれば、スキルが手に入る。
だったら、それがたとえ……ちょっと卑怯でも、俺の勝ちだろ」
夕暮れの光の中で、彼の表情はゆっくりと歪んでいた。
***
その頃。
ギルドのロビーで、綾はふと後ろを振り返った。
誰かに見られているような、言葉にできない違和感。
けれど、何もいなかった。
気のせいだと首を振り、また前を向く。
その小さな不安は、まだ“兆し”に過ぎなかった。
その小さな予感に、本人すらまだ気づいていない。
だが、心のどこかで、白雪綾は既に“誰かの視線”を受け止め始めていたのかもしれない。
「白雪さん?」
隣から声をかけたのは穂花だった。軽く首をかしげる彼女に、綾は微笑んで返す。
「ううん、なんでもない。行こう、そろそろ時間だから」
二人は玲の後を追って歩き出す。
一歩、また一歩。
その背中を、律は遠くから見送っていた。
ギルド近くの路地裏、わずかな隙間から通行人の流れを観察していたその男は、指先で端末をタップしながら、誰にも聞こえない声でささやいた。
「今日も、仕上がってきてるよ。いい感じだ――佐伯くん」
依頼主の焦りも、欲望も、計算の内。
──本当の狙いは、最初から変わらない。
静かに、確実に。舞台は整い始めていた。