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弐ノ談 招き人・解

「ん?さっきのヤツ、……というと?ああ、君に憑いていたアレか。消えてはいないよ。どこかへ去っただけだ」


 夜会服の美女は、優雅に紅茶を啜りながら何でもないことのようにそう言った。僕こと棗斎(なつめ いつき)は思わず硬直し、間接に石ころでも詰まったかのようにギチギチいいながら、美女、継枝緋室(つぐえだ ひむろ)に顔を向ける。両手で力いっぱい持ち上げた謎のゾウの置物が、中腰の背骨になかなかキた。


「え?……本当、ですか?」


「うん。私は散らしただけだ。何処かで再び集まって形を成し、そして誰かに憑くだろう。人喰いとはそういうものだ」


 まるきり他人事、といった様子で継枝さんはそう語る。僕はそれに、すっきりとしない感情を抱いた。けど、それは彼女にもすぐ見破られる。


「力有る者の責務、だとかは一々問わないでくれよ、少年。きりがないんだ。そこかしこにいる基本不死身の怪物を、慈善事業で残らず潰して回るなんて、人の生き方じゃない」


 きっと、似たようなことをこれまで幾度となく言われてきたのだろう。それはただの一般的な高校生でしかない僕には計り知れない事情で、それくらいは弁えている、……と胸を張って言えるようになりたい。


「……。いえ、わかりました」


 かくいう僕が通りすがりに助けられたからだろう。その言葉をはいそうですか、と受け入れることは出来なかった。けれど、彼女には彼女の見ている世界があって、自分にはどうあってもそれが理解できることはないのだから、僕の義憤じみた思いは筋違いで、無礼なものだ。その苦い感情を嚙み切れないまま嚥下し、無理矢理に腹に収める。


 継枝さんは文庫本に目を落としたまま、少しだけ唇の端を緩めた。……ように見えた。彼女は常に皮肉気な微笑を湛えているから、表情の変化は正直なところ読み辛い。けど受ける印象自体は違うから、今、多少なり気を緩めたのは確かだろう。それならいいと、そう思った。


 僕は今、継枝さんの新居であるという安アパートの一室にいる。目を瞠るような美人の部屋にお招きされているわけだけど、これは山と積み上げられた段ボールを開封し、荷物を指示の通りに配置する肉体労働を仰せつかっているから。僕は彼女に頭が上がらない理由があるし、それに否やはない。ただ、もう深夜なのだけれど、そんな時間まで未成年を働かせるのはちょっとまずいんじゃないかとだけ他人事のように思った。


 今日、僕は人喰いの霊に憑かれ、危うく殺されるところだったらしい。


 僕には幼馴染がいて、彼女は昔失踪した。けれど今日の夕方、僕は彼女に似た“何か”を見た。……今にして思えばこの、見た、という時点で既に怪しいけれど、とにかく僕は、思わずその人影についていってしまった。


 これが間違いだった。ついていった先、行き止まりの路地裏で僕はそれに呼び掛けた。蔓延していた噂話、『招き人』──その通りに、失踪者に向けて“帰ってきて”と言う。ここまでくるともう自分の意思では自分が間違っているのかもわからない。その後、手招きする幼馴染のような姿をした人影に、僕は足を一歩踏み出した。


 それ以上言われるがまま進んでいたら、僕はどうなっていたのかわからない。その段階で継枝さんに助けられたからだ。ただ、僕をどこかへ誘おうとしたあの影は、明らかに人ではなかった。その噂に関わった人間に失踪者がいることもまた、確かな真実のひとつ。


 一通りの説明は既に受けている。彼女が言うには、見えた時点でそれは僕に憑いていたらしい。僕がそういったものを寄せ付けやすい体質という訳でもなく、特異な点は何もないとのお墨付き。曰く、人を喰う霊というのはターゲットを選ぶらしく、そのセンサーにたまたま引っ掛かったのが僕、ということだった。ほっとしたが、特異体質とかでないのはちょっと残念な気もした。いや、……まぁ、普通であることに越したことは、ない、と、思う、けれど。


 そこはかとない無念さを溜息と共に吐き出す。まだまだ運び出さなきゃいけない荷物は多い。よしやるぞ、と活を入れ直し、新たな段ボールの梱包を解く。すると、ちょっと意外、というかあまり似合わなそうなものが出てきた。


「……ん?眼鏡?」


 無造作に突っ込まれていたのは、黒縁の野暮ったい眼鏡。とりたてて目立つようなものではないが、なぜか目を引き付けられる。継枝さんはスレンダーな長身の女性なので、この眼鏡から受ける雰囲気とは微妙に噛み合わない。何だろう、これは。


 継枝さんは僕の手にあるそれを一瞥すると、ああ、と言って興味を無くした。


「それか。店の方に置こうと思ったんだが、紛れていたようだ。適当な棚にでも上げておいてくれ」


「店、ですか?継枝さん、お店開くんですか?」


「うん。そのためにこちらへ越してきた。古物商、の真似事さ」


 へー、と漏らす。最初、彼女は僕のことを顧客第一号と呼んだ。継枝さんは何やらお祓いのような仕事をしているらしく、それにはお金を取ると聞いた。払えなかったから僕はこうしてアルバイトの真似事をしているのだけれど、それとは別の事業にも手を出すつもりらしい。


 荷物がやたら多いとは思っていた。段ボールは二つの山にわけられていて、配置を指示されたのはその片方。もう片方が売り物ということなのだろう。


 段ボールは山のように積み重なっていて、いくら開封しても終わりが見えない。部屋がボロく狭いというのもあって、じわじわ置き場も無くなってきた。これだけ荷物が多いのだから、このやたら大きな天蓋付きベッドはやめておいたほうがいいのではないかと僕は思う。


 と、だしぬけに彼女は口を開いた。


「そうだ。それは君にやろう」


 作業を止めて振り返る。


「それ、って、この眼鏡ですか?」


「その眼鏡、多少“視え”やすくなるんだ。君は今霊障(・・)を負っているから、あると自衛の役に立つだろう。一部は私への返済に充てるとして、今日のバイト代として受け取っておいてくれ」


 なるほど、確かに。僕は霊障を負っているから、……ん?霊障?


「霊障って何ですか」


 継枝さんは顔を上げ、僕をじっと見つめた。表情の変化は例によって大きくない。けれど、そこはかとなく“しまった”という気まずさを感じる。何がそう思わせるのだろうと考えたけど、多分目元だろう。ちょっとだけ眦が硬直している。


 彼女はとても綺麗な人だ。僕はチョロい自覚があるので、見つめられている今は多分赤面してしまっている。なんというか、まあ、悪い気はしない。それはそれとして、不穏なワードは聞き逃せなかった。


「……言い忘れていた。少年。君は今、それなりに危険な状態にある。具体的には憑かれやすい」


「けっこう重要じゃないですかそれ!」


 もう時刻は深夜も深夜、午前の一時少し前。今から帰るとして、僕が家に着くのは二時を回ったころだろう。二時といえば、まず思い当たるのが丑三つ時。不吉さで言えば最悪な時間帯だ。


「ああ……。帰るときが怖いな……」


「ま、なんだ。気を付けつけるべきは夕暮れと深夜だから、その時間に外出しなければ重大なことには早々ならないだろう。家の中なら、アレらは招かれない限り入れない」


 ……うん?だから怖いという話なんだけれど。会話に何か、齟齬を感じた。


 彼女が妙に落ち着き払っているのは他人事だとしても酷いように思える。けれど、彼女はなんだかんだ、通りすがりに僕を助けてくれた恩人だ。多少不思議な雰囲気の人ではあるが、少なくとも悪い人ではない。それが違和感の元だった。


「あれ、じゃあ今からでも頑張って帰った方がいいんじゃないですか?もう深夜ですし、不味いんじゃ」


「何を言っているんだ、それは確かに不味いだろう。どうしてそうなる」


「え?」


「?」


 疑問符を浮かべ合い、何を言っているんだろうこの人、といわんばかりの目線が互いにかち合う。なんとも形容しがたい沈黙が何拍か続いてから、その美女は口を開いた。


「いや、泊っていくだろう?」


「え」


 え。


 ええええええええええええええぇっ!?



******



「諸行、無常……」


 ちなみに、何も起きなかった。いや、正確には、彼女の側は少なくとも何も起こす意図をもっていない。けど僕はヤバい。平常心を自分に言い聞かせ続けているが、無理だ。絶対に無理。寝れる気がちっともしなかった。それは、無理。


 なぜかって、それは隣でとんでもない美女が寝ているから。どうしてこうなったのだろう。いや、わかっている。流れはちゃんと覚えている。理由もちゃんと聞いている。けどそれとこれとは違う。違うのだ。全く理性が追いついていない。


 あの後、僕はお風呂を借りて、これまた借り物の寝巻に着替えた(下着もあった。というかここに来る途中、立ち寄ったコンビニで晩御飯の調達ついでに買っていたらしい)。入れ替わりにシャワーを浴びに行った継枝さんの、その浴槽から響いてくる水音がいやになまめかしく聞こえてきて、僕はその間煩悩を撲滅すべく一心に荷解きの続きをしていた。


 一番ドキリとしたのが浴室扉の開いた瞬間。否応なく今どのような状態なのか想起されて、頭がおかしくなりそうになった僕は一度思い切り自分で自分をぶん殴った。なんなんだ、この状況は。


 そうしてドライヤーの後に姿を現した継枝さんだったのだけど、これがまた不味かった。


 まさかのネグリジェ。夜会服を常用している時点で気付くべきだったのかもしれない。彼女はなんというか、一般的ではない。いや、否定するつもりはないのだけれど、今日会ったばかりの異性がひとつ屋根の下にいて、ましてやこれから夜を越すというのに、そんなにも明け透けにボディラインが出てしまう服を選ぶというのは如何なものなのか(その時点ではまだ気づいていなかったが、その後同衾までしている。この人はヤバい)。


 しっとりと湯で火照っている彼女は、ヤバくてヤバかった。乾かし切れていない艶やかな黒髪が白い頬に張り付いていて、衣服のフリルは湯気を吸って緩く撓んでいた。「……どうかしたのだろうか?」ではない。繰り返し敢えて主張させてもらいたいが、僕はチョロい。どうせチョロい女性耐性ゼロな陰の者である。「あー」だの「うー」だの呟いて真っ赤に撃沈する以外になかった。思い返せば死にたくなる。


 その後の顛末は既に語った通り。僕はベッドに突っ込まれた後、彼女自身も潜り込んできたせいで身動きが取れなくなる。しばらくすると寝息が聞こえて来たが、僕は時計の秒針が刻まれる音をただひたすら数え続けている。


 この、僕が今横になっている天蓋付きベッドだけど、これはどうやら霊障を癒す機能、のようなものがついているらしい。それこそ僕がこのとんでもない場所に据え置かれている理由であり、折角なら楽しもうぜとまで吹っ切れない僕にとっての地獄へとただのベッドが変貌した理由でもあった。


 というか、そもそも継枝さんは僕を今日、帰すつもりがなかったそうだ。彼女の仕事というのはただ悪いものを除いて終わり、というものではなく、それに伴う影響まできちんと責任を負うというスタンスで居るとのことだった。それは立派なことだと思う。けどこれはなんか、ちょっと違うのではないかと思う。


「こんな……いや……うぅ……」


 いや、僕が悪いのだろうか。不埒なことばかりに意識が向くのが悪いのだろうか?けどこれは僕個人がどうとかではなく、もっと仕方のない、人間としての本能の問題な気がする。だから僕ばかりが悪いという筈はない、と思うのだけれど、そういったことを一々ぐちぐちと考えるのもまた何か変な気がするし、考え過ぎと言われると納得してしまうし、もう……。


「トイレ、いこ」


 最終的に、僕は逃げることにした。結局霊障というのは放っておいても治るという。それは確かにこのベッドに居ることでその治りが早まるのかもしれないけど、それに伴う精神的な苦痛(?)で僕の方がダメになりそうだ。うっかりトイレの中で寝てしまうかもしれないけれど、それは眠気からしても仕方のないことだろう。


 妙案に思えた。もぞもぞとすぐ隣で眠る細く長いシルエットに気を使いながらベッドからずり落ち、抜き足差し足で部屋を出る。多分、起こしてしまってはいないだろう。


「助かった……」


 今なら鼻歌まで歌い出してしまいそうだ。便座に座りもせず、スリッパだけ履いて壁に背を預ける。……偽装の為に電気を点けているけれど、電力の無駄遣いなので少し気が引ける。


 洋式の簡素な、一般的なトイレだ。鏡なども無い。ただ小さな窓がひとつと、入口の直上に棚がひとつ。そこには本来トイレットペーパーなどが置かれるのだろうが、越してきたばかりという言葉通りまだ何一つ物は無い。


 殺風景で狭く、密室だ。そうしてようやく僕は、気づいた。


「……怖い」


 今の今まで、僕は自分がこの世ならざるものに襲われたことを明確に意識はしていなかった。危うく死にそうになったというのに、その後は継枝さんに助けられたことと彼女自身の印象があまりにも大きく、また仕事ばかりに忙殺されていたから、意識する間もなかった。


 もしかして、彼女はそこまで見越して僕の傍にいてくれたのか。だとすれば相当なやり手だろう。仕事として霊を祓うということはまだよくわかっていないが、そう豪語するだけのことはある。実際、僕がもう少し年齢的に幼かったなら、本当に復調しきるまで恐ろしさなど感じる間もなかったと、少なからず思う。


 人でないものが、人を模して、自分を手招きするあの光景。誘われる。人を喰う、悪霊のはらわたへ──。


「お、イ、で」


 背筋が凍った。


 なぜ?という疑問がまず咄嗟に浮かんで、次いでここから逃げなければならないと気づき、しかし身動きがまるで取れないことを知る。


 背を這い回って身体の深部から血流を侵す堪えようもない怖気は、やがて首の筋肉、その神経を毟り取り、ぎちぎちと、背けようという意志を嘲笑って、声の発せられた方向へ顔を引き寄せた。


「ヲ、まゑ、だ、ケ、デ、来ゐ」


 顔。


 人の頭部が。


 窓にべたりと、張り付いていた。


「──っ、」


 ガラスは採光用。モザイク状で細部は不明。だがその肌色と、パーツの配置から、それが顔面であるという情報は最低でも見て取れた。僕に顔を見せ、一言喋って満足したのか、或いはすべきことは終わったのか。口元にあたる部分を凡そ人間には不可能なほど捻じ曲げて、それは消えた。


 嗤った、らしい。アレは。


 そして理解できた情報はもうひとつ。細部まではわからず、大まかな顔立ちしか把握できなかったけれど。その意図と、“お前だけで来い”というメッセージ、そして僕が来るとある程度見込んでいることまで含めて、その顔が誰のものであるかは推測できた。


 中学校が同じだった。そして僕は、彼女が噂話『招き人』を試し、失踪したことを知っている。


葛籠屋(つづらや)、さん」


 僕がこの噂を認識するようになったそもそもの原因、葛籠屋美伽(つづらや みか)さん。その姿を借りて、あの霊がわざわざ現れた。なぜ彼女なのか……そんなこと、考えるまでもない。


 宣戦布告だ。アレは、僕を誘っている。


 馬鹿な。その程度のことで、僕が大して親しくもない他人を助けに行くとでも思ったのか。普通に考えて、既に死んでいるだろう。消えてから一月だ。時間が掛かり過ぎている。その上で身の危険を顧みず、少なくとも安全なこの場所から、のこのこと、事実上の自殺をしに。


 そんな、馬鹿な。


「……はは」


 乾いた笑いが出た。硬直は既に溶け、強張っていた身体がずるずると壁を伝い、尻もちをつく。


 静寂が戻り、僕は考える時間を与えられる。答えは決まっているだろう。そのはずだ。そして僕は一通りの思考を反駁し、絶望した。


 僕は、余程の馬鹿であるらしかった。



******



『アレらを祓う術は大まかに三つ。呪うか、祝うか、暴くこと』


「ごめんなさい」


 ひとこと、静かに閉じた安アパートのドアに向けて謝罪した。そして闇夜に振り返る。


 晩春の夜風が、殊更に冷たく肺腑へと満ちた。一度大きく深呼吸して、よし、と大きく気合を入れる。けどその決意は現時点でも風前の灯だ。金属製の階段を降る硬質な靴音が、一歩毎に後悔を孕んで重くなっていく。掛けた慣れない眼鏡(・・)の重さが、鼻の頭にのしかかる。


 驕っている。自分ひとりで解決出来よう筈もない。死にに行くのと同義だ。危険だと聞いている。その確信もある。『招き人』に殺されるより先に、別の悪霊か何かに殺される可能性だってある。今僕は憑かれやすい、危ないと、さっき聞いたばかりだ。恩人の好意を無にしようとしている。狂おしいほどの、大馬鹿だ。


 けど、その上で。ただ僕の無謀な愚かしさが、放置するという選択肢だけは与えてくれなかった。それが身を亡ぼす破滅的な選択肢であるという認識は与えられたというのに結局こうなるのは、僕が本当の意味で馬鹿だからなのだろう。


『そもそも関わるべきではないが、君が取り得るのは“暴く”手法だろう。ともすれば最も効果が高いが、その分やや手順は迂遠だ。やり方は──』


 霊に憑かれた、その説明を継枝さんから受けた時、対抗手段を僕は尋ねた。その時聞いた彼女の言葉が、必要に迫られて思い起こされていく。きっと彼女は、こんなことのためにわざわざ話して聞かせた訳ではないのだろう。霊障を負った僕にはもしもの場合のリスクヘッジとして必要なことだったのだ。自分から立ち向かうために教えたのでは、断じてない筈だ。


 ぎゅっと奥歯を噛み締める。だとしても、そう、だとしてもだ。僕はアレを、どうこうする心づもりでいる。勝てる気が微塵もしないけれど、そもそもの話これ以上の被害拡大は望むところじゃない。誰もやらないなら、僕がやるしかないだろう。


 具体的に何処へ行けば会えるかなんて、考える必要は無い。今はとりあえず歩き続けろ。向こうは僕に用があって、ああした存在は招かれない限り家に入れないから外におびき寄せるしかなかった。なら、放っておいても向こうから来る。僕はただ、待てばいい。


 そしておそらく、不意打ちは無い。そもそもが迂遠な手順で人を襲う怪物だ、手順に拘るのは当然で、ならば──。


 十字路に差し掛かった時。ぐるりと、エビ反りになった人影の上半身が、物陰から飛び出した。


「ヲ、ヲ、ヲ」


「──ッ」


 こいつは、違う。別のものだ。だが僕は衝撃で身動きが取れず、声も上げられず、硬直する以外になかった。


 見るな。見てはいけない。反応するなというのはもはや不可能だ。だから、できるかぎり無難にやり過ごせ。そう(・・)と決まったわけではない。足を意識して、無理に進める。


 急速に冷えていく身体の芯が、幾分か思考をクリアにした。落ち着け。落ち着かないことにはどうしようもない。この人はただのそこらの、少しばかりやむにやまれぬ問題のある人だ。僕には何も関係が……。


 いや違うッ!認めろッ、今僕は憑かれ(・・・)やすいッ!!十字路、エビ反り、唐突な出現ッ、これは──ッ、


「うあぁッ!?」


 飛び退ったその一歩先を、猛烈なクラクションと共に凄まじい速度で車が通過していった。ヘッドライトは直前まで見えなかった。僕から見て左側、その道路は直線ではなかったのだ。構造上、酷くライトが見えにくいようになってしまっている。事実車はちょうど死角にあって、よく見れば交通事故に注意するよう看板も掛けられていた。


 ちょうどさっきの何か(・・)が、僕からそれを隠すような位置に。


 例えば。この十字路をまっすぐに進もうとした結果、突っ込んでくる不注意な車と、理不尽な構造の道路で訳も分からず交通事故に遭ったなら。弾き飛ばされて塀にぶつかり、背骨を反対側に(・・・・)圧し折って、死んだとして。その不条理に対する憤激から地縛霊のようなものになったとしても、おかしくはないだろう。


 腰を抜かして青褪める僕は、背後から舌打ちを聞いた。振り返ると、そこには既に何もなかった。憑かれやすい、という継枝さんの言は、果たして本当だったらしい。


「……。……、けど」


 かえってこれで、覚悟が決まった。図らずも、こういった存在に対して聞いた情報とのイメージの擦り合わせ(・・・・・・・・・・)ができたから。


 やはり、彼らはある程度のルールに則って在る。僕らの日常と彼らの日常が切り離されているのは、その重なる範囲が狭いから。関わろうという意志なしでは、多くの場合関わらずに終わるのだ。それを本番前に実際目の当たりにできた分、僕は運がいい。


 そして。


「来た」


 点滅する赤信号の下。街灯の不自然に途切れたその場所は、不気味に赤く照らされている。そこに、うちの高校の女子制服を着る何か(・・)が居た。光が照らす瞬間だけ、そこに在るのを見いだせる。二度、三度、僕が気づいてから瞬いて、彼女は消えた。そして更に奥の信号に移る。


 着いてこい、ということか。


「いいよ。どの道、このままじゃ浮かばれない」


 仮にも知人が得体のしれない怪物に取り込まれて、それで何もせず放っておくというのは夢見が悪いなどというものじゃない。結局僕が納得できないのはその点だ。警察に通報することで整理がつく現実的な問題とは、少々その位置づけが違ってしまう。


 尊厳のはなし。葛籠屋さんの死体……か、どうかはまだよくわからないけど、それを使って人を襲うのは、許しちゃいけないことだと思うから。


 僕は黙って着いていった。


 踏み出すごとに道は袋小路に、夜の闇は暗く黒くなっていく。逃れられない投網の中に、自ずから泳ぎ出す魚の如く。僕は捕食者の口内に歩みを進めていく。


 あの、行き止まりの路地裏に辿り着いた。前回と同じ場所だ。


「……」


 ちかちかと、僕らを照らす電灯は不安定だった。点灯している間だけ、僕はそれ(・・)の存在を知ることができ、確かにそこにそれ(・・)は居た。シルエットだけが闇夜に縁どられ、黒の塊としてただそこに突っ立っているのがわかる。


 ふと、その腕がもたげられた。狙いをつける蛇が、その鎌首をもたげるように。


「おいで」


 その瞬間、僕の中に、失踪した葛籠屋美伽さんに対する“帰ってくるべきだ”という感情が膨らんだ。手を伸ばし、ごく自然(・・・・)と口にする。


葛籠屋さん(・・・・・)帰ってきて(・・・・・)


 何かに衝き動かされるように、僕は一歩分の足を踏み出す。それは死出の道だ。踏み出した先に待っているのは自分自身の失踪という確信、しかし僕はもはや自分で自分をどうすることもできない。


 目を閉じる。


 きっとこれは、噂話『招き人』それ自体の持つ特性だ。ある程度、こちらの思考に存在する特定の感情を煽るのだろう。即ち、失踪者に向ける感情を。普通それには気づけない。自分の感情は自分自身で完結しているから、他者に操られているとして、その前提で行動することはできない筈だ。


 ただし──そうなるだろうな、と。事前にわかって(・・・・・・・)さえいれば(・・・・・)恐れることは何もない(・・・・・・・・・・)


「そうか。つまり君は、君自身を認めてもらいたいわけだ」


 僕は徐にそう言った。いや、一歩踏み出し(・・・・・・)たらそう言う(・・・・・・)と、事の起こる前、既にそう決めていた(・・・・・・・・・)


 閉じていた目を開いたその先、眼前には腐食した皮膚と濁り切った眼球があった。荒れ果ててべたついた長髪と、どこの学校か(・・・・・・)わからない制服(・・・・・・・)。それも汚汁に塗れ、随分とくすんでいる。動いているのはおかしい、そんな死体の姿があった。


「やっぱりね」


 けどもはや、それには何も感じない。彼女もまた、動きが完全に停止していた。寧ろそのまま、一歩後ろに後退する。


「擬態するのが女の子だけ(・・・・・)なのは、君自身がそうだったから」


 逆に僕は、一歩前に。


「わざわざ帰ってきて欲しいと言わせ、なのに僕の側を自分に近寄らせようとする。それは、自分は間違っていないと肯定して欲しいから」


 また一歩。確かな手応えと共に、僕はでまかせ(・・・・)を押し付ける。


「けど、もしそうなら君は君自身の姿で現れるべきだった──いや、」


 これは違う。真実じゃない。反応にズレがあった。例え真実だとしても、僕はそれを信じきれない。ならばその意味が無い。違う理屈を並べ立てる。


 彼女がそうだと思うことを、僕は暴き晒さねばならない。つまりそれが、教えられた僕の戦い方(・・・)だった。


「君は、探してもらうことそれ自体に充足を得ていたね。もうずっと、それが自分であることに必要性を感じていない。ただその瞬間必要とされて、最終的に自分と同じところに落ちてくれれば、君はそれでよかった」


 組み立てた、結論に至る道筋をひとつひとつ紐解いていく。それには悉く物証が欠けていて、ともすれば全て僕の妄想に過ぎないかもしれない、その程度の確度だった。けどそれは重要じゃない。


 要は(・・)僕が納得しさ(・・・・・・)えすればいい(・・・・・・)理屈を並べ(・・・・・)その確からしさから(・・・・・・・・・)伝えられた反応から(・・・・・・・・・)僕が確信できれば(・・・・・・・・)いいのだ(・・・・)


 継枝さんはこう言った。


『──アレらは恐怖に類するものがその存在の根幹となっている。故に、自身に対しそれ(・・)を抱かない人間を喰らうことができない』


 なら、僕らが抱く恐怖とは。特定の何かに抱く忌避感、それを回避するよう肉体に与える作用、情動、そうした雑多な逃避願望の複合体だ。そして、それが生じるのは“わからない”から。


『そ。未分化の事象に私たちは恐怖する。だがそれは、理解されればただの現象に過ぎない。自然は過去、大いなる畏敬と共にあったが、今はただの資源に過ぎないだろう?』


 つまり、理解すれば彼ら(・・)に対する“恐怖のようなそれ”も消えるということ。未分化の事象を自身の了解しうる段階まで解体し、受け入れ、個別的な事象として向き合う。それが“暴く”という祓い方だった。


「人に認められること、求められることに固執している。それは自分が得られなかった、或いは得られる環境になかったからだ。無念の死を迎えてなお、君は自分が間違えてしまったと認められなかった。……或いは、気付けなかった。なら──」


『暴かれるその前の段階に、人が抱いた畏敬の念。それを古くはこう呼んだ。即ち──』


「解けた。君の正体は“家出少女”──その“畏れ(・・)”は、もはや無い」


 そうやって、不遜に騙る。知った口で並べ立てた僕の嘘八百。だが正体の開示と、僕自身がもはや恐怖することがないという宣言、それらの効果は劇的だった。


 既にこの世を去った筈の少女は呻く。徐々に力が抜けていくように、よろよろと頼りなく、壁に手をついて後退っていく。


 そして最後には、物陰に倒れ伏した。僕は彼女の前に膝をつき、目を閉じて手を合わせた。


「どうか安らかに」


 少しはだけて、黒く乾いた染みが大量に付着した制服。頭部はその形が歪んでいて、膨れ上がった瞼は眼球を覆い隠そうとしている。同じく膨れた頬も、欠けた歯も、不自然な位置で折れ曲がった腕も、足も。僕にはそれが、どれほどの苦痛であったか想像もできない。


 あるべき姿に戻ったのだ。殆ど干乾びていて、それでなお見て取れる惨たらしい傷跡が、やりきれない真実を白日の下に晒す。恐らく(・・・)採取されるだろう犯人のDNAで、正しい制裁が下されたとしても……釣り合いは取れないだろう。もう彼女は亡くなってから随分だ。死者に人の道理は通らない。


 僕はスマホから、110番に連絡をした。



******



 ……結局、葛籠屋美伽さんがどうなったのかは分からず終いだった。僕は遅めになった昼食のコンビニおにぎりをほおばりながら、公園の長椅子に座っている。学校はサボってしまった。今から行くという気分にもならない。


 あの後警察から聴取を受け、解放されたのはお昼ごろ。署内に呼び出された父親に小言を言われたのは、どうせ家には滅多なことじゃ顔を出さないくせにと少し腹が立ったけれど、そんなことはどうでもいい。


 問題は、『招き人』と成り果てた彼女に憑き殺された人たちの行方だ。物理的には存在しているのか、いないのか。人としての死体に還ったあの少女のように、どこかで誰かに見つけられるのを待っているのか。


 一応、主観でいいのなら。


「……どこかには在る、かな」


 うららかな空を見上げ、青く茂る木がそよぐ音を聞く。


 思うに、彼女が僕に対し僕にとっての“失踪者”の姿を取ったこと、それは確かにメッセージだったのだ。彼女は見つけられたがっていたが、その一方で見つけてくれない誰しもに絶望し、こう思うようになった。


 お前たちの他者への認識は、所詮その程度のものでしかない──もはや妄想と大差のない、自分にとって都合のよいある意味での偶像に過ぎないのだ、と。


 容易く勘違いして、容易く自らの毒牙に掛かってしまう僕のような人たちを見て、彼女はきっと安心した筈だ。他者を理解することはできない、誰も自分を理解してくれないのは、きっと仕方のないことなのだ、と。


 “現在”は、誰かとの関係性の積み重ねによって築かれる。だから積み重ねられた現在に続くその過去を、他者との関係性諸共丸ごと否定して、お前もまた自分のように無意味なものでしかないと、彼女はきっとそう思っていた。


 けど、他者に手招きするという行為に“期待”を込めない人はきっといない。それは他者とのファーストコンタクトだから、より深くかかわって、どのような関係性になるだとか、とにかくその行為には未来へのまだ見ぬ展望が付随する。誘い、誘われ、そうして開ける世界というものがあるのは、確かな事実だ。人恋しさに溺れた少女の選んだやり方として、考え難いものでもない。


 だからこそ、見つけられるようにしている。他者を恨み、しかし諦め切れなかった彼女であるならば、彼女自身と同じように死体までを消してしまいはしないだろう。


 そんな諸々を考えていると、背後で小さな溜息が聞こえた。その主に薄々想像がつきながら、口の端を引き攣らせつつぎこちなく振り返る。


「つ、継枝さん……」


 彼女は例によって無表情に皮肉気な微笑を浮かべ、その微妙な変化は読み辛い。しかし、どことなく呆れたような雰囲気に見える。どうしてか、というと完全に僕の推測でしかないけれど、多分眉が少し垂れているようだった。


「さて、話を聞かせてもらおうか。いや確かに、君が何をしようと私がそれを妨げるようなことをする理由も無いが、少なくとも無謀に死にに行かせるような真似を止めるのは年長者として当然なように考えている。どうだろうか?」


「あ、あはは……」


 一声聞いただけで内心どうにも腹に据えかねているらしいとわかってしまった。なんというか継枝さんは不思議な人ではあるけれど、けっこういい人だと思う。まだ仕事分の代金を払いきれてはいないということも有るのだろうけど、それでもまず心配してくれる人というのは、信頼に値すると僕は考えている。


 彼女は僕に、この多少“視え”やすくなるらしい眼鏡と異形の存在に対処する術を与え、そちらの世界へと誘った。


 この関係は、僕にとってこれからどのようなものとなるのだろう。彼女は僕にとって、ある意味での契機だ。助けられてなければそもそも生きていなかったろうし、そういう意味でも掛け替えのない人だと思う。


「まぁ、自業自得で恐縮な話ではあるんですけれど──」


 継枝緋室という人物は、何を思って僕を救い、招いたのだろう。それが期待に満ちたものであったならば、それほど嬉しいこともない。


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