第3話 戦士と巫女の記憶
訓練場の片隅、俺は握ったままの木剣を見つめていた。
ふと、優奈の名前が脳裏をよぎる。
ここに来てから、彼女の姿を一度も見ていない。
本当に彼女もこの世界に来ているのだろうか。
それとも──もう、いないのだろうか。
そんな不安が、何度も頭をよぎる。
目を閉じれば、最後に見た彼女の笑顔が浮かぶ。
優しかった声。
温かい手。
すべてが、もう二度と触れられないもののようで、胸の奥が締めつけられる。
俺は剣を握り直した。
ここで立ち止まるわけにはいかない。
いつか、彼女を見つけ出すためにも──
今の俺にできるのは、訓練を重ね、生き抜く力をつけること。
それだけだ。
今日の訓練は、どこか気持ちが入りきらなかった。
記憶は、静かに過去へと遡っていく。
──まだ、俺たちが同じ世界にいた頃。
優奈と過ごした、あの平凡で、何気ない日々。
朝の通学路で、彼女が必ず一歩前を歩いては、時々振り返って微笑む。
その笑顔を見たくて、俺は毎朝ほんの少しだけ早起きするようになった。
昼休みになると、彼女は自作の弁当を広げて、隣の席にそっと置いてくれる。
「食べすぎ注意だよ?」なんて笑いながらも、デザートは俺の好物を必ず入れてくれていた。
雨の日、二人で一つの傘に入って歩いた帰り道。
彼女の肩が濡れないようにと傘を傾けたら、「真司くん、こっちまで気にしてたら、自分が風邪ひくよ」と少しむくれた顔で言われた。
その後、彼女がくしゃみをしたとき、俺の胸の奥が少しだけ痛んだ。
そんなささいな時間の積み重ねが、俺にとっては宝物だった。
何気ないやり取りのすべてが、優奈との絆を深めていた。
あの時間に戻れるなら、何度でも同じ日々を繰り返したいと、今でも思っている。
彼女はよく笑う子だった。
少しだけ天然で、けれどまっすぐで、どんなときも人のことを思いやれる子だった。
ある日、彼女は嬉しそうに紙袋を抱えてやってきて、俺の前に突き出した。
「ねぇ、真司くん。これ、見て。珍しい紅茶の葉、見つけちゃった」
正直、俺は紅茶の味なんてよくわからなかった。
でも、彼女が嬉しそうに淹れてくれるなら、どんな味でも好きになれる気がした。
放課後の教室。
カフェの隅。
駅前の小さな公園。
何でもない時間が、全部特別だった。
彼女の隣にいることで、世界が柔らかくなった気がしていた。
「ねぇ、真司くんはさ……」
夕暮れの歩道橋で、制服姿の彼女がぽつりと口を開いた。
「もし、世界が全部ひっくり返ったら、私のこと、探してくれる?」
唐突な問いだった。
理由も前触れもなく、まるで未来を予感していたかのような、その言葉。
俺は少し困ったように笑って、言った。
「何それ。……そんなの、当たり前だろ」
「ふふっ、よかった」
彼女はそう言って、安心したように微笑んだ。
あの笑顔は、今でも俺の記憶の中で、鮮やかに残っている。
──まさか、あれが最後になるなんて。
あの日、空が裂けた。
街が揺れ、人々の叫びが響く中、光が降ってきた。
気づけば、俺は知らない大地に倒れていた。
アークメカ──鋼鉄と蒸気の都市。
俺が今、戦士として所属している機械帝国。
そして、そこに彼女はいなかった。
俺は必死に探した。
あの時の光に呑まれたのなら、きっと彼女もどこかにいるはずだと。
だが、いくら探しても、手がかりはなかった。
……いや。
本当は、どこかで諦めかけていた。
この世界で生きる術を覚えていくうちに、優奈のことは遠い夢のようになっていた。
でも、それでも──心の奥のどこかで、探し続けていた。
あの笑顔に、嘘はなかったから。
あの約束だけは、守りたかったから。
「真司、次の訓練、始まるぞ!」
遠くから、カインの声が響いた。
「……ああ、今行く」
木剣を背負って、俺はゆっくりと立ち上がる。
もう後戻りはできない。
でも、俺の中には、確かにあの日の約束が生きている。
それだけは、絶対に忘れない。
一方、その頃──
私は、静かに古い日記帳を閉じた。
診療所の片隅、夕暮れの光が差し込む小窓の下。
薄れかけたインクで綴られた文字たちは、あの日の私の記憶。
「ねぇ、真司くん。もし世界が全部ひっくり返ったら──」
何度読み返したかわからない。
その一文だけが、今の私を支えてくれていた。
私はこの世界で“光の巫女”として祈りを捧げる役目を担っている。
精霊たちの加護を通じて、人々を癒し、導く存在。
でも、本当の願いはただ一つ。
彼がどこかで生きていると、信じたい。
祈りの意味。
癒す理由。
それらの根底には、あの日交わした小さな約束がある。
「真司くん……あなたも、この空の下にいるのなら」
私はそっと胸元のペンダントを握る。
それは、彼からもらったガラスのペンダント。
小さな気泡が中に閉じ込められていて、陽に透かすと七色に光る。
何の変哲もない、小さなお守り。
けれど、私にとっては、彼と繋がっていた証そのものだった。
「私も、あなたを探してる」
空に浮かぶ星々は、遠く、静かに瞬いていた。
私の祈りが、あの空のどこかにいる彼へと届きますように。
──いつか、もう一度、あの笑顔に会えますように。