第2話 光の巫女
朝露がまだ草を濡らす森の中、私は目を覚ました。
木漏れ日が揺れる天幕の中、静かに呼吸を整え、ゆっくりと上体を起こす。
──ここは、精霊連邦エルミア。
加護に満ちたこの地は、傷を癒し、魂を潤す清らかな空気に満ちている。
エルミアの街並みは、自然と調和するように築かれていた。
鋼鉄と蒸気の都市アークメカとは正反対の、木と水と風に包まれたこの場所では、建物の多くが大樹の根元や岩場の上に建てられていた。
人工物さえも自然の一部に見えるよう工夫されていて、目に映るすべてが柔らかく、穏やかだった。
石畳の小道には苔が生え、道端には精霊を祀る小さな祠が点在していた。
そこに咲く花々は季節ごとに違う色を見せ、風にそよぐ草木の音が、まるで街そのものが生きているかのような錯覚を与える。
水路が張り巡らされ、清らかな水が街全体を潤している。
小さな水車が回り、子どもたちが手を浸して遊ぶ姿がよく見られた。
水面に映る光の揺らめきには、見えない精霊が潜んでいると信じられている。
建物はどれも高くない。
木の枝を利用した二階建ての家が多く、壁は蔦で覆われていることが多かった。
どの家にも必ず一つ、祈りの窓と呼ばれる小さな窓があり、そこから朝夕に精霊へ祈りを捧げる。
街の中心には「祈樹」と呼ばれる巨大な聖なる樹がそびえ立ち、その根元には癒しの泉が湧いている。
私が初めて祈りを捧げたのも、この泉だった。
朝になると、泉の水を汲む人々の列ができる。
皆、静かに順番を待ち、掌を重ねて祈りを捧げたあと、水を汲む。
精霊の気配が常に感じられるこの地では、誰もが“生かされている”という感覚を強く持っていた。
力を誇る者も、言葉巧みに人を動かす者も、精霊の前では一人の命にすぎない。
争いの火種が外で燃えていようとも、エルミアの中ではなるべく争いを避け、互いに支え合うのが当たり前だった。
街の空気には微かな香草の匂いが混じっていた。
香は癒しと浄化のために焚かれているもので、それが風に乗って広がると、心のざわめきさえ静かになっていく。
私は、この街に救われた。
そして今、この街のために祈る者として生きている。
それでも、心は安らがなかった。
私はこの世界に来て、もう一年になる。
転移した直後、森で倒れていた私を助けてくれたのは、青白く光る小さな精霊たちだった。
彼らは言葉を持たず、ただ温かな光で私の体を包み込んでくれた。
そのとき私は理解した。
──私はもう、元の世界には戻れない。
そして、ここで生きていかねばならないのだと。
「光の巫女さま、お目覚めでしょうか?」
声に振り返ると、天幕の入口に立っていたのはエレナだった。
赤髪を後ろで結った凛々しい女戦士で、私の護衛役を務めてくれている。
「ええ、ありがとう。すぐに支度するわ」
私は寝台から降り、着替えを整える。
巫女服は、精霊の加護を受けた布で織られており、触れるだけで心が静まる。
けれど、何度着ても慣れない。
これを着るということは、誰かの命を預かるということ。
今日も、また誰かが傷つく。
私が癒さなければならない誰かが。
村の診療所に向かうと、すでに人々が列を作っていた。
片足を失った戦士。
火傷を負った少女。
毒に侵された農民。
精霊連邦の民は、皆この戦乱の中で懸命に生きている。
私は祈る。
両手を重ね、そっと傷口に触れる。
「祈りの光よ、導きたまえ──」
指先から光が広がり、傷を癒していく。
癒しのたびに、私の中の精霊の力は少しずつ減っていく。
それでも、私は止めることはできない。
それが、私の役目だから。
その日、いつも以上に重傷者が多かった。
ある戦士は、両腕を失っても笑っていた。
「巫女さまの祈りを見られた。俺の命、もう悔いはない」
──そんなの、望んでなんかいない。
私は、誰の命も失わせたくないのに。
疲れ切って天幕に戻ると、マリアが待っていた。
彼女は透き通るような白い肌に、肩まで届く淡い青髪を持つ少女の姿をしていた。
その髪はまるで月光を溶かしたかのように輝き、静かに揺れるたびに精霊の粒子が舞うようだった。
瞳は深い蒼色で、見つめ返すと吸い込まれそうになる。
けれど、その美しさの奥には、底の見えない深淵がある。
細身の身体を包む純白の衣は、常にかすかに揺らめく癒しの光を帯びており、彼女の周囲には穏やかな気流が絶えず流れていた。
それはまるで、彼女の存在そのものが傷を癒し、心を包み込む“癒しの精霊”であると、世界が認めているようだった。
一見すれば幼くも見えるが、その佇まいと話し方には、何百年もの時を越えてきた者だけが持つ静かな威厳があった。
「お疲れ様、優奈。今日もたくさん癒したのね」
「……ええ。でも、私の力では限界があるわ」
「命は巡るものよ。たとえ救えなくても、次に生きる命がある」
マリアの言葉はいつも不思議だった。
優しいのに、どこか冷たい。
その“次に生きる命”の中に、あの戦士の笑顔は含まれていないのに。
「……本当に、これでいいのかしら」
思わず漏れた私の呟きに、マリアは微笑んだ。
「あなたは素晴らしい巫女よ。だからもっと、自分を信じて」
それは慰めか。
それとも指示か。
私は何も答えられなかった。
その夜、私は一人で空を見上げた。
遠い星が瞬くこの世界で、彼がどこかで生きているのなら──。
私の祈りは、いつか彼に届くのだろうか。
精霊の光が、彼をも包んでくれるだろうか。