第13話 仲間として
数日ぶりに見た白雪綾の姿に、教室の空気がほんの少しだけ変わった。
惚れさせ屋――あの出来事の余波は、まだ完全に消えたわけではない。
けれど、誰もそれを口にする者はいなかった。
綾はいつもと変わらない制服姿で教室に入り、整った所作で席についた。
一礼してから椅子に座るまでの動きすら丁寧で、それでいて妙な緊張も見せない。
その自然体が、かえって周囲の声を封じてしまうようだった。
玲もまた、いつも通りだった。
特別な表情を見せることもなく、ノートをめくっていた手を止めるでもなく。
ただ、綾と一瞬だけ目が合ったとき、小さく会釈を返す。
綾もまた、それに軽く頷く――それだけで、妙に落ち着いた空気が流れた。
(思ったより、普通だな)
玲は内心でそう思いながら、視線を戻した。
午前の授業が終わった後、担任が黒板を叩く音で教室のざわつきが収まった。
「そういえば、白雪。欠席してたぶん、放課後に自習で進度補ってくれ。
誰か付き添って、課題のフォローしてくれる人、いるか?」
沈黙が落ちた。
誰もがちらりと綾の方を見るが、同時に「気を使って声をかけるのも違う」とでも言いたげに黙っている。
そんな空気の中で、玲が静かに手を上げた。
「……俺、付き合います。進度ほとんど同じなので」
何人かの生徒が一瞬だけ振り返る。
予想外の反応だったのだろう。
けれど玲は、別に意識してそうしたわけでもなかった。
ただ、誰かがやるなら、自分でいいと思っただけだ。
「神城か。助かる。じゃあ放課後、自習室に行ってくれ」
担任はあっさりと了承し、話を進めた。
綾は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑んで言った。
「……ありがとう。よろしくね」
玲は軽く頷きながら、「こちらこそ」とだけ返した。
***
(大丈夫、私は平気。ちゃんと、戻ってこれたんだから)
綾は内心で自分に言い聞かせるようにしていた。
何事もなかったように振る舞うことは、想像以上に体力を使う。
けれど、それを表に出すわけにはいかなかった。
あの出来事が、自分の中で“終わったこと”になるには、まだ少しだけ時間が必要だった。
ふと、玲と目が合ったときのことが頭をよぎる。
あの会釈――あまりにも自然で、優しかった。
(……変わらないな、神城くん)
変に気を使ってくるわけでもなく、かといって無視するでもない。
誰かと話すとき、彼はいつも自然で、一定の距離感を保っている。
それが、綾には少し心地よかった。
***
一方の玲もまた、綾の無理のない表情に安堵していた。
(意外と、しっかりしてるんだな)
どこかで「心が折れてしまったかもしれない」と危惧していた。
だが、今日の彼女は違った。
普段通りの動き、落ち着いた受け答え、そしてあの小さな頷き。
玲は自分の席で、何とはなしにペンをくるくると回していた。
誰かが行くなら自分が――
そんな思考は、どこか自分でも理由が曖昧だった。
けれど、あのとき自然に手を挙げたことを、玲は後悔していなかった。
夕方の校舎は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
放課後の自習室。
窓から差し込むオレンジ色の光が、ふたりの机の上に淡く広がっている。
綾と玲は並んで腰掛け、それぞれノートとプリントに目を落としていた。
話さなければいけないことも、無理に話すこともない。
それでも、沈黙が気まずくないのは、どちらも集中しているから――それと、何よりも“居心地”が悪くなかったからだ。
綾は途中、手を止めて小さく息を吐いた。
「……思ったより、進度ずれてなかった。ちょっと安心した」
「まあ、授業ノートちゃんとまとめてたしな。白雪さんのやつ、綺麗で分かりやすいから」
「……え、読んだの?」
「いや、さっき少し見えただけ。図の使い方が丁寧だった」
玲の言葉に、綾は不意に頬を赤らめた。
「……なんか、変な感じ。褒められるの、苦手かも」
「そう?俺は素直に言っただけ」
「……ありがとう」
綾は言葉を返しながら、心の中に微かなざわめきを覚えていた。
――あの時、あの場所で。助けに来てくれた人が、今こうして隣にいる。
もちろんそれだけで何かが変わるわけじゃない。
けれど、あの時の“怖さ”と、今の“安心感”が、あまりに対照的で――
「……ねえ、神城くん」
「ん?」
「本当は、あの時……怖かった。誰が敵で、何を信じたらいいか分からなかった」
「……うん」
「でも、神城くんの顔を見たとき、少しだけ――助かったって思った」
玲は少しだけ目を伏せてから、真っすぐに綾を見た。
「なら、行ってよかった」
その言葉が、どこまでも自然だったからこそ、綾は目を逸らした。
***
一見ただの自習時間。けれど、綾の中では些細な変化が次々と積み重なっていた。
玲の隣にいると、なぜか心の奥の緊張がほぐれる。
騒がれない、詮索されない、気遣いも過剰じゃない。
まるで「何もなかったかのように接してくれる」その距離感が、今の綾には何よりありがたかった。
(あのとき、神城くんが現れたときの……あの安堵。あれって……)
胸の奥に浮かんだ問いを、綾は慌てて振り払った。
「そういえば、空間魔法……使えるようになった?」
「ん、まあ、少しだけ」
「すごいと思う。私、まだ詠唱短縮しか自分で試せてないから……」
「白雪さんの氷魔法、正確で威力もあるって評判だったよ。ギルドの受付の人が言ってた」
綾は驚いたように目を見開いた。
「え、誰がそんなこと……」
「たぶん、藤堂さん。なんか“才色兼備”って褒めてた」
「な、なにそれ……!」
顔が一気に赤くなり、綾はプリントでそっと口元を隠した。
玲は笑わない。ただ、穏やかに「事実だからじゃない?」とだけ添えた。
会話のあとも、ふたりの間に流れる空気は穏やかだった。
そして、綾は思う。
(この人の言葉は、やっぱり変に刺さらない。なのに、ちゃんと残る)
胸の奥に、もう一度ざわりとした感情が波紋のように広がっていった。
ページをめくる音と、シャーペンの走る音だけが、静かな空間に続いていた。
綾は自分のノートに目を落としながら、ふとプリントの山の上に置かれた資料を手に取ろうとした。
同時に、玲も同じ資料に手を伸ばしていて――
「……っ」
ふたりの手が、重なった。
一瞬、時が止まる。
指先に触れた体温。
思わず綾が息を呑み、玲も手を引こうとするが、綾の動きが一瞬だけ早かった。
「ご、ごめん……!」
「……いや、こっちこそ」
互いに視線を逸らす。
沈黙が戻ったが、先ほどとは違う質感を伴っていた。
綾はそっと胸に手を当てた。
指先に残った感触が、じんわりと広がっていく。
(なに、これ……)
焦るような感情。でも、嫌ではなかった。
むしろ――心地よいとすら思えてしまった自分に、戸惑いを覚える。
(ダメ、落ち着いて。これは……ただの偶然。何でもない)
自分にそう言い聞かせても、内側のざわめきは消えなかった。
玲はそんな綾の変化に気づいたのか、少しだけ間をおいてから口を開いた。
「……あのとき、惚れさせ屋が言ってたよな。
“気持ちが揺れただけで、告白させられる”って」
綾は肩をびくりと震わせた。
「あの言葉、嘘じゃなかったと思う。
でも、揺れた気持ち全部が嘘だってわけでもないよ。
騙されたことで全部を否定するのは……少し、もったいない気がする」
玲の言葉は、ごく自然に落ちてきた。
説教でも、慰めでもない。ただ、隣にいる人間の思ったことを、素直に言葉にしただけ。
綾は黙ってそれを聞いていた。
(どうして、この人の言葉はこんなにも……)
胸の奥がまた、静かに波打った。
けれど――その波紋を、綾はすぐに押しとどめた。
(違う、これは……“恋”なんかじゃない)
玲が助けてくれたのは、危険な状況で、自分が困っていたから。
今日こうして勉強に付き合ってくれているのも、たまたま進度が同じだったから。
それ以上でも、それ以下でもない。
(たまたま、優しくされただけ。だから――)
自分の中で芽生えかけた何かを、綾はゆっくりと包み隠すように抑えた。
律のことを思い出す。
優しい言葉、気遣い、温かな笑顔――全部、偽物だった。
だけど、それでも揺れてしまった自分がいた。
(あんなふうに、また“勘違い”したくない)
思考の中で、自然とひとつの答えが定まっていく。
(これは――仲間としての信頼。
神城くんが、信頼できる人だってわかっただけ)
心の奥で繰り返すように唱える。
感情を整理し、輪郭を与え、名前を付けて、収める。
玲がふと横目で彼女を見た。
「白雪さん、無理はしてない?」
その言葉に、綾は一瞬だけ動揺しかけたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ううん。大丈夫。むしろ……すごく落ち着いてるわ」
「そっか」
それだけの会話。けれど綾の中では、答え合わせのように感じられた。
落ち着けているのは、玲がそばにいるから。
でも、それは恋なんかじゃない。――信頼だ。
(信じていいって、思えたから)
そしてその信頼が、綾の中のもう一歩先へと続いていることに、
彼女自身はまだ気づいていなかった。
***
太陽が沈みかけ、窓の外が柔らかな茜色に染まっていた。
自習室に残っていたのは、もうふたりだけ。
最後のプリントを片付けながら、玲が言った。
「……白雪さん、今日でだいぶ追いついたと思う。無理せずにね」
「うん。ありがとう、神城くん」
綾はそう言って微笑んだ。
どこか照れたようで、それでもはっきりとした笑顔だった。
ふたりで荷物をまとめ、並んで廊下を歩く。
階段を下り、昇降口へ。
窓から見える景色は、すっかり放課後の色に変わっていた。
玄関を出てからも、ふたりは少しのあいだ無言で歩いた。
それでも気まずさはなかった。
今日一日で、ふたりの間には確かに“何か”が芽生えた気がしていた。
校門を出たところで、少し強めの風が吹いた。
綾の黒髪がふわりと揺れ、玲の視界を一瞬だけ遮った。
「冷えてきたね」
「そうだな。上着、薄くない?」
「大丈夫。これくらいなら……」
綾は言いながら、少しだけ玲に目を向けた。
(“仲間”として。きっとそれでいい)
玲の横顔はいつも通り、穏やかで落ち着いていた。
自分の揺れる感情に無理に入り込もうとせず、ただ隣にいてくれる。
その距離感が、今の綾にはとてもありがたかった。
(でも……“それだけ”とも言い切れない)
自分の中に芽生えた小さなざわめき――
それを今すぐ答えにするには、まだ少しだけ勇気が足りない。
それでも、前より少しだけ、自分の気持ちに耳を傾けられる気がしていた。
玲がふと足を止めた。
「白雪さん、言いたいこととか、話したくなったら、いつでも聞くから」
その言葉に、綾は一瞬だけ目を見開いて、すぐに笑った。
「……ありがとう。ほんと、ずるいくらい優しいね」
「いや、普通だよ」
その何気ないやり取りが、綾の胸の奥をまた少しだけ温めた。
歩き出す背中に、ほんの少しだけ、軽やかさが戻っていた。