壱ノ談 招き人
こんな噂話がある。
「夕方、一人で物陰に向かって『帰ってきて』っていうの。そしたら行方不明になった人が『おいで』って。そう言いながら出てくるんだって」
帰らぬものへの思慕か、或いは願望か。古来より死者へ呼び掛ける類の逸話は多い。その死が確認できておらずとも、手の届かぬなら同じこと。自身の届き得ぬものは、やがてその輪郭が不明瞭となり、“曖昧なもの”に溶けて混じる。
端的に言うと、妄想に呑まれる。
なるほど他者とは、認識によって構成されるものである。会えぬほどに『そうであって欲しい』という願望に歪められ、やがては虚妄の産物に落ちるのだろう。二度と会えぬなら尚のこと。
故に人は、自己を強く律せねばならない。
美しい過去を、確かに生きたと思いたいなら。
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その噂を聞いたのは春先のこと。新しい環境に馴染めず、教室の端で縮こまっていた休み時間に、偶然。
「例のやつ、昨日美伽が試したんだって。ほら、今日居ないじゃん?」
えー、とか、うそー、とか。様々な共感の声が上がる。端から信じていない嘲笑交じりの人だとか、半信半疑で若干の怖気が混じった人だとか。反応は色々だったけど、『今日居ない』というところだけが妙に異質で、気になっていたから覚えている。
結局、そのひと月後の現在まで彼女が登校してくることはなかった。未だに教室には一席分の空きがある。
「例の、か」
僕、こと棗斎は、まだ肌寒い五月の風に身を凍えさせ、誰にともなく呟いた。時刻は午後五時と少し。まだ慣れ切ったとは言い難い高校生活の、とりあえず一日をなんとか過ごし切った疲れを息に乗せて吐き出す。
“例のやつ”──その噂の正体が『招き人』と呼ばれるものであることに検討はついていた。行方不明者に暗がりで帰還を呼び掛けると、当人が現れこちらを逆に呼び込むという。バカバカしい話だとは思うけれど、どうにもそのように切って捨てられない事情があった。
何せ、人が消えている。噂の広がりはなかなかのものだ。うちの高校では同級生の葛籠屋美伽さんが少なくとも一人、他にも失踪者が二人。町内放送のサイレンで小学生の、なんなら大人の行方不明が放送されることも絶えない。関連性は薄いかもしれないけれど、無いとまでは言い切れない……その要素が噂を拡大させている。
葛籠屋さんについては実際に噂を試したという。人が騒ぐのも妥当だろう。
電子音をがなり立てながら降りていく遮断機をぼうっと眺める。西陽が射し込み始めた街に、厳しい隙間風が流れた。遠くには鴉が鳴き、帰途に就く草臥れた大人たちがふらふらと踏切に足を並べる。
「なんで消えるんだろう」
過ぎゆく豪風。警音が止んだ後、何事もなかったようにのんびりと上がる遮断桿と、スマホなどを弄りながら無関心に動き出す疎らな歩行者をなんとなく見遣る。僕もまた、それに続く。
ちょっとしたムーブメントになっている噂だけど、僕が気になっているのはその先の部分。そもそもなぜ、失踪するのかということ。
失踪者に呼び掛けることと、呼び掛けた者が失踪することに因果関係はない。ただこれがホラー映画だとかそういったものだと、帰って来た人でない何かに取り込まれるということもあるのだろうけども。
僕としては、仮に噂が本当だとしても、帰って来た者は本物ではありえないと考えている。まぁ、僕でなくとも普通に生きてきた人間なら基本的にはこのスタンスだろう。ありうるとしても、それは寄せ餌としてだ。何らかの組織犯罪が、売り物集めに都市伝説を流布しているのかも、などと場当たり的に考えてしまう。
噂は噂でしかありえない。結局はそういった話になる。
「え」
だが一瞬視界に映ったそれは、その認識を覆すものだった。
だってそれは、失踪者だ。
「──待って」
思わず足が彼女の方を向く。そんな筈は、と思っても、抗えない。一縷でも望みがあるのなら、決してその引力に逆らうことはできないだろう。誘蛾灯のように靡く長髪が街角に消え、追い縋るほど奥へ、奥へと引き込まれる。
正しく餌だ。
そして、ついに彼女は立ち止まり、僕もまた追いついた。
「……」
路地の裏手、血のように赤い夕暮れの日差しが照らす、ビルとビルの間の暗がり。その先は行き止まりだ。痛いくらいの静寂が耳朶にのたうち、空気が凍ったように張り詰めている。弦をいっぱいに引き絞ったようなその感覚がその場を支配していた。
その人は、陰影の強い影に半身が覆われていて顔が見えない。仮に僕の考える当人であるとして、こんなことをする理由がない。きっと違うだろう、だとしても、否定しきることがどうしてもできない。
だから、つい。噂に乗ってしまった。
「帰って、来た……の?」
ぞくり、と。粘質な沈黙に、何かが確かに拍動した。
果たして彼女は小さく首を傾いで、聞いた通りに手を招いた。おいで、と。いったい何処へ、僕を誘おうというのか。まず説明を求めようと開いた舌が乾いて、紡がれようとする音は未分化のまま霧散した。
「おいで」
腕を伸ばし、一歩踏み出す。
辺りは一面が血飛沫をぶちまけたような色だ。赤と黒のおぞましい色彩で塗り潰された視界には、正常なものとそうでないものの判別がつかない。曖昧に溶けた正気の境は、そのまま彼女を信じようとして、そして──。
「待ちたまえ」
はっとして振り返る。空気に沈殿していた澱が吹き飛ばされ、胸に痞えた何かが晴れた。たった二人きりだったからこその歪な空気感は第三者の介入で砕かれ、僕はほっと息を吐く。
だが何も、それで綺麗さっぱり状況が清算されたかというとそのようなことにはならなかった。視線の先。そこには場違いな黒の夜会服に身を包む、妙齢の美女がいた。
「……え?」
「さて。これはひょっとすると少し不躾な質問かもしれないが、ここはひとつ聞いて欲しい。君は一体、何に近寄ろうとしているのだろうか」
女性のその特異な姿は、僕の意識に明確な空白を形成した。すぐには質問の内容も咀嚼できず、うっ、と、喉を詰まらせてしまう。
その人の印象は、端的に黒と白。黒一色の余計な飾りすらろくに見当たらない夜会服は楚々としていて、尚且つ矛盾しない程度に妖艶。女性的な要素は際立っていないものの、ただ醸し出す雰囲気が絶対的で、見る者は例外なく引き付けられる。
白はその肌。血が通っているのか怪しいほどに薄いその色は、ともすれば白いペンキを塗りたくったように不気味で、だが傷どころか染みひとつ無い点であまりにも美しかった。切れ長の眼、浮かべた微笑、線の細い身体と標準よりは高い身長が、怪しげな、それでいて荘厳な、近寄りがたい美を醸成している。
異質な人だと思った。彼女の居る空間だけ、他と切り離されているような。
そのすんなりとは了解できない異物感を抱えながら、僕は先ほどの質問について考える。何に近寄ろうとしているのか、と聞かれた。僕は、行方不明の筈の幼馴染に、正確にはその疑いのある者に近寄ろうとした。
「何、って……」
答えようとして、言葉尻が萎む。
なぜ、近寄った?行方不明というだけで怪しい。本物であるという確証すらない。その対応を見ればわかる筈だ、間違いなく違う。同一人物であろう筈が無い。ならば近寄る必要は無く、僕は自分の行為に何一つとして、突如整合性を見出せなくなった。
ごく自然に受け入れていたそれらの物事に対し、それをごく自然に受け入れていたという事実について、致命的な違和感を覚える。僕は、何に向けて歩みを進めた?
背筋が凍る。僕は女性に向けて振り向きかけた正にそのままの姿勢で、身動き一つ取ることができなくなった。何かに突き動かされていた先ほどまでの感覚はとうに失せ、ただ得体のしれないものへの恐怖だけがあった。
血のように赤い逢魔が時。僕にはここが、異界であるように感じられた。
「おいで」
背後から声が聞こえる。その声は知っている。だが、声の主はその人物ではない。なら、その正体は?僕に近寄るよう仕向け、あまつさえ自らの傍に置こうとするその意思の、根幹には何がある?
「おい、で」
吃音のように。その声の輪郭がブレる。気付くほどに、それは明確な像から離れ、ぐちゃぐちゃな音の集合体になっていった。
僕の幼馴染の声は、はたしてそのようなものだったか?もう何年も前の失踪だ。わかるわけがない。覚えていない。覚えていたとしても、今の声など僕は知らない。知り得ない。何せ失踪しているのだ。知りようが、ない。
なら、言うまでもなくおかしいだろう。僕は何をもって、これを知人と誤認した?
「ヲ、い、デ。おい、で。おいで。オイデ。ヲイで。おいで。おいで。おゐで。おいで。おいで。おイ──」
つんざくように轟くそれを、初め僕は自分の悲鳴と気づけなかった。耳元で囁きかけるその異形の音声を、掻き消さんばかりに腹の底から出した声。自分でも自分がわからなくなって、もはや何がどうなっているのか理解の範疇を逸脱し、そして──。
柏手が鳴り渡った。
「君が何を聞いているのかわからないが。ま、一度目を瞑って、落ち着いてみるといい。気が晴れると思うよ、多分ね」
何もかも、音が止んだ。
「……え?」
突拍子もないことに、いつの間にか日は既に没し、一帯は夜の闇に沈んでいると、僕は今知った。早鐘を打つ心臓が送り出した血液が耳に異音を届け、静謐な空間に不似合いな僕の心境は突如冷水を浴びせられる。
何が、起こったんだろう。
女性は淡く微笑むと、もう一度、噛んで含めるように口を開いた。
「目を閉じたまえ」
有無を言わさぬ、という感じではなかった。ただ優しく、甘やかに語り掛けられた僕に、その言葉はするりと収まる。
「息を吸って。──吐いて」
緊張で強張った筋肉に、冷静になれ、焦るようなことはないと、懸命に訴えかけて、僕はそれに従う。不器用につっかえながら清涼な空気が肺腑に送られ、そこに沈殿していた澱のようなものが、その代替として夜気に吐き出される。
悪いものが抜けていくようだった。ささくれ、荒れ放題だった僕の心が落ち着いていく。彼女の言葉は魔法のように僕に染み入り、いつの間にか恐怖は消え、何処かへ去っていった。
カツカツと、ヒールがアスファルトを叩く音と共に、何かが僕へ近づいてきた。思わず身を硬くする僕を、穏やかな声が甘く蕩かす。
両頬を細い指が包んだ。
「もう大丈夫。目を開いて」
綺麗な人だ、と思った。すらりとした鼻梁、整った眉、浮世離れした切れ長の眦。月を背に立つその身長は僕より頭一つ分高く、仄明るく照らし出される黒髪は艶めいて、肩口まで清らかに流れている。
どきりと胸が脈打つのを知覚した。桜色の、しっとりとした唇が、ゆっくりと、柔く開いてゆく。僕はいったい、どうなってしまうのだろう。先ほどまで恐怖で暴れていた心臓が、その意味を180°ひっくり返して急速に暴れ出す。この短い時間で酷使された血流は、もはや自分の意思から離れて制御が効かない。なるようになれ、と僕は目を回した。
……けど、なんというか。期待したようにならないのが、どうにも世の常らしい。
「うん、意識ははっきりしているようだね。けっこうけっこう。さて、図らずも君を助けることになったわけだが、残念なことにこの手の仕事はお金を取っていてね。顧客第一号君、君、今持ち合わせはあるかい?」
急に優しさを取っ払ってあっけらかんとした口調になった女性は、すぐには消化できない言葉を僕に投げかけた。一人で勝手に盛り上がっていた僕は、歯車が嚙み合わないような言葉にし難い思いで空転する感情のまま、「へ?」と間抜けに呟いて考える。
持ち合わせ、と言われても、僕は財布を持っていない。高校帰りではあるけれど、食事は弁当と水筒を持ち込んでいるから買わなくてもいいし、まっすぐ帰るようにしているので、お金を使う機会が無いから持つ必要が無かった。答えはノー、だけどすぐには言葉が出なかったので、ぎこちなく首を振る。
脳髄の芯が痺れたような感じだ。オーバーヒートした自分の感情を、どのように処理していいかわからない。「……無い?なら仕方がないな」とはいえ女性は難しそうな顔をして、首を捻り何でもないように考える。僕の感じるような情動を、当然ながら彼女は共有していないのだ。そのズレが、なんとなく悲しいような、悔しいような感じだった。
けど、熟慮の末、妙案とばかりに発せられた言葉には少しばかりの悪戯っ気があって、やはりというかそれに僕はどぎまぎとしてしまう。もう自分で自分がわからない。振り回される僕は、でも確かに、悪い気がしていなかった。
「じゃあ、働いて返してもらうとしよう。丁度人手が欲しいと思っていたところでね。手始めに、荷解きを手伝ってもらいたい。実は、越してきたばかりなんだ」
彼女には、不思議な魔力がある。僕はもう、それから逃げられないと思った。
「こちらの世界にようこそ。これからよろしく、少年」
それが彼女──継枝緋室との奇妙な縁、その最初の一幕だった。