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第5話 祈りと命の狭間で

朝靄が、エルミアの森を静かに包んでいた。


淡く光る霧の中、私は静かに歩を進める。

鳥のさえずりが遠くで聞こえ、風が枝葉を撫でるたびに、葉擦れの音が小さな子守唄のように耳に届く。


静かで、穏やか。


だけど胸の奥は、ざわざわとしていた。


診療所に向かう足取りは、いつもよりも重かった。


今日の治療対象者は、前線から急送されてきた重傷者が中心。

通常の傷ではなく、精霊の加護でも癒しきれない深い損傷を負った者が多いという報告が、早朝のうちに届けられていた。


この地に戦の影が近づいている。


それを肌で感じるたび、私は祈りが届く限界を意識させられる。



天幕をくぐると、そこにはすでに複数の担架が並んでいた。


呻き声、短く切れた息遣い、血の匂い。


その全てが、現実を突きつけてくる。


私は深く息を吸い、意識を切り替えた。


「癒しの光よ、命をつなぎとめたまえ……」


両手を組み、目を閉じて精霊に祈る。


足元にひざまずくと、青白い光が私の掌に集まり、傷ついた兵士の胸元へと染み込んでいく。


光が皮膚をなぞり、裂けた肉を縫い、内臓を繋ぎ、血を止める。


でも、それは万能ではない。


意識を失っている兵士の手が、わずかに震えた。


生きようとしている。

それに応えるのが、私の務めだった。



次の兵士は、腹部に深い刺創を負っていた。

周囲の布が真っ赤に染まり、体温の低下が見て取れる。


私は震える手で光を集中させ、傷口に触れる。


けれど、その光が定着せず、すぐに拡散してしまう。


「……お願い、まだ行かないで」


光を強く灯そうとする。

だが、兵士の命が指の隙間から零れるように遠のいていく。


それでも私は、手を止めなかった。


「癒しの光よ、命の契りを再び──!」


声に力を込める。

精霊の名を呼び、心の奥底にある“想い”をすべて捧げるように祈る。


すると、ほんの一瞬、光が強くなり──そして、静かに消えた。


兵士の顔が、安らかに見えた。


でも、それは──もう、帰ってこないということだった。



「優奈様……」


背後から声がした。


振り返ると、エレナが立っていた。

その表情は、いつもと変わらず冷静だけれど、その瞳の奥にはかすかな憂いがあった。


「これ以上は、あなたの身体が持ちません。休まれてください」


「私は、まだ癒せる……。少しだけ、あと一人だけでも……」


「それを繰り返すうちに、あなたが倒れてしまう」


エレナの言葉は正論だった。


でも、私はどうしても目の前の命を見捨てることができなかった。


エレナは一歩前に出て、私の肩に手を置く。


「その想いは、皆に伝わっています。でも今は、あなた自身を守ることも必要です」


私は俯き、ぎゅっと手を握った。

そして、唇を噛んだまま頷く。



天幕の外に出ると、陽光が霧を溶かし始めていた。


空は青く澄み渡り、鳥たちが再びさえずり始めている。


それはまるで、世界が何事もなかったかのような顔をしているようで、私は心の奥に小さな痛みを感じた。



そのとき、リュカスが駆け寄ってきた。


「優奈様、マリア様がお呼びです。中央祈祷の庭にてお待ちとのこと」


「……ありがとう。すぐに向かうわ」


彼は一礼し、静かにその場を離れていった。



マリア──癒しの精霊。

私の力の源でもあり、導き手でもある存在。


でも、最近の彼女の言葉には、どこか冷たさと距離を感じる。


私の祈りに迷いが生じているせいかもしれない。


それとも、彼女の中に変化が生まれているのだろうか。


──それにしても、どうしてマリア様は、あの診療所に姿を見せないのだろう。


彼女が本気を出せば、私よりも遥かに強い力で癒せるはずなのに。


一度でいい、あの手で命を救おうとする姿を見てみたいと思ってしまった。


その考えが不遜だとわかっていても、心のどこかで、納得できない気持ちが消えなかった。



祈祷の庭は、樹々に囲まれた円形の広場で、中央には精霊の石碑が立っていた。

その周囲を取り囲むように、低い石段があり、精霊使いたちが瞑想や儀式を行う場所として使われている。


私はゆっくりと歩みを進め、中央に立つマリアの姿を見つけた。


彼女は背を向けたまま、静かに立っていた。


青い髪が風に揺れ、純白の衣が光を反射して淡く輝いている。


「優奈、来てくれてありがとう」


「……お呼びでしたか?」


マリアはゆっくりと振り返る。

その瞳は、相変わらず澄んでいて、何も映していないようにも、すべてを見透かしているようにも思えた。


「今日も、多くの命が癒されたわ。あなたの祈りが届いた証拠よ」


「でも……救えなかった命もありました」


「それも、また自然の流れ」


マリアは微笑みながら、私の手を取った。


「大切なのは、あなたがそれでも祈りをやめなかったこと。命が尽きる瞬間まで、誰かが手を差し伸べる──それが、この世界に残された、わずかな優しさなの」


私はその言葉に、少しだけ救われた気がした。


でも同時に、その言葉の奥にある“諦め”のような響きが、胸の奥に引っかかった。



本当に、それでいいのだろうか。


私たちは祈るだけで、充分なのだろうか。


この手で命を繋いでいくことに、限界があるのだとしたら──

私は、何を信じて進めばいいのだろう。



精霊の風が、髪を揺らした。


私は目を閉じて、もう一度だけ、心の奥で問いかけた。


──真司くん。


あなたは、今どこで、何と戦っているの?


あなたのそばにも、誰かの祈りが届いていますように。


私の祈りが、届きますように。

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