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花屋の案内人

どうして人はお片付けなんてしないといけないのだろう。

そんな考えてもしょうがないことを考えながら、私は本棚を整理していた。本棚とはいえど、それはもう本棚としての役割を果たしてなく、風邪薬と仕事で使った資料が散乱しているだけの、ただの物置だった。


実は、そんなみっともないズボラな私が片づけなどという奇行に走ったのには訳がある。

今日は、二年間片思いだった彼氏が初めて家に来る日だった。


きっと世の中にありふれた、ありきたりな言葉だって事はわかってる。けれど、彼は私にとって、もう二度と現れない一人だけの大切な人だった。


幸せな気持ちと、片付けに対する憂鬱さを混合させながら、手を動かしていると、早速片付けに飽きてきた。

学生時代、私は定期テストの勉強をするたびに、片付けをしたい欲求に駆られていたが、社会人になってからは、そんなことはなくなった。


椅子に足を乗せ、一番上の棚を覗いてみると、そこには数冊の懐かしい本が置かれていた。


一番左に置かれた、ホコリが一際被っていない本が私の視界に入った。そういえば、この本は私と彼を結びつけた、大切な宝物だった。



二年前、まだ高校を卒業したばかりの私は、家業である生花店を手伝っていた。代々続くこの店の当主である父が、最近は体の調子が悪く、店に出られない日々が続いていた。


私は正直、この仕事は気が進まなかった。この過疎化した街ではすっかり客足も途絶え、私は暇を持て余していた。

淡々と同じことを繰り返す毎日に飽き飽きとしていた。学生時代の刺激ある日々を何度も反芻していた。

人はよく過去を美化してしまうことは知っていたが、日々の退屈さは今までにはなかった”憂鬱”さを私に感じさせた。


そんな変わらない景色を傍観していたある日、一人の男性客が店を訪れた。

彼は私に「あなたは何の花が好きですか?」と突然尋ねてきた。

私はすっかり動揺してしまい、たまたま視線の先にあったカーネンションを指差し、「カ、カーネーションです」と答えた。


彼は言われた通り赤いカーネーションを手に取ると、「これをください」と財布を取り出しながら言った。




その日以降、彼は定期的に店を訪れるようになった。最初は接客の一環として、この店の歴史や花についての雑学を語る程度の関係だった。


「うちには置いてないんですけど、青のカーネーションも実は存在するんですよ」

私がそう言うと、彼は首元のネクタイを緩めながら、目を大きく開いた。


「そうなんですか、それはさぞかし綺麗でしょうね」

彼は笑顔でそんな事を言うと、黄色いカーネーションを手に取り、財布を取り出した。


「季節が移ろってきましたね」

彼は店の前を埋め尽くす桜の花びらに視線を送りながらそう言った。そうか。もうそんな季節がやってきたのか。


「はい、私がここで働き始めてからもう一年が経ってしまいました」

私はこの一年間の出来事の追憶に浸った。頭に浮かぶのは、いつも姿を変える事のない花びらばかりだった。


私はこの一年、ほとんど店の外に足を向けませんでした。この店だけで世界を見てるんです」

私は彼にとってはどうでもいい愚痴を溢した。私は本当に狭い世界に住んでいた。私を包む花の匂いは、この世界について何も教えてくれなかった。


「もっと広い世界に行きたいんですか」

彼はレジの前に置いてある椅子に腰を下ろしながらそう尋ねた。

”広い世界”私はもっと色々な人と話をして、もっと色々な場所に行きたいのかもしれない。


(あかね)さん、今度の土日空いていますか」

彼の突然の質問に私は思わず目を丸くしてしまった。けれど、そんな困惑を取り除いてみると、やっぱり私は嬉しかった。


「はい、空いています」

私は笑顔でそう言った。彼も安堵の表情を見せ、スマホの画面を覗いた。


「ここから車で二十分くらいの所にある植物園でイベントがあるんです。桜がすごく綺麗で、よかったら一緒に行きませんか」

彼は誠実な口調でそう言った。私は彼の仕事も、家も、年齢も知らなかった。けれども、私はどういう訳か彼に対して、新しい世界へ連れて行ってくれるような神秘的な思いを抱いていた。


「楽しみにしていますね」

私がそう言うと、彼は白い歯を見せて微笑んだ。




私は根からの馬鹿だった。こんな大事な日に、なんとスマホを家に置き忘れてしまったのだった。

幸い、それに気がついたのは家を出てから歩いて五分ほどで、大きな遅刻は回避できそうだった。


彼との待ち合わせ場所は店から歩いて十分ほどの場所にある、小さな駅前のロータリーだった。私は十分ほど遅刻してしまう事を知らせるために、スマホの電話アプリを開いた。

連絡先のリストに表示された橋本優斗(はしもとゆうと)をタップすると、すぐに電話は繋がった。


「大丈夫ですよ、ゆっくり来てくださいね」

彼のその声を聞いて、私はほっと安心した。それと同時に、とても誠実な人だなと思った。




ホンダのSUV車に乗り込むと、そこには私たち二人だけの世界が広がっていた。


「僕も今向かっている場所に行くのは二十五年ぶりなんです」

彼は笑顔でそう言った。ふと彼は何歳なんだろうと思い、「その時は何歳だったんですか」と尋ねてみた。


「まだ三歳でした。両親と姉に連れて行ってもらったんです」

意外だった。二十八歳でこんな立派な車を持ち、貫禄を備えているのか。


「そうだったんですね、お仕事は何をされているのですか」

今更だとは思うが、とても気になったので尋ねてみた。


「借金取りです」

彼は真面目な顔でそう答えた。


「え」

私は思わず困惑した声を漏らしてしまった。


「冗談です、金融業をやっています」

彼がそう言うと、車内は大きな笑いで包まれた。彼のお茶目な姿を初めて見ることができて、嬉しかった。




植物園に到着し、車から降りると、いつもと似通ったようで似つかない素敵な匂いが私を包んだ。


「ゆったりとした空気ですね」

彼は深呼吸をしながら遠くの方を見ていた。私も彼と同じ方向へ視線を向けると、そこには桜並木が顔を覗かせていた。





入場料を払い、園内に入ると、そこには普段、私を包む花々とはまた違う面子が私たちを出迎えてくれた。


「鮮やかですね、あれは何ていう花ですか」

彼が指を指した先には、赤、黄、オレンジと鮮やかな色彩が広がっていた。


「ガーベラだと思います」

そういえば、こんな風に、花のお陰で心が活気立つのは何年ぶりだろうと思った。


「ガーベラですか、聞いたことがあります。昔家の花壇に咲いていました」

私たちは何気ないことを話ながら、小さな命を眺めていた。

私たちを包み込む花々の香りと空気感は、いつもの味気ないモノクロの日常とは対照的に、私の心に鮮やかな彩りを与えてくれた。


しばらく歩くと、駐車場から見えた桜並木の入り口に到着した。日曜日だが人影は少なく、静かな空気が漂っていた。


「ここは二十年前から変わらないな」

彼は桜を眺めながらそう言った。ふと彼は子供の頃どんな姿をしていたのだろうと気になった。


「私は桜をまじまじと見るのは本当に久しぶりです。学生の頃、よく校舎前に生えていた桜の木を目にしていたのが懐かしいです」

卒業以来、高校の方へは一度も行っていないが、あの桜の木は今年も立派に花を咲かせているのだろうか。


「茜さんは高校時代、どんな青春を過ごしていたんですか」

彼は一旦桜から目を逸らし、私の目を見てそう尋ねた。


「高校生の時は毎日新しいことがあって本当に楽しかったです。特に部活でバレーボールやってたんですけど、それは本当に一生の思い出になりました」

私はこの一年間、何度も何度も高校生の時の思い出の追憶に浸っていた。まるで花屋に閉じ込められるにして過ごした一年。けれども、今日、彼はそんな私を外に連れ出してくれた。


私たちは本当に何気ないことを沢山喋った。休日の過ごし方とか、好きな歌手とか、緊張した時の対処法とか。

こんな風に人と思い思いに話すのは久しぶりだった。高校時代の友達は大学に進学して遠くに住んでいる人や、働き始めて毎日忙しい人もいて、とても相手にしてくれるような感じではなかった。


単純で、平凡な思いかもしれないけれど、私は彼と話していると本当に楽しかった。

そんな気持ちで歩いた桜並木は、案外すぐに終わってしまった。

桜並木が途絶えた場所には、屋台が立ち並ぶ広場があった。私たちはそこで、昼食をとることにした。


「優斗さんはなんで私を誘ってくれたんですか」

私はたこ焼きを頬張りながら、少しだけ立ち入った質問を彼に投げかけてみた。


「それは…そうですね」

彼は考え込むようにして頬を緩ませた。


「茜さんのお店の花は本当に綺麗です、そんな店の主である茜さんと一緒に、選り取り見取りの花を見てみたかった。そんな理由じゃ駄目ですか?」

彼は少し照れたような笑顔でそう言った。

彼のそんな優しい言葉を聞き、私は思わず陶然とした思いになってしまった。



彼は私に沢山の新しい世界を見せてくれた。

あの植物園にはきっと毎日沢山の人が訪れるのだろう。小さな命を眺め、人それぞれ何か思うことがあるに違いない。


私は何を思ったのだろう。


うまく言葉にできなかった。普段、花に囲まれて生活している私にとって、改めて"花"、もしくは"小さな命"について考えるいい機会となった。

そんな機会を与えてくれたのも彼のおかげだった。


あれから何週間か経った後、彼はまた私を外の世界へ連れ出してくれた。行き先は水族館だった。


「この子はどんな気持ちで僕を見ているのだろう」

彼はマンボーと視線を合わせながら、そんな事を言った。


「きっとこの子も同じ事を思ってるんじゃない?この男は何を考えてるんだろうって」

私が思いつきでそんな事を言うと、彼は笑いながら、「だとしたら僕たちは一緒だね」と囁いた。


水の中を彷徨する彼らは、花とはまた違った。花のように彼らは静寂を保っているが、決して矜持を持ってそこにいるわけではなさそうだった。


私は花と魚の違いをうまく説明できなかった。彼なら何か、賢い言葉を知っているのだろうか。




「綺麗ですね、空はどこまで続いてるんだろう」

彼は山中にある拓けた原っぱで、街を見下ろしていた。季節は移ろいに移ろい、私たちは紅葉を見にハイキングに来ていた。


「優斗さんはどこまで続いていると思うの?」

私は単純な好奇心を彼にぶつけてみた。私たちの視線の先には、街の終わりまで続く青い空があった。


「僕は…どこまでも続いてればいいなと思う」

彼は一旦目を閉じてからそう言った。きっと彼の頭の中には"地球は丸い"だとか、"空は宇宙"だとか、そんな雑念はないのだろう。


「私もそう思う、どこへ行っても空があると広い気持ちになれる」

"広い気持ち"そう口にしてみた後、不思議と彼への感謝の気持ちが湧いて出てきた。

彼と出会う前、私は本当に狭い気持ちを抱えていた。



季節は移ろいに移ろいに移ろった。

あの日、彼が初めて私のお店に尋ねてきた時から二年が経った。


彼とは、私が知らなかった沢山の場所に行った。


花屋に幽閉されていた私を外に連れ出してくれた。


最初は彼の事を私の人生の案内人(ナビゲーター)だと思っていた。


彼は、ただ親切で私を外に連れ出してくれていると思っていた。


この日、とある本を彼から渡されるまでは。



この日も私はただ、ぼーっと花を眺めていた。

何を考える訳でもなく、花の香りを感じながら、一人でモヤモヤとした空想に浸っていた。


そんな時、店の入り口にある横開きの扉を開ける音がした。

「いらっしゃいませ」

私は空想に浸るのを中断し、接客にあたることにした。


「こんにちは」

椅子から腰を上げ、店の入り口の方へ向かうと、そこには彼の姿があった。


「あれ、久しぶりだね」

そういえば、ここ最近、彼は店に顔を出していなかった。


「うん、最近は忙しかった」

彼はいつもの優しい表情でそう言った。


「お疲れ様、なんか飲む?って言っても緑茶しかないけど」

今日、朝見た天気予報では最高気温三十二度と表示されていた。


「大丈夫、ありがとう」

彼は表情を崩す事なくそう言った。なんとなく今日の彼は少し堅苦しかった。


「カーネーションはいつも見ても綺麗だな」

彼は店に理由もなく置いてある小さな椅子に腰を下ろしてそう言った。


「自然が作り出したものとは思えないですよね」

私も彼と同じくカーネーションが好きだった。


「茜さん、実は読んで欲しい本があるんだ」

少し間を空けてから、突如として彼はそう言った。


「優斗さん本読むんだ、知らなかった」

彼のような紳士的な人は普段から娯楽として教養を身につけるのだろうか。そう考えたら別に意外ではなかった。


「たまにだけどね、この本、なるべく近いうちに読んでください」

彼はA4サイズの封筒を私に差し出した。


「うん、ありがとう」

私がそう言うと、彼はまた優しい笑顔を作り、百円玉と共に赤いカーネーションを私に見せた。



"拝啓 茜さん

この本を手に取ってくれてありがとう"


封筒に同封されていた、堅苦しい文章から始まる手紙を一文だけ読み、私は本を手に取った。題名は"あなたに伝えたい一つの事"と書かれていた。


中を開くと、そこにはナイーブな詩と共に日本や海外の様々な景色が添えられている詩集だった。


"僕は人に愛を伝えた事は一度もありません。

愛とは、言葉にできないような、もっと遠く、そして深い所にあると思います"


この本には優斗さんが私に伝えたい事が書かれているのだろうか。詩の中身は好きを伝えるようなものではなく、それぞれの景色に見合った、自然詩が連なっていた。


"この手紙を書く理由も同じなのかもしれません。

最初にあなたに合った時、あなたは僕の人生においてのただの一コマでした。あなたは花を売り、私は花を買います。ただそれだけでした。僕はあなたと様々な場所に行くうちに、まるで茜さんは僕の人生という物語において、重要な欠片となっていくようでした"


本のページを捲ると、次々に、私が行ったことのない広大な世界の切り取りが映されていった。日本の利尻富士、南米のウユニ塩湖、フィンランドの雪山。


"僕はあなたのお陰で物凄く広い世界を知る事ができました。小さい頃、僕はこの世界が無限に広がっていると思っていました。けれどそうじゃないと気づき次第、私の世界は縮小を始めました。茜さんのお陰で、何か失ったものを取り戻せたような気がするんです。そんな茜さんに、伝えたい事があります。是非、同封した本を手に取ってみてください。

               愛を込めて。

               橋本優斗"


のめり込むように読んだ詩集もついに最後の1ページとなった。

今だに彼の伝えたい事はわからなかった。自然の風景と、それに合わせた詩。彼は私に何を言いたいのだろう。

そう思い、私は最後のページを巡ってみた。



"私はあなたの事を愛してます"


〜私はこの広い世界において、そこで生きる伴侶が必要であった〜







私が二年間の追憶に浸っていると、部屋に玄関のチャイムの音が響いた。もう約束の時間になってしまった。

その音と共に、私は部屋を見渡した。私は思わずドキッとしてしまった。



もう...片付け終わんなかったじゃん。


私は密かに、大切な宝物を元の場所に戻した。





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