プロローグ:戦場で出会う二人
焦げた土の匂いが鼻を突いた。
崩れた砦の壁面から吹き抜ける風が、熱気と血の臭いを運んでくる。
俺は、剣を構えたまま動けずにいた。
敵の軍勢が迫る。蒸気を噴き上げる鋼鉄の巨兵。
その背後に続く無数の戦士たち。
対するは、精霊の光をまとう騎士たちと、風に舞うように矢を放つ弓兵たち。
そして、その中央に──彼女がいた。
見間違えるはずがなかった。
あれは、優奈だった。
胸が締めつけられる。
この世界に来て以来、何度も夢で見た顔。
もう二度と会えないと思っていた、愛しい人。
それが、いま。
敵の軍に立ち、加護の光に包まれて、まっすぐにこちらを見ている。
「……優奈?」
思わず漏れた声は、砕けた瓦礫に吸い込まれていった。
彼女の唇が何かを動いた。
だが、戦場の喧騒にかき消されて、俺には何も聞こえない。
それでもわかる。
彼女も、俺を見ていた。
確かに。真っ直ぐに。見つめ返していた。
その瞬間、剣を握る手に迷いが生まれる。
切り裂くべき相手が、かつての恋人だったという現実。
脳が、心が、全力で拒絶していた。
だが──戦場に情けはない。
俺の背後から、仲間の叫び声が飛んでくる。
「真司! 前へ!」
前線が押し上げられる。鋼の巨人が大地を砕き、砲火が大気を引き裂く。
同時に、あちらでも。
精霊の導きを受けた騎士が剣を振るい、風の刃が弧を描く。
優奈もまた、精霊の力を解き放ち、負傷兵を癒していた。
その姿には、かつての彼女の面影があった。
優しく、温かく──けれど今は、「敵」として立っていた。
俺は、踏み出せなかった。
剣を下ろすことも、振るうこともできず、ただ、その場に立ち尽くしていた。
その時、カインの声が響く。
「どうした、真司! あいつ、知り合いか?」
いつもの軽い口調だった。
だが、その裏にある冷たい観察眼を、俺は知っている。
俺は言葉を返さず、歯を食いしばって剣を下ろした。
彼女に向かってではない。
敵でもない。味方でもない。
俺にとって、優奈は──まだ、「愛した人」だったから。
刹那。
彼女もまた、俺と同じように動けなくなっていた。
風に舞う巫女服が、まるで彼女の迷いを示すように揺れていた。
精霊の加護を受けてなお、彼女の心は揺れていた。
そのことが、痛いほど伝わってくる。
だが。
それを赦さぬのが、戦場だった。
背後から誰かが叫ぶ。
「光の巫女様、下がってください!」
同時に、味方の砲撃が彼女のすぐ傍で爆発する。
俺は反射的に動いた。剣を握ったまま、彼女との間に一歩踏み出す。
けれど──その足は、すぐに止まった。
彼女の隣に、赤髪の戦士が立ちはだかった。
護衛だろう。冷たい目でこちらを睨みつける。
そして、彼女が小さく、首を振った。
「……だめ」
唇がそう動いたように見えた。
それは、彼女の意思だった。
自らの立場を選び取った、覚悟の証。
俺は剣を構え直す。
彼女を、否定しないために。
たとえ敵であっても、心を汚したくはない。
それが、俺にできる唯一の誠意だった。
砲声が再び響いた。
空が赤く染まり、硝煙がすべてを覆う。
彼女の姿は、もう見えなかった。
──これは、戦争だ。
──そして、これは、運命だ。
かつて愛し合った二人が、敵として再会する物語。
すべての始まりは、この戦場だった。