第12話 惚れさせ屋⑤
夕暮れの街が、橙色の光に染まっていた。
白雪綾は、町外れにある小さな広場へと歩を進める。
古びたベンチと錆びた街灯があるだけの、人通りのない空間。だが、どこか居心地の良さを感じさせた。
すでにそこには律がいた。薄手のジャケットを羽織り、街灯の下でスマホをいじっていたが、綾の姿に気づくとすぐに微笑んだ。
「来てくれて、ありがとう」
「……待ちましたか?」
「ううん、ちょうど今来たところ。白雪さんって、時間に正確だね」
綾は小さく頷き、律の隣に並んで立つ。
広場には風の音と、遠くの車の走行音だけが響いていた。
「この場所、いいよね。人も少ないし、静かで落ち着く。昨日、ふと思い出してさ。……君と初めて話した時のこと」
綾は目を見開いた。
「あのとき……?」
「うん。落とした資料を拾った時。正直、あんな綺麗な子が“ありがとう”って微笑んでくれたの、ちょっと感動したんだ」
律は、あくまで自然体だった。視線も柔らかく、声のトーンも穏やか。
けれど、その言葉はどこか、綾の内側に染み込むように響いてきた。
(……なんでだろう。今日の彼、少し違って見える)
「白雪さんって、きっと普段から周りに頼られてるんだろうなって思う。
でも、ちゃんと自分のことを頼る人って、少ないんじゃないかな」
「え……」
「だからさ、今日は俺が君に“寄り添いたい”と思って、こうして呼んだんだ」
綾は返す言葉を探しながら、目を伏せた。
(こんなふうに、誰かに“必要だ”って言われたの、いつ以来だろう)
「白雪さん」
律の声が、すっと近づいてくる。
綾が顔を上げた先、律の目がまっすぐに自分を捉えていた。
「俺は、君のことが……好きだ」
その瞬間、空気が止まった。
風も、街の音も、遠くなった気がした。
綾の胸が、どくんと大きく跳ねる。
(嘘じゃない……気がする。でも……本当に?)
綾の中で、何かが揺らいでいた。
不思議と、怖くはなかった。
律の言葉は優しく、耳に心地よく届いていた。
そして確かに、自分のことを“見ていてくれた”のだと感じていた。
けれど、その“告白”の裏にある意味が――この世界では、あまりにも重い。
(もし私が、このまま答えたら……)
心の奥に、微かな違和感があった。
それは、かすかに張り詰めた音のような、“警告”にも似た感覚。
(……でも、それが何かは、まだ言葉にならない)
綾はほんの少し唇を開きかけた。
その瞬間――
「その告白に、答えないでくれ」
静かで、けれど確かな声が割り込んだ。
綾が振り返ると、そこには神城玲と、すぐ後ろに並ぶ如月穂花の姿があった。
いつもと変わらない――でもどこか、普段よりもずっと真剣な顔をしていた。
肩で息をしているその姿は、確かに彼が全力でここまで来た証だった。
綾の胸に、別の感情が小さく灯る。
(……どうして、ここに?)
その問いが言葉になるより先に、次の展開が始まろうとしていた。
律の眉がわずかに動いた。
「……やあ、神城くん。ずいぶんと急いできたんだね」
「白雪さん、その男の言葉に答えないで。これは“罠”だ」
玲の声は淡々としていたが、そこには普段にはない強い断定があった。
「罠?」
律は苦笑を浮かべる。
「俺はただ、好意を伝えただけだよ。告白くらい、自由じゃないの?」
「いいや、あなたの目的は“スキル”だ」
玲の言葉に、綾が息を呑む。
律の微笑が少しだけ崩れた。その隙を逃さず、玲は続ける。
「白雪さん、きみの“枠”を減らさせる気なんだ。そして、告白に対する返答という形で白雪さんに告白させて、自分はスキルを得ようとしてる」
「証拠はあるの?」
律の返しは冷静だった。
「証拠はない。けれど、俺は――彼女の恋人だから。彼女の心の変化には気づける」
綾が思わず目を見開く。
「か、神城くん……?」
「へえ」
律は少し目を細めた。
「じゃあ、白雪さん。君の口から証明してもらっていいかな?“彼のことが好き”って」
「え、それは……」
綾の足がすくむ。
場の空気が一気に張りつめる。
玲は綾に視線を向け、ほんの一瞬だけ静かにうなずいた。
(大丈夫、スキルに影響はないはず。形だけ整えて、なんとか押し切れば……)
その無言の肯定が、彼女の背中を押す。
綾は、震える声で言葉を紡ぐ。
「……私……神城くんのことが……す、好き、です」
その場の全員が、無言で彼女の言葉を見守っていた。
そして――何も、起きなかった。
ステータスの変動も、システム通知も。
「……告白は成立したのかな?」
律が静かに尋ねる。
「……もちろん、俺と綾は付き合ってるから当然だろう」
「白雪さんの態度からはとても告白が成立したとは思えないけどね」
「つまり、彼女の言葉には、スキルの引き金になるだけの“想い”が込められてなかったってことだ」
「ああ、見苦しい言い訳は要らないよ。そもそも、お互い名字呼びの時点でバレバレだし。恋愛経験がないのが丸わかり」
綾が動揺する。穂花は思わず綾に駆け寄り、肩に手を置いた。
「白雪さん……!」
玲はわずかに目を伏せた。
(ダメか……)
綾はその場に立ち尽くしたまま、自分の胸の奥に問いかけていた。
隣で見守っていた穂花は、綾の手をそっと握った。
「白雪さん。大丈夫……大丈夫だよ」
その言葉に、綾はかすかに頷く。
一方、律はわずかに口角を上げ、玲を見据えた。
「“俺は彼女の恋人だ”――なかなか粋なハッタリだったね。
でも残念。感情は、そんなに簡単に導けないよ」
玲は答えず、ただ一歩、前に出た。
風が吹き抜け、街灯の光が揺れる。
穂花は綾を庇うように一歩後ろへ下がり、静かに呟いた。
「神城くん……お願い、あとは任せる」
玲は頷き、無言のまま律を見据えた。
戦う覚悟が、すでにその瞳に宿っていた。
「じゃあ、ちょっとネタばらしをしようか」
律が不意に口を開いた。
その声は、もはや取り繕うような優しさはなく、皮肉と余裕を含んでいた。
「俺のスキルは《人心掌握》。
範囲内にいる人間に、少しだけ“俺に好印象を抱かせる”影響を与える。
だから、初対面でも俺を信用して、気を許す。君も……そうだったんじゃない?白雪さん」
穂花が顔をしかめた。
「……ずるいスキルだね、それ」
「そう?君らの“回復”や“空間操作”だって十分チートだと思うけど」
律は手を広げる。
「感情なんて曖昧なもの、ちょっと傾かせるだけで簡単に“告白”に届く。
そうして俺は、今までに6人からスキルをもらった」
綾が震える声で言った。
「じゃあ、あれも……全部、“偽物”だったの……?」
律はあっさりと頷いた。
「偽物じゃないさ。惚れてくれた子の気持ちは“本物”だった。
ただ、俺は応えるつもりがなかっただけで」
綾は言葉を失った。
その隣で、玲の目が鋭く細まっていく。
律は、肩を竦めるようにして言った。
「告白がスキルを生む――それがこの世界のルールなんだろ?
だったら、効率的にその“供給”を得るのが、俺のやり方ってだけさ」
そのとき、律の足元が動いた。
風の魔法が巻き起こり、砂埃とともに短剣を抜き放つ。
「話はここまで。君たちは俺の仕事を邪魔した。“契約妨害”ってことで、報いを受けてもらうよ」
次の瞬間、律が跳んだ。
空気を切り裂く一撃。
玲は咄嗟に綾を背中にかばいながら、必死で軌道から逸れた。
「反応は悪くないね。でも、空間魔法は読みやすい。防御特化じゃ、俺は止められない」
玲は冷静なまま構え直した。
「お前の行動はすでに記録された。次に告白を引き出せば、お前自身が告発対象になる」
「おや、それは怖いね。でも――その前に終わらせるさ」
***
風圧が去った後の静寂の中、綾は玲の背中越しに息を呑んだ。
普段は感情の起伏を表に出さない玲が、目の奥に強い“怒り”を宿していることに気づいた。
「白雪さん、離れてて」
「……っ、うん」
玲の声は短く、それでも綾には十分だった。
その一歩後ろ、穂花が静かに魔力を集中させていた。
(この場面、きっと止めなきゃいけない。でも、今の私じゃ……)
回復と補助の準備を整えながら、穂花は玲の背を信じることしかできなかった。
律がニヤリと笑う。
「ねえ、玲くん。君も分かってるだろ?
本気で誰かを好きになるのって、スキルより怖い。
想いを伝えることで、自分の可能性が一つ消えるんだ」
玲は言葉を返さず、構えを低くした。
「でも、君は今――その“可能性”を捨ててまで、彼女を守ろうとしてる」
律がさらに風を巻き起こし、再び飛びかかろうとしたその瞬間。
玲の瞳に、淡い光が宿った。
(来る……!)
綾も、穂花も――その一撃の直前、空間が震える音を聞いた気がした。
律の刃が、一直線に玲へと迫る。
その瞬間――空間が、裂けた。
玲の右手がわずかに動いたと同時に、玲と律の間に“断絶”の境界が出現した。
空気が歪み、光が屈折し、音すら届かない“壁”が一瞬で広がる。
「っ……!」
律は空中で体勢を崩し、足元を蹴って後方に着地した。
「……なんだ、それ……空間が削られてる……?」
玲は息を整えながら、静かに手を下ろす。
穂花が驚いたように叫んだ。
「今の、神城くんの魔法……!?朝倉との間に見えない何かがあるみたい……!」
綾もまた、玲と律の間に生まれた“裂け目”を見つめたまま、動けなかった。
その直後、律が軽く肩を竦めた。
「ここまで来て、未遂とはね。惜しかったな」
言葉と裏腹に、律の表情には焦りがにじんでいた。
告白さえ引き出せていれば、スキルの獲得は目前だった。だが、その一歩手前で阻まれた。
「今回は引くよ。……次があるかは、わからないけど」
律はひとつ手を振ると、風の魔法を使ってその場から跳躍し、ビルの屋上へと姿を消す。
穂花が駆け寄り、綾の肩を抱いた。
「白雪さん、大丈夫……?」
「……うん。……でも、ちょっと悔しい」
綾は、ぎゅっと拳を握っていた。
「自分が、簡単に信じかけたこと。……騙されそうになったこと。
スキルのせいだとしても、それだけじゃなくて。
私、自分の心にも、ちゃんと向き合ってなかった」
その声は震えていたが、目はまっすぐだった。
玲が静かに歩み寄る。
綾は、視線をそっと玲に向けた。
「神城くん……ありがとう。来てくれて、守ってくれて。……本当に、助かった」
玲はわずかに頷いただけだったが、それでも綾には十分だった。
彼の存在が、今日という一日を“間違いじゃなかった”ものにしてくれた。
彼女の中で、確かに何かが変わろうとしていた。
玲は綾の隣に立ち、周囲の空気が静まり返る中、ぽつりと呟いた。
「……もう、無理に言葉にしなくていい。今日のことは、俺たち全員にとって、教訓になった」
「……うん」
綾の返事は小さいものだったが、玲の声に安心感を覚えた自分に気づいていた。
(神城くんが、あのとき来てくれなかったら――)
想像しただけで、背筋が冷たくなる。
あのまま告白していたら、スキル枠を失っていた。
でも、それ以上に、“心”の何かを深く傷つけていた気がする。
綾は、ゆっくりと呼吸を整えながら、もう一度玲を見つめた。
「……次に、本当に誰かを好きになるときは――
ちゃんと、自分の気持ちを知ってからにする」
玲は少しだけ目を細めて、何も言わずに頷いた。
その静かな肯定が、綾の中にまたひとつ、小さな火を灯した。
(この人は、私が“本気”になったとき――きっと受け止めてくれる)
初めてそう思えた気がした。
***
その頃、ギルドにはすでに「惚れさせ屋・朝倉律」に関する情報が届きつつあった。
“スキル詐欺”“精神的加害行為”として、指名手配の検討が始まっていた。
物語の一つの節目が、静かに幕を閉じた瞬間だった。