第9話 惚れさせ屋②
朝の光が斜めに差し込む駅前の階段。
制服姿の白雪綾は、普段通りのテンポで登校していた。教科書を詰め込んだバッグの重みと、少しだけ眠気の残る頭。日常の、いつも通りの一コマ……になるはずだった。
カツン――
ヒールのような音が階段に響いた刹那、綾の足が一瞬もつれた。
寝不足か、それとも昨日のダンジョン探索の疲れが残っていたのか。わずかな段差に足を取られ、体がふらつく。
「危ない!」
背後から伸びた腕が、絶妙なタイミングで彼女の肩を支えた。
「……っ、ごめんなさいっ!」
綾が慌てて体勢を立て直し、顔を上げる。そこには、昨日書店で本を手渡してくれた青年の姿があった。
「大丈夫?びっくりしたよね。足、ひねってない?」
「いえ……たぶん……大丈夫、です」
青年――朝倉律は、心配そうに覗き込んでくる。その表情は真剣で、どこか優しげだった。
「最近、怪我しやすい子にはよく縁があってさ。偶然だけど、助けられてよかった」
「……ありがとうございます」
自然にお礼の言葉が出た。律は「それじゃ、気をつけてね」と言い残して、また人波に紛れて去っていった。
綾はその背中を、しばらく見送っていた。
(……また、あの人)
偶然にしては二度目。それも、ピンチの瞬間に限って現れる。
普通なら不審に思うべきかもしれない。けれど、彼の言動にはどこか安心感があった。
(本当に、ただの偶然……?)
綾は首をひねる。わからない。ただ、気持ちのどこかが、彼の存在を“心地よい”と受け止めているのを、自覚していた。
***
放課後、玲、穂花、綾の3人はギルドのサブフロアにいた。
「今日は軽作業任務だったけど、疲れたね〜」
穂花がストレッチをしながら言い、綾は頷いた。
「でも、こういうのも悪くないな。戦闘じゃない分、気持ちに余裕があるというか」
「うん、特に怪我もなかったし」
玲はメモ用紙を見ながら、淡々と報酬申請を済ませている。
「神城くん、処理早いよね。そういうの得意?」
「効率よくやるのが好きなだけかな」
いつもの玲の口調。けれど、それに綾がクスッと笑ったのを見て、穂花が軽く目を見開いた。
「白雪さん、今ちょっと笑った?珍しいかも」
「……そう?」
綾はわずかに視線をそらす。
穂花は玲に目配せしながら、少しだけ茶化すように言った。
「なんか最近、白雪さん……柔らかくなってきたよね?」
「……そんなこと、ないと思うけど」
本当にそうだろうか、と綾自身が考えていた。
あの青年の姿が、また脳裏をよぎる。あのときの声、表情、距離――
(……こんなに誰かのこと、気にするのって)
自分にとっては珍しいことだった。恋愛に興味がなかったわけではない。けれど、告白すれば自身のスキル枠が1つ減る。
そう思えば思うほど、恋をすること自体が「損をする行為」に思えて、無意識に踏みとどまっていた。
でも、あの青年には……そんなこと、あまり考えなかった。
「白雪さん、帰り寄り道する?」
穂花の声がして、綾はふと現実に戻る。
「ううん、今日はそのまま帰る。少し疲れてて」
「そっか。じゃあまた明日ね!」
2人と別れて歩き出す綾の背後では、いつのまにか同じ帰路を歩いている影があった。
人混みに紛れ、視線だけが彼女を追っている。
朝倉律は、次の仕掛けを思い描いていた。
(明日は“落とし物”にしよう)
誰にも知られず、誰の記憶にも残らないように。
それでも、確実に――心に“残る”接触を。
それが、彼のやり方だった。
***
翌日の午後。下校時刻を少し過ぎた校門前の歩道で、白雪綾は鞄から手帳を取り出そうとして、指先にわずかな違和感を覚えた。
(……あれ? ペンが、ない)
いつも使っている万年筆。名前入りで、父から中学卒業の記念にもらった大事な一本だった。
慌てて鞄の中を探るが見当たらない。制服のポケットにもない。焦りかけたそのとき――
「これ、落とした?」
背後から声がした。
振り返ると、またしてもそこには、あの青年――朝倉律が立っていた。
「……っ、それ……」
「駅の階段で拾ったんだ。たぶん、君のだよね?」
律は万年筆を大切そうに持ち、傷一つつけず差し出してくる。綾は思わず息をのんだ。
「ありがとうございます……これ、大事なもので……」
「そうなんだ。じゃあ、間に合ってよかった」
柔らかな笑み。まるで偶然を必然のように操る人。
(どうして……この人、いつも“ちょうどいいタイミング”で現れるの?)
不審に思う気持ちは、確かにある。
けれど、それを越えてくる“親しみやすさ”がある。
見知らぬ誰かに、ここまで自然に心を開けている自分に驚く。
「よかったら、ちょっとだけ歩かない?」
ふと、律がそんな提案をする。
綾は迷いながらも、数秒だけ沈黙したあと、こくりと頷いていた。
***
一方、放課後の教室で玲と穂花はギルドのログブックを確認しながら、次回の予定を話していた。
「そういえば、白雪さん今日は?」
「ちょっと疲れてたって。先に帰った」
穂花は言いながら、ほんの少しだけ視線を落とす。
「最近、なんか……白雪さん、変わってきたよね。表情が、柔らかくなったっていうか」
「気のせいじゃない?」
「ううん、そうでもないと思う。なんというか、“恋する顔”っていうのかな」
玲は黙っていた。
「ほら、白雪さんって、前は距離感あったじゃない。なのに、最近ちょっとしたことで笑うし……」
そこで穂花は小さく首を傾げる。
「……白雪さん、今誰かに気になる人、いるのかなあ」
***
その頃、河原の小道を並んで歩いていた綾と律。他愛もない雑談をし、綾の冒険者としての活動について話していたときだった。
「神城くんってさ、どんな人?」
ふいに向けられた問いに、綾は一瞬だけ足を止めた。
「……優しい人。冷静で、ちゃんと周りを見てる。危ないときは助けてくれるし」
「そっか」
律はうなずいたあと、ふと視線を外す。
「でも……安心だけじゃ、心は動かないっていうか。
心が動く瞬間って、もっと……予想できないところにあると思わない?」
その言葉に、綾は何も言い返せなかった。
なぜか、胸の奥がざわついた。
──この人の言葉は、時々、心のどこかを突いてくる。
それが、不思議だった。
***
土曜日の朝。
白雪綾は、学校ではなくギルドへ向かっていた。今日は玲と穂花とのE級ダンジョン任務の日。久々の戦闘任務だ。
「白雪さん、準備大丈夫?」
「ええ。最低限のポーションと補助魔法も、問題ないわ」
「神城くんは……あ、もう先に受付済ませてるみたい」
いつも通りのやりとり。けれど綾は、心のどこかに集中しきれていない自分を感じていた。
(……なんでだろう)
思考のどこかに、“あの人”の存在が引っかかっている。声、表情、距離感。
そして、それが“偶然にしては出来すぎている”という事実。
自分は警戒していたはずだ。にもかかわらず――
「白雪さん、右から来るよ!」
「――っ、ありがとう!」
玲の声で我に返り、綾は迫る敵の氷結を発動させる。目の前のモンスターが凍りつき、穂花のバフを受けた玲が素早く斬り伏せた。
戦闘が終わった後、綾は少しだけ息をついた。
「白雪さん、疲れてる?」
「いえ……ただ、少しだけ、考えごとをしていて」
玲はそれ以上聞かなかった。ただ静かに回復用のポーションを差し出してくれた。
(……神城くんは、こういうところが優しい)
説明も求めない。強く干渉しないけれど、必要なときには黙って手を差し伸べてくれる。
(安心する、って……こういうことなのかしら)
けれど、ふと昨日のことが頭をよぎる。
並んで歩いた河原の道。万年筆を手渡された瞬間。あの声。
──安心と、ときめき。
その違いが、わからなくなる。
***
ダンジョン探索を終えた午後。綾は一人で帰路についていた。
その途中、駅前のコンビニに寄ると、ちょうど出てきたところで、また律と鉢合わせた。
「わっ……また会ったね」
彼がそう笑うと、綾は驚いたまま口を開いた。
「こんなに偶然って……あるんでしょうか」
「偶然が重なると、それはもう必然って呼ぶんだよ」
彼の声は軽い。でも、どこか深く刺さる。
「白雪さん、最近よく笑うようになったね。周りの人も、そう思ってるんじゃないかな」
「……そう、かもしれません」
「きっと、いい影響をくれる人が近くにいるんだね」
その言葉に、綾の脳裏に浮かんだのは――穂花と玲の姿だった。
けれど、それに続けて律が言った。
「でも……笑顔の奥にある感情って、いつも一つとは限らないよね」
その瞬間、綾は何も言えなくなった。
言い当てられたようなその言葉に、綾の中でぐらりと何かが揺れた。
(……この人は、どうしてこんなに私のことが分かるんだろう)
たしかに、最近の自分は少し変わった。
けれど、それを“他人に指摘される”と、なぜだか戸惑ってしまう。
「それじゃ、またね。今度は、もうちょっとちゃんと挨拶できる場所で会おうよ」
軽やかな言葉を残し、律は手を振って去っていった。
その背中を見送る綾の手は、ぎゅっと万年筆を握っていた。
──どうして、こんなに胸がざわつくのか。
***
その頃、帰り道の公園ベンチで。
律はスマホに表示されたメモに目を落としていた。
【DAY3:落とし物 完了】
【DAY4:恩の演出(怪我)】→明日:校舎裏の階段予定
指が軽やかに画面をスライドし、次のページへ。
【白雪綾:反応強度A−/警戒心B+/情緒同調性A】
「いいね、感情の揺れがはっきり出てきた」
小さくつぶやいた律の目が、わずかに冷たい光を帯びていた。
***
日曜の昼下がり。人影のまばらな図書館の中で、佐伯拓也はひとり、窓際の席に座っていた。
開かれた参考書の文字はまったく頭に入ってこない。
彼の視線は、数メートル先の席で本を読んでいる白雪綾へと向けられていた。
(……また、笑ってる)
綾は読書をしている最中、ふと微笑んだ。
その顔は、これまでの彼女が見せたことのない、柔らかい雰囲気を帯びていた。
(あれは……あいつのせいか?)
“あいつ”とは、朝倉律のことだ。
依頼して数日。偶然の接触、落とし物、会話の誘導――着実に彼女の心に入り込んでいるのは、佐伯自身も察していた。
(違う。あれは、俺の計画だ。
白雪さんが惹かれてるのは、“俺の仕掛けた流れ”の中なんだ)
そう自分に言い聞かせる。だが、胸の奥で何かがきしんでいた。
(……もし、白雪さんが本当に律に惚れたら)
いや、惚れてしまったらどうする。
告白されたら、律のスキルが顕在化する。
そうなれば、それは“俺の依頼が生んだ”スキルだ。
(俺の功績だ。……そう、だろ)
自嘲するように、唇を引き結ぶ。
だが、認めたくない感情が確かに存在していた。
“自分の仕掛けた誰か”が、
“自分の望まなかった相手”に選ばれること。
──それは、勝ちではなく、ただの敗北だ。
その頃、ギルドの作戦室では玲と穂花が次のダンジョン選定について話していた。
「白雪さん、今日は来られないって?」
「うん、ちょっと体調崩したって。たぶん疲れかな」
穂花は答えながら、机の上に資料を並べる。
「でも、なんとなく……白雪さん、最近すごく“揺れてる”気がするんだよね」
「揺れてる?」
「うん。誰かにときめいてる時って、見たらわかるじゃない。
でも、それと同時に……白雪さん自身も、それに戸惑ってる感じがして」
玲は言葉を返さず、資料の中に視線を落とした。
白雪綾は理性的で、冷静で、真面目で。
けれど、だからこそ――一度“感情”が芽生えると、そこから目を逸らすのが苦手な人間だ。
その優しさと純粋さを知っているからこそ、玲は心の奥で、うまく言語化できない違和感を覚えていた。
(白雪さん、何に戸惑ってる?)
その疑問が、やがて確信へと変わっていくのは、もう少し先のことだった。
***
その夜、自室に戻った綾は、一人ベッドに座り込みながら小さくため息をついていた。
部屋の照明は落とされ、カーテン越しに差し込む街灯の光が、ぼんやりと机の上の万年筆を照らしている。
──あの日、律に手渡されたもの。
何度か手に取り、戻して、また手に取る。
それだけで、心がざわつく。
(私……どうしたいんだろう)
朝倉律は――まるで心を見透かすような目で、そっと感情に触れてくる。
綾は目を閉じた。
自分の中で芽生え始めている“誰かへの好意”が、まだ輪郭を持たないまま、静かに広がっていた。
──そしてその感情こそが、やがてスキルをめぐる運命を変える“引き金”になることを、まだ誰も知らなかった。