第11話 惚れさせ屋④
放課後。下校時刻のチャイムが鳴り響いたあと、白雪綾は静かにカバンを持って立ち上がった。
教室の外に出ると、空はやや曇り気味だった。
日差しの柔らかさが、どこかぼんやりとしていて、心を映す鏡のようにも思えた。
(行くって、決めたんだし)
心を落ち着けるように、深く呼吸する。
待ち合わせ場所は、町の少し外れにある公園のベンチ。普段はあまり人のいない静かな場所。
角を曲がると、既に彼はそこにいた。
「白雪さん」
朝倉律は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
ネクタイを少し緩めて、手には缶コーヒーを持っている。
「来てくれて、ありがとう。正直、ちょっと緊張してたんだ」
「……そんな、気にしないでください」
綾も、ぎこちないながら微笑を返す。
律はベンチに座り、「ここ、いいかな?」と促した。
「最近、よく考えるんだ。スキルって、誰かに何かを“もらう”ことが多いよね」
綾は黙ってうなずく。
「でも、誰かに何かを与えるって、案外難しい。
特に、感情って一番不確かで、でも一番強い」
缶を傾けるその横顔に、綾はふと、既視感を覚えた。
(……この雰囲気、初めて会ったときと、少し違う)
だけど、言葉にはできなかった。
ただ、彼の紡ぐ声に耳を傾けるしかない。
「白雪さんって、すごく綺麗で、気高いのに……どこか寂しそうだよね」
「……え?」
「見ていて、そう思った。たぶん、気を張ってるんだろうなって。
強くありたい人って、誰かに頼るのが苦手だから」
言葉の一つ一つが、綾の心の奥に、深く静かに届いてくる。
「誰かに支えてもらっても、いいと思うよ。
もし、ちょっとでも俺のこと……“気になる”って思ってくれてるなら、また今度、ゆっくり話してくれないかな」
その言葉は、驚くほど優しかった。
綾は、迷った末に、ほんの少しだけ頷いた。
「……はい」
律は柔らかく微笑み、立ち上がった。
「今日はそれだけ。無理に答えを求めたりしないから。
でも……また会えたら、嬉しい」
手を振って、彼は静かにその場を離れていった。
残された綾は、自分の胸に芽生えた小さなざわめきを、ただじっと見つめていた。
(また会いたい、って言われて……私、嬉しかった)
小さく息を吐いた綾は、制服の胸元を押さえる。
そこには確かに、かすかな高鳴りがあった。
戸惑いながらも、自分の心が何かに揺れていることだけは否定できない。
だが、それと同時に――言葉にならない引っかかりも、胸の奥に残っていた。
(私のことを、こんなふうに言葉で“分かってくれる”人なんて……今まで、いなかった)
だからこそ、惹かれたのかもしれない。
けれど、それが“本物”かどうかは、まだ分からなかった。
律が歩き去った方向を見つめながら、綾はそっと呟いた。
「……また、話してみようかな」
それが、どんな結果をもたらすのかも知らないまま――。
***
ギルド本部、放課後のカウンター前。
穂花は、簡単な装備チェックのついでに立ち寄っただけだったが、そこで偶然、別の高校の女子たちが話しているのを耳にした。
「マジで最悪だったよ。“惚れさせ屋”って知ってる?」
「うわ、それ聞いたことある……。あれでスキル、1個失ったって話、本当なんだ?」
「うん。わたし、やられた。告白した瞬間に“ありがと”って言われて……その後、ブロックされた」
「えぐっ……詐欺じゃん、それ」
「でしょ?でも、向こうは『本気で好きだったのかはこっちには分からない』って一点張り。スキル庁も“自己責任”って……」
穂花は、手元のタブレットを固く握りしめた。
(……惚れさせ屋?)
その単語に、心がざわついた。
一昨日、綾が“気になる人がいる”と言っていた。
そして、今日、律との会話のことを――綾は何も話していない。
まさか……と思いながらも、耳をそばだてる。
「名前、覚えてるの?」
「たしか……“朝倉”って名乗ってた。大学生だって言ってたけど、実際はどうか分かんない」
その名前に、穂花は息を呑んだ。
(……朝倉、律)
疑いが一気に確信に変わった。
“偶然の出会い”も、“自然な会話”も――全部、計算されたものだったとしたら?
綾は、今まさにその渦中にいるのかもしれない。
「……白雪さんを、止めないと」
口に出すと、身体が勝手に動いていた。
ギルドの裏手、訓練エリアへと急ぎながら、穂花は携帯を取り出す。
連絡先の中から、“神城玲”の名前をタップする。
(お願い、間に合って――)
携帯の呼び出し音が数回鳴った後、ようやく玲の声が返ってきた。
『如月さん、どうしたの?』
「神城くん……お願い、ちょっとだけ聞いて。
白雪さん、たぶん――“惚れさせ屋”に狙われてる」
電話の向こう、玲の足音が止まる。
『……惚れさせ屋?』
「他校の子たちが話してた。
“朝倉”って名前の、大学生を名乗ってた男。白雪さん、最近気になる人がいるって言ってて、ちょっと見えたチャットの名前が朝倉律だったの……」
一瞬の沈黙。その後、玲の声が落ち着いた調子で続いた。
『白雪さんは今どこにいるの?』
「分からない。でも、その朝倉って人と“昨日話す約束をしてる”っぽかった。
まだ間に合うかもしれない。だから……!」
呼吸を整える間も惜しんで、穂花は走る。
そのとき、ちょうどギルドの裏門側――簡易トレーニングエリアの近くで、一人の男子が座り込んでいるのが見えた。
「佐伯くん……?」
その名を呼ぶと、彼は驚いたように顔を上げる。
「如月……さん……?」
顔色は悪く、手元にはくしゃくしゃに握られた紙切れがあった。
穂花が駆け寄ると、佐伯はぽつりと、口を開いた。
「俺……やっちまった。白雪さん、たぶん今、騙されてる……
本当は、俺の依頼で……律が白雪さんを惚れさせて……告白させるはずだったのに……!」
その声は、後悔と焦燥に満ちていた。
穂花の表情が険しく変わる。
「話して。全部――今すぐ」
そして次の瞬間には、彼女の後ろから静かに歩いてきた玲が、佐伯の隣に腰を下ろしていた。
玲の眼差しは冷静だったが、その奥には見逃さぬように燃えるような鋭さがあった。
「……話すよ、全部」
佐伯拓也は、握りしめていた紙切れを差し出した。
そこには、“依頼内容”と、“報酬条件”が箇条書きで記されていた。
丁寧すぎる文面。手書きではない。テンプレートのような雛形。
その最上部には、“惚れさせ請負業:A.L.”のロゴが控えめに印刷されていた。
「俺、ただ……誰かに好かれたかっただけなんだ。
白雪さんを見てると、眩しくて。遠すぎて。……だから、俺のこと好きになってほしかった」
「それで……惚れさせ屋に依頼したの?」
穂花の問いに、佐伯はこくりと頷く。
「でも……あいつ、律は……“俺に惚れさせる”って言ってたのに……
今は、完全に自分のためにやってる。白雪さんから告白を引き出して、自分がスキルを得ようとしてるんだ」
玲は、黙って聞いていた。
佐伯の顔が歪む。
「俺、馬鹿だったよ。なんか、どうでもよくなってきてて。
白雪さんが、あいつに惚れそうになってるの見て、やっと気づいた……俺、何やってんだって」
玲は立ち上がった。
「白雪さんは今どこだ」
「たぶん、町外れの公園。昨日、“明日で依頼完了だよ”って、律が言ってた……」
それだけで充分だった。
玲は穂花と目を合わせる。
「行こう」
2人は即座に駆け出していた。
***
その頃、綾は部屋で服の裾を整え、出かける準備をしていた。
(おかしいな……ただ話すだけなのに、なんでこんなに緊張してるんだろ)
何度もスマホを確認しながら、律からのメッセージを思い返す。
《今日はきっと、大事な一日になると思う》
──たった一行。それだけなのに、妙に引っかかる言葉。
(“大事な一日”って、どういう意味……?)
心臓が、ほんのわずかに早くなる。
昨日までは、ふわりとした好意の兆しだった。
けれど今日は違う。何かが、はっきりと“向かってくる”気配がする。
(……まさか、告白される、とか……?)
考えた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
好きなのかどうか、自分でもまだわからない。
ただ、律の言葉が嬉しかったことは事実で――
それが、綾の慎重な足を“向かわせる理由”になっていた。
自室を出て玄関を開ける直前、綾は一度だけ深呼吸した。
(大丈夫。……話すだけだから)
小さなつぶやきと共に、夕暮れに染まる街へと足を踏み出した。
その背中が向かう先に、予想もしない“断絶”の瞬間が待ち受けていることなど、まだ知らずに。