第8話 揺れる心、揺れる戦場
──あれは夢じゃなかった。
岩陰に身を潜め、傷の手当てを受けながら、俺は何度もそう自分に言い聞かせていた。
戦場で再会した優奈。
彼女の顔。
その瞳。
その手から放たれた精霊の矢。
全部、現実だった。
「真司、縫合は終わったわ」
リサが包帯を締めながら言う。
「幸い貫通はしていない。筋肉も深くは切れてない。数日で回復するはずよ」
「……ありがとう」
痛みはある。
けど、それよりも胸の奥がずっと痛かった。
リサは何も言わず、俺の横に座った。
「その子が、あんたの“恋人”なんだよね」
「……ああ」
「向こうは、あんたに気づいてたと思う?」
「わからない。でも……あの目を見たら、そうとしか思えなかった」
「なら……なんで撃ったのか、って思ってる?」
「……うん」
リサは少しだけ眉をひそめて、空を見上げた。
「私だったら撃つ。あんたが敵側にいたら」
「……」
「それが戦場。そこに“私情”は、普通持ち込まない。けど……あんたたちにとっては“普通”じゃないのよね」
リサの声は、静かだった。
でもその静けさが、逆に心に響いた。
◇ ◇ ◇
一方──
私は、診療所の裏にある小さな池のほとりに座っていた。
水面に映る月が揺れている。
それを見ながら、私は震える指先を胸元に添えていた。
「真司くん……だったよね」
あの顔を忘れるはずがない。
この世界に来る直前、最後に見たのは、彼の笑顔だった。
私を励ますように、優しく微笑んだ、あの表情。
それが今──敵として目の前に現れた。
あの軍服。
あの銃。
そして、私を見るあの目。
「……なんで、こんなことに」
声が震える。
マリアの言葉が、頭の中で反響していた。
「あなたはもう、“光の巫女”なの。この世界の命を守る者であり、加護の象徴。迷うことなく、導きなさい」
だけど、私は導かれてなどいなかった。
ただ、流されているだけだった。
この世界に来てから、私はずっと他人の言葉に従ってきた。
精霊に救われたからと、精霊連邦に身を預けた。
“光の巫女”に選ばれたと言われれば、断る理由もなく、その役を引き受けた。
人々の前では微笑み、傷を癒やし、祈りを捧げる。
それが自分の役割だと、誰かに言われたからそうしてきた。
でも、それは私の意思ではなかった。
マリアに言われるまま、エレナやリュカスに支えられるまま、私は“誰かの巫女”として動いてきただけだった。
戦争の真実も知らないまま、戦場に送られ、癒やし続ける日々。
心のどこかでは、「これが本当に私のやるべきことなの?」と問いかけていた。
でも、その問いに答える勇気も、自分の道を選び直す強さもなかった。
だから私は流された。
自分で歩くのをやめて、与えられた役目を演じるだけの日々。
“導く者”としてではなく、“導かれるまま”の存在だった。
そんな私が、真司くんと再会した今、何を選べるのか──。
その答えは、まだ出ていなかった。
真司くんが敵にいる。
それが、どういう意味なのか。
それが、私にどういう選択を迫るのか。
私は、何も分かっていなかった。
「……優奈様」
リュカスの声。
振り返ると、彼がそっと膝をついていた。
「体調が優れないのであれば、早めにお休みを」
「……ううん。大丈夫。ただ、ちょっと考えたいことがあって」
リュカスは何も言わず、そばに立ってくれていた。
その沈黙が、ありがたかった。
◇ ◇ ◇
次の日。
俺たちは後退命令を受け、北側の仮設陣地に移動した。
敵の動きが急に鈍くなり、帝国上層部は再編と補給のタイミングと見て、戦線の整理を始めたのだ。
けれど、俺の中では何も整理されていなかった。
混乱していた。
優奈と再会してしまったという現実。
その事実だけが、頭の中で何度もループしていた。
喜びや驚きよりも先にきたのは、困惑だった。
なぜ彼女は精霊連邦にいる?
なぜ、敵として立っていた?
なぜ、あの手から矢を放った?
問いは無数に浮かんでくるのに、答えは一つもない。
思考の中には、再会した彼女の表情が断片的に浮かんでは消えていく。
それが悲しげだったのか、迷っていたのか、冷たかったのか……俺には判断できなかった。
同時に、戦う意味がぼやけていった。
俺は誰と戦っているのか。
この戦いの先に何があるのか。
俺は何のためにこの世界で剣を取っているのか。
戦士として、この帝国に生きることを選んだはずだった。
でも、心の奥にあった“探したい”という想いが、再会した瞬間に現実に突きつけられてしまった。
探したい。会いたい。
けれど、会ったその先は?
戦わなければならない相手になってしまっていた。
そのことが、俺の中の全ての理屈を崩した。
今、自分が何を信じればいいのか分からない。
信じていた仲間たち。
信じてきた帝国。
そして、ずっと心の中で支えだった優奈の存在。
全部が、噛み合わなくなっていた。
頭では理解しようとしても、心が追いついてこない。
だから──何も、整理できていなかった。
「真司、書類書けるか?」
ソフィアが負傷報告の書類を持ってきた。
「……ああ」
手を動かしながらも、心は上の空だった。
戦う意味。
守るべきもの。
そして、再び出会った優奈が、自分をどう見ていたのか。
それを考えるたびに、手の動きが止まりそうになる。
その夜。
俺は一人、見張り塔に登った。
暗い空。
風の音。
そして遠く、精霊連邦の野営地の灯りが、ほのかに見えた。
そのどこかに、優奈がいる。
彼女も、俺のことを考えてくれているだろうか。
あの矢は、彼女の決意だったのか。
それとも、迷いだったのか。
分からない。
だけど、一つだけ確かに感じていることがあった。
あの矢は、俺を殺すつもりのものじゃなかった。
本気でそう思う。
たとえそれが、希望的観測だとしても。
──また会えるなら、次こそ、話をしよう。
たとえ剣を向けられても、俺は、目をそらさない。
そう誓いながら、俺は夜空を見上げた。