孔明と過去からの依頼
妖の時間と共に月が沈み、太陽が人の時間を運んでくる。
騒めく怪異の大半は日の出を喜ぶ鳥達の囀りを聞き、身を休める為に眠りに就く。
カーテンの隙間から漏れる朝焼けの光。ソファの上で横たわる男の顔を打つ。
軽い身動ぎの後、のそりと起き上がった男が伸びをうった。天に向けられる両腕。突き上げられた拳が一つ。男の左腕には肘から先が付いていなかった。
朝に強いのだろう。眼は寝ぼける事も無く、就寝で固まったままの身体を解すように動かしていく。
やがて、身体が本調子を取り戻すとソファの上に転がるモノに笑みを向けた。
「おはよう。今日もよろしくな、相棒」
そう言って手にしたのは枕代わりにしていた義手だった。枯れた巨木の枝を思わせる歪な義手を左腕に取り付け、男はキッチンに向かう。
ヨーグルトを冷蔵庫から取り出し、バナナ一房をスタンドから丸ごと手に取り、サイフォンでコーヒーを入れる。そして持ち出されたるのは角砂糖の保存瓶。一つ、二つ、三つ……褐色の液体を白に染めてやらんと言わんばかりに次々とコーヒーに投入されて行く角砂糖の群。砂糖でジャリジャリになったコーヒーを啜り、男は満足げな様子を見せる。
糖分多めの朝食を取りながら、携帯電話を確認。堅洲町の便利屋向けの仕事募集の確認が終わろうとしたその時、メールが入る。知人からの連絡であった。
『事件発生。応援求む。天草』
塀を乗り越え施設の庭に着陸する。それに気付いたらしい足音が近づいてきた。
「なんだ、塔か」
「どうも、山さん」
塔は顔見知りの中年刑事に軽く左手を振る。枯れ枝のような義手は黒い手袋に包まれている。それに加えて黒衣にサングラスの黒尽くめの怪人物に、刑事はさして気にする様子もない。
「一体何があったんです? 正面があの様子何で塀の外からお邪魔した訳ですが……」
建物の影から正面玄関を覗き見ると、大勢の野次馬が狭い道路を埋め尽くしている。警察達が対処に追われていた。
「事件だよ事件。大事件だ。ここを拠点にしていたカルトの連中が全滅。一人二人ならともかく、数十人規模で殺られる事件なんざ堅洲でも珍しいからな。そりゃマスコミ達も必死になるさ」
「マジもんの大事件ですね……。しかも俺が呼ばれたって事はただの殺しじゃないんでしょう?」
「そういうこった。早いとこ中に入れ。ボスが御待ちだ」
通された広間は静謐なままだった。とても凄惨な事件が起こったとは思えない程に。壁にも床にも流血の跡が見られない白い伽藍洞の空間。
「やっほーコーメー! 遅かったじゃない」
「ん。ひろ、おはよう」
二人の女性が塔……孔明を出迎える。一人は金髪の美女、ロビン・リッケンバッカー。もう一人は黒髪の美女、武藤要。孔明の仕事仲間である魔女達だ。
「なあロビン。ここ、本当に現場か?」
「本当に綺麗だよね。ロビンさんも通された時は目を疑ったよ」
「ん。塵一つ落ちてない」
「コーメーはちゃんと掃除してる? 男やもめになんとやらっていうしさ」
「少なくともお前の部屋よか片付いている自信はある」
「なによー。ロビンさんの部屋がきちゃないとでも?」
「埃の代わりにカビの生えた本が散乱してるだろうが」
「……散乱じゃないし……手に取るのには最適な配置だし……」
「本棚、いる?」
「もう置く場所ないのよ、カナちゃん……」
警察が行き来する広間の中、談笑する三人。そこに、一人の刑事が駆け寄ってきた。若い外見にもかかわらず、どことなく老成している雰囲気を醸し出す糸目の男だった。
「やあやあ、お待たせ。天草将貴、只今惨状」
「うっす、刑事さん。随分と血生臭い事件があったようだが、現場はここで間違ってないのか?」
「間違ってないよ。ほら」
手渡された写真に目を向け、孔明は顔を顰める。
事件現場の写真だった。どの写真にも写り込んでいるのは無残にも引き裂かれた信者の肉塊ばかり。
「おう刑事さん、気安くグロ写真手渡すなや」
「慣れたもんだろう?」
「あんたのおかげでな。しっかり断面の見えるようなグロ写真を注意も無しに見せつけるデリカシーの無さは大したもん……ん?」
孔明は再び写真に視線を落とす。
「ねえショーキ。この仏さんの写真、加工してないよね?」
「血……どうした? 綺麗に拭いた?」
後ろから覗き込むロビンと要の言葉通り、遺体には流血の跡がまるで見られなかった。どの遺体もズタズタに引き裂かれているのにも拘らず、血の一滴すら見られない。まるで被害者の肉体を引き裂く前にわざわざ血を全て抜き取ったかのようにさえ思える。
「御覧の通りさ。加工も何にもしてない。まるで獣に襲われたかのような遺体だってのに。犯人の痕跡も全くないし、これは普通の事件じゃないって事で僕ら怪異担当科に案件が回ってきたって訳だ。とは言え……君達は耳にタコができるくらいに聞いたかもしれないが、この手に事件に対して警察は専門家とは言い難いからね。いつも通り、オカルティストとしての知識を貸して欲しい」
「了解だ。あんたの依頼は実入りが良いし、依頼そのものに文句はない」
「依頼以外には文句があるのかい?」
「俺が言うのも何だが、もう少しデリカシーを身に着けろ。こういう写真を見せる前には注意を入れる、みたいな」
「うん、まあ。なんとか努力しよう」
これ駄目な奴だと冷めた視線を天草に向けつつ、孔明は現場の状況を詳しく知る為に山刑事に話を聞きに向かったのだった。
山刑事からの情報は実入りが少なかった。刑事自身も随分困惑していて、屋敷の外はおろか広間の外ですら犯人の足跡が見当たらないらしい。だが、情報は全くの零ではない。これは自分達魔術師の知識が鍵となる事件である以上、普通ではない考えが必要である。各々が好き勝手に現場を探し回る孔明達だったが、それぞれが辿り着いた答えは共通のものだった。
「どうだ、塔? 何か分かったか?」
「ちょっとした仮定ならば、ですね」
「ふむ?」
「山さん。たぶん、山さん達は見落としなんてしていないと思うんですよ」
「どう言う事だ?」
「単純な話です。ホシは屋敷の外には……正確に言えば広間すら出ていない。広間に降って湧いた様に出て、そのまま消え去った。そうとしか思えない状況なんです」
「馬鹿げた話ではあるが……この部署に配備されてから、それが起こりうるのは経験済みだ。だが、いざという時にこう言った馬鹿げた答えを出せんのは、俺の頭が固いんだろうな」
「それが普通ですよ。それに堅実な人間の目線があるってのは有難い事です。少なくとも、この事件が普通じゃないって事が分かりますから」
「そう言ってくれると助かる。俺でも役には立ててるって事だからな」
山刑事と別れ、客間に戻った孔明。そこではロビンが薄っぺらい冊子に目を通していた。
「何か分かったか?」
「まだだよ~。とりあえず被害者について調べようってね」
ロビンが見せた冊子の表紙には『金之光追憶会』の文字。このカルト組織のパンフレットらしい。
「そう言えばこのカルトについては詳しく知らなかったな。ホシを挙げることばかりに熱中しすぎていたか……で、このカルトはどんなものなんだ?」
「ん~。何でも、迷いや後悔を断ち切って前に進む手助けをしていますって組織らしいよ? なんか、死に目に会えなかったり思いを伝えられずして亡くなった大切な人に合わせてくれる、みたいな」
「降霊術か?」
「たぶんね。少なくとも、悪いことやってやろうとか金儲けしてやろうと言ったいう怪しい団体ではないかな。カルトの理念そのものも、死者を甦らすとかそういった物じゃなくて、大切な人の死を受け入れたり、伝えられなかった事を伝える事で心を晴らしたり、死者に囚われている生者を解放するのが目的の団体みたい」
そう言ってロビンは冊子を片付けると、部屋の隅をじっと見つめていた要に呼びかける。
「それじゃあロビンさん達は資料室を見てくるよ」
「俺も手伝うか?」
「ロビンさんとカナで十分十分。そっちは相棒さんと仲良く捜査してってね~」
孔明がとある部屋の扉を開けると飛び込んできたのは外の空気。開け放たれた窓の下、机を漁る人影の姿があった。
警察が捜査でもしているのと考えた孔明が話を聞くべく人影に近付くと。
「あっ!」
見知らぬ少女の声が部屋に響く。机の中から取り出したと思われる瓶が少女の手から転がり落ち、中身の錠剤が床一面に散らばる。
少女は慌てた様子で錠剤を一粒掬い取り、窓へと身を躍らせる。首元に踊る紅玉髄の首飾りを煌かせてそのまま塀まで走り去り、見事な身のこなしでそれを乗り越えて孔明の視界から消えた。
呆気に取られていた孔明が正気に戻ると、窓の外に駆け寄る。逃げた少女の音を聞きつけたのだろう、山刑事がそこに現れた。
「山さん!」
「どうした、塔? 何か慌ただしい音がしたが?」
「変な女の子が忍び込んでいた!」
「どこ行った?」
「塀の外だ!」
「よし、分かった」
孔明の指し示す方向に山刑事が駆け出す。
一瞬、自分も追いかけようかと逡巡した孔明であったが。
「……これ、放っておくわけにもいかんか」
床に散らばる錠剤を見て溜息をつく。この部屋の有様を説明する必要もあるだろう。
錠剤をかき集め、瓶に戻していく。一通りの錠剤を集め終わった後、見落としがないか床に這い蹲って家具の下を調べてみると、数個の錠剤が転がっていた。取り出そうと家具の下に手を伸ばしていると。
「何してるのさ、コーメー?」
開け放たれた扉から覗き込んでいるのはロビンと要。不審そうな視線を向ける二人に気付き、孔明は薬を後回しにして立ち上がる。
「資料室、どうだった?」
「ん~。残念だけど目ぼしい情報は無かったかな」
「会員の名簿があったくらい……」
「そうか」
「ん? それ何? 何の薬?」
「知らん。変な女の子が忍び込んで机を漁っていてな。目が合った途端に取り出したこいつをぶちまけていった。その後片付けをしていた所だ」
「ふーん。机の中に合あったの? だったら何の薬か分かる物でもないかにゃ~?」
ロビンはずかずかと部屋に乗り込み、無遠慮に机を漁りだす。やがて目に付いたのは一枚のメモ用紙だった。
「お? これ、薬の材料のメモ? どれどれ……」
初めは好奇心から楽し気にメモを読んでいたロビンだが、その顔から次第に笑みが消えていく。何度も何度も、真面目な表情でメモに書かれた文字を目で追いかける。
「どうした?」
孔明の言葉にロビンは答えず、代わりに要に問いかけた。
「ねえ、カナ。そう言えばだけどさ、広場の隅っこで何してたの? 何か違和感があったとか?」
要はこくんと頷いた。
「何か……変な感じがした。上手く言えないけど、隅っこが見た目通りではない感じ。別の空間が奥に広がってるような……」
「それって、部屋の角?」
「ん。部屋の角」
真面目な顔のまま、ロビンは思案する。無言のまま再び机を漁り出し、分厚い帳面を見つけ出した。即座に頁を捲るロビンの後ろから、孔明と要が覗き込む。どうやら日記のようだった。
「何か分かったか?」
「後一歩。メモの内容が私の知っているのと若干違う。もしかしたらコレに書いてるかもしれな……あった! 自己流? アレンジ? なんて無茶を……」
日記を閉じて溜息一つ。ロビンの顔は真面目なままだが、その一方で緊張感は全く感じられなかった。
「コーメー、カナ。ショーキ達を広間に集めて。事件の概要が大体分かったから」
「と言う事は、犯人もか?」
孔明と要の期待の眼に、ロビンは渋い顔を返す。
「この事件はまだ終わってないかもしれない。それについての説明をしなきゃならないから、招集お願いね」
そう言ってロビンは部屋から立ち去った。
「ロビン君、事件の概要が分かったそうだね?」
広間に集められた天草達の前で、ロビンが頷く。
「ん~。この事件さ、ぶっちゃけちゃうと獣害なんだよね」
「獣害? 屋敷の中で熊でも出たってのかい?」
「無論普通の獣害じゃないよ。何て言うか、自業自得と言うか……これ見て」
ロビンが掲げた錠剤の入った瓶に皆の視線が集まる。
「ヤバい薬かな?」
「まあね。時間遡行薬っていうんだけど、私の知識に有るそのものじゃなくて、ここの会員達が独自にアレンジした奴だよ」
「アレンジ? それが原因とでも?」
「ううん。アレンジ自体は関係ないよ。まあ、過去を目視するだけの効能を干渉できるレベルにまで引き上げているだけで十分凄いけどさ。問題なのはこの薬を飲むと文字通り時を遡れるという事」
「過去に干渉……SFとかでは未来を変えるのは禁忌とされがちだけど、それが事件とどう関わるんだい?」
「このカルトも、それには注意を払っていたよ。未来を変えるのではなく、過去にやり残した……故人に伝えきれなかった事を伝える為にこの薬を作ったみたい。過度な干渉は未来を変える危険があるけど、それでも旧来の目視するだけの薬じゃ思いは伝えられないからね……話がそれたけど、問題はそこじゃないんだ。未来を変える変えないに関わらず、時間に干渉する行為そのものが危険なんだよ」
「時間を遡ることそのものにかい?」
「……君達もこんな事件ばかり担当しているから分かると思うけどさ、この世界は決して人間だけのものじゃないんだ。地球や宇宙と言った括りだけじゃない、時間や空間さえもね」
「時間と言う狩場を持つ獣が居ると?」
「御名答。こいつ等、私達は猟犬と呼んでいるんだけどね、何時も腹ペコでさ。時間を越えて旅をする人達を補足すると、凄い執念でそいつを付け回すんだ。肉体を引き裂くばかりで食い散らかす訳でもないから、獲物から何を得て空腹を満たしているのかは分からないけどね」
「血でも吸っているのか? 仏さんの血はすっからかんだったが」
「かもしれない。で、こいつらは一見神出鬼没に見えるんだけど、過去の事例から鋭角からこっちの時間軸に顕現するみたいなんだ。現れる時には煙のような姿でこちらの世界にすり抜けてくるみたい」
「前知識が無ければ対処のしようがないな。ここの連中、そんなリスクを知らなかったのか?」
「だろうね。薬のメモにも日記にも、時を遡る事が出来るようになったとか効能を改良したとか、そんな事しか書かれていなかったよ。猟犬に襲われるまで、薬のリスクを知らなかったんだろうね。魔術はメリットもあればデメリットもあるんだから、目的に合った魔術を見つけたからって浮かれてないでデメリットまでちゃんと調べるべきだったんだよ。魔術で恩恵を受けたいのなら、弊害だって受け入れなきゃならないからね」
ロビンは溜息をつく。この組織は間違いなく善意からくる行動で錠剤を使用していたようだが、魔術を用いる以上、理解が足りなければかえって却って被害を生み出しかねない。この事件はその結果起こったものであった。
「で、事件はまだ終わってないかもしれないと言っていたね?」
「……このカルト、会員以外にも故人の事で悩んでいる一般人の為に薬を配布していたみたいなんだよね」
「猛犬対策までしなきゃならないとはねえ。流石に迷える一般人までは名簿に載っていないんだろう?」
「そこは虱潰しに駆除するしかないかな。幸い、こいつらを追う事は出来るしね。カナ」
「ん。あの隅っこみたいな違和感があるを場所を探ればいい?」
「お願いね。ロビンさんも手伝うから。てな訳でショーキさん達は駆除の方をお願いね」
「簡単に言ってくれるなあ。僕達の戦力で何とかなるかな?」
「流石に一般の警察官なら難しいだろうけど、その為の怪異担当課でしょ。大丈夫、ショーキ達なら駆除できるってロビンさんが保証するよ。大体、連中のネタはバレてるから不意打ちにはならない。むしろ侵入経路を限定できるから待ち伏せになるし、何とかなるなる!」
いつも協力してくれる魔女からの太鼓判を受けて、自分達でも対処できる案件だと納得したのだろう。猟犬を追う猟犬と化した要とロビンの案内を受け、天草達如月市警怪異担当課の面々は一般市民を守る為、堅洲町を駆け回るのだった。
「疲れたなあ、相棒」
一日の酷使を労うように、孔明は自らの義手に労りの言葉をかける。
事件の真相が判明してからの強行軍。カルト組織の後始末に駆け巡り、猟犬達の駆除を済ませて孔明が帰宅した頃にはもうすっかりと日が暮れていた。
まさか一日で駆除が完了するとは思ってもいなかった。被害者を増やさない為には一刻を争う事態であった以上仕方ない事ではあったが、要とロビンと言う頼れる二人の魔女の積極的な協力もあって、狙われた一般市民には犠牲者一人出す事無く駆除を完遂できたのだ。
最も、時間遡行薬のおかげで故人との決着をつけた者はそのまま信者になっていたという事も大きい。まだ入会しておらず、結果として会館の虐殺を免れた市民はそれほど多くなかったという事も、駆除が早く済んだ原因の一つだろう。
コンビニで買った新作スイーツで小腹を満たしつつ、羽織りっぱなしだった黒いコートから携帯電話を取り出そうとして、ポケットの中の異物に孔明は気付いた。
取り出してみると、それは件の錠剤だった。
そう言えば、と思い出す。片付けの途中でロビン達が錠剤のあった部屋に入ってきた訳だが、その時家具の下に潜り込んだ数錠の時間遡行薬をロビンが出て行った後で回収していたのだ。そのまま瓶に収めようかと思っていたのだが、錠剤入りの瓶はロビンが持ち出した後であり、その後のドタバタもあって回収した事自体が頭からスッポリと抜け落ちていたらしい。
それと同時に蘇る記憶。そう言えば、この錠剤を盗み出そうとした少女はどうなったのだろう。害獣駆除の強行軍の最中、彼女の顔は見ていない。
まだ薬を試していないのか。しかし、効果を実感しないまま時を遡れる薬などと言う胡散臭い情報を信じて薬を盗み出すだろうか。それも警察が屯する事件現場に潜り込んでまで。
ロビン曰く、時間遡行薬を飲んでも必ずしも猟犬に目を付けられるという訳ではないとの事。実際、薬を試して無事な者も居たのだろう。ただ、使えば使うほど猟犬に嗅ぎ付けられる可能性は上がる訳で。
あの少女を追いかけられるか。少なくとも、追いかける足は今ここにある。
「……悪い相棒、もうちょい付き合ってくれ」
そう言って、孔明は錠剤を一粒口に放り込む。途端、意識が離れていくのを認識した。
時を遡る奇妙な感覚が無くなると、孔明は住処から離れた場所に立っていた。
木々が生い茂る見知った場所。いさぬき公園の雑木林の中だった。
照り付ける太陽から夏の盛りであろう事が肌で感じられる。秋の涼し気な気候に対応する為の黒いコートが、孔明を蒸しあげようと牙を向いている。暑い。
広場に向かって歩を進めると、居た。あの少女が一人の男に何かを必死になって伝えている。その男……黒人のようだが、真剣な様子とも上の空ともとれる奇妙な態度で少女の言葉に頷いている。
やがて少女は伝えたい事を伝えきったのだろう、公園を立ち去った。その後ろ姿を見送った男は、深いため息をつくと自販機で飲み物を買い……缶を手にして驚いたような表情を浮かべる。溜息をもう一つついてベンチに腰掛けた男の側に、孔明は近付いた。
「こんなクソ暑い日にお汁粉……自殺願望でもあるのか?」
「そういう君だって、黒いコートが鬱陶しいぞ? それにこれは間違って買ってしまったものだ。茫としていて、ついね」
「そんなにあの娘の言葉が衝撃的だったのか? まあ、時を遡って来たってだけでも驚くか」
その言葉を聞くと、男が孔明と視線を合わせる。どことなく、縋るような眼だ。
「君も瞳ちゃんと同じ時間軸からやってきたのかい?」
「信じるのか?」
「まあ、一応は魔術師だからね」
「同業者か。俺は孔明。あの娘が事件現場から時間遡行薬を黙って持ち出したんでな」
「事件……誰かが怪物に襲われたのかい?」
「当たりだ。で、何であの子だけ襲われなかったのかが気になって調べに来た」
男はどこか疲れたかのような、力ない笑みで答える。
「僕があげた護符はまだもっているようだね」
「……あの娘が襲われなかったのはアンタのおかげか」
「瞳ちゃんが襲われる原因は僕にあるからね。僕はそう、ゴングとでも呼んでくれ」
「本名か?」
「すまないが偽名さ。本名は出せない。悪評が付きすぎた」
「あんたはあの娘とどういう関係なんだ?」
「話せば長いんだけどね……」
ゴングと名乗ったこの男。生まれはアメリカとの事だった。
彼が生まれ育ったのは、奴隷制度が廃される前の時代であった。彼もまた、奴隷の子として生を受けたらしい。
人権など皆無と言ってもいい扱いをされながらも、彼の両親は人としての誇りを失う事はなかった。同じく奴隷の境遇であった黒人の扱いの悪さを憤慨し、しかし暴力に訴える事だけは拒否し続けた。血の贖いではなく対話の果てにこそ、真の意味で奴隷の身から自由になれると仲間達に説いて回っていた。
ある時、簡単に直せるはずの病気で死にかけた仲間を助けてほしいと主人に対して意見を申し出た。主人も労働力が減っては困るだろうし、両親は願いは聞き入れられるだろうと考えていたのだが。
その目論見は儚くも崩れた。主人にとって、奴隷など壊れたら買い直せばいいだけの道具でしかなかった。その道具の分際で人間に意見する……それが主人の癇に障ったのだろう。両親は見せしめの為に手酷い暴行を受けた末、治療も受けられないまま放置され死亡。病気の仲間も両親を追うかのように息を引き取った。
仲間を想ってのの行動。しかしそれは、主人の怒りを買うだけで終わった。主人の奴隷への扱いはより一層苛烈となった。
理不尽な扱いに対する奴隷達の怒り。それは、不条理にもゴングに向けられる事となった。過酷な労働と飢餓で死者が続出する程に悪化した奴隷達は、それもこれもゴングの両親が余計な真似をしたせいだと幼い彼を罵り続けた。
彼らにとって不幸だったのは、ゴングがその両親程の心の強さを持ち合わせていない事だった。
目の前で両親の無残な死を目撃したゴング。その傷心を気遣うどころか罵声を浴びせかける同胞達。奴隷達から暴力さえ振るわれそうになったゴングが恐怖から逃れる為にとった行動。それは親の仇である主人に取り入る事だった。
ゴングは奴隷達の監視者となった。僅かな不平や不満、犯行の意志を逐一主人に報告し信頼を勝ち取る事に成功した。
主人のお気に入りの飼い犬になったゴングは、奴隷達に対して居丈高に振る舞った。奴隷達は我が身可愛さに同胞を売った畜生と陰口を叩かれたが、そんな言葉はゴングの心に何も響かなかった。善良であった両親を恨み、主人への恨み辛みを自分にぶつける奴隷達を、ゴングは最早同胞とは見ていなかったのだ。
奴隷達はもはやゴングを害する事はできない。その筈だった。
南北戦争の終結がゴングの人生を狂わせた。北軍勝利による奴隷解放。いかに無慈悲な主人であっても、勝者の決定に逆らう事は出来ず、劣悪な環境に囚われていた黒人達は晴れて自由の身になった。
そしてそれは、ゴングの後ろ盾が無くなる事を意味していた。
奴隷の身分から解放されたとはいえ、差別や偏見が無くなる訳ではない。今だに人扱いされない憤りの矛先。今までの報復とばかりに、ゴングは元奴隷達からの苛烈な暴力に曝される事となった。
最早全てが失われた。その時だった。絶望の淵に沈んでいたゴングの前にあの男が現れたのは。
燃えるような瞳をした黒い肌の男。ゴングは自分に報復しに来た黒人かと身構えたが、すぐにその考えを改めた。
この男は黒人ではない。否、このような人間を今まで見た事など無い。断じて自分達とは違う。血の通った黒さではなく、闇そのものを煮詰めたような黒さの男。
ゴングはおぼろげながら思い出す。いつだったか、キリスト教を信じる大人達が言っていた存在。暗黒の男と呼ばれる悪魔じみた存在が、目の前に立っていたのだ。
力が欲しいかと暗黒の男はゴングに問うた。人生に絶望していたゴングは、躊躇う事無く肯定した。同胞達はもう信用出来ない。神とその宣教師達は白人しか救わない。ならば、頼れるものはもう悪魔以外に存在しないではないか。
悪魔との契約。その日から、全てが変わった。人ならざる魔力と老いる事なき肉体。気に入らないものを屈服させ、蹂躙し……まさに神にでもなった気分だった。
以来、ゴングは様々な悪徳に身を染めてきた。何せ、悪魔から与えられた力である。悪魔の機嫌を損ねたら取り上げられるかもしれない。そう考えた以上、善業を積んで悪魔の不評を買う事だけは避けたかったのだ。
とは言え、ゴングにも良心はある。自分の悪行に胸が締め付けられる思いをしたのも一度や二度ではない。かつて主人に取り入る為に奴隷達を売ったゴングだったが、あれは自分を仲間として見なかった同胞達への恐怖と反骨心から為したものだからこそ、さして心が痛まなかったのだ。全くの無関係な人間を毒牙にかけなければいけない今の状況は、悪意に対して悪意を返しただけの奴隷時代とは全く異なった。
悪魔は何も言わなかった。時折ゴングの前に現れては、遠目からニヤニヤ笑って眺めるだけ。監視されている以上は、悪魔を喜ばす様な生き方をしなければならない。
裏社会……闇の世界で生きていく。人を超えた力を身につけたゴングにとって、良心の呵責さえ除けばそれは酷く簡単な事に思えた。それが過ちに過ぎない事を、ゴングは早々に知る事となった。
裏社会には魔術師が存在した。ただの人間なら相手にもならなかったゴングだが、魔術に精通した魔術師相手には全くと言っていい程手が出なかったのだ。魔力的にも魔術のレパートリー的にも自分の方が圧倒的に上であるにも拘らず、である。
言ってしまえば、ゴングの力は付け焼刃に過ぎなかったのだ。知識と技術を生かすには、経験が重要となる。魔術も同じだ。どの魔術を如何使えば効果的か、どの魔術が状況を打開するのに適しているのか、魔術師は経験を通じて分かっている。それが普通なのだ。
その点、ゴングは異常だった。本来は経験の果てに魔術を身につけるものだが、ゴングはその経験をすっ飛ばして知識と魔術だけを手に入れてしまったのである。経験あってこそ有効な使い方を理解できるのだが、それが欠けているゴングは強大な魔力を生かしきれていなかったのだ。
他の魔術師にとって、ゴングは魔術師とすら言えなかっただろう。手に入れた高価なナイフを振り回すだけのチンピラ相手に、手練れのナイフ使いが後れを取るはずもない。
人ならざる力を得たというのに、一向に変わらない日々のままならさ。その不安や苛立ちが、罪悪感を掻き消していく。ゴングはかつて自分が嫌悪した、無実の弱者に当たり散らかす同胞達と同じ道を辿っていた。無力な者への血と暴力。悪徳だけが一時の気晴らしとなる程に零落れたのだ。
裏の社会にも仁義というものはあるらしい。何時しかゴングの悪徳は反社会的な裏社会の住人にすら唾棄すべきものへと成り果てていた。結果、ゴングは闇の世界から排除される事になる。あらゆる組織がゴングを害になると判断し、積極的に命を狙うようになった。
最早、ゴングには居場所が無かった。もう既に、表の世界からは見捨てられた存在だ。ならばどうやって生きていけばいい?
流れ流れて辿り着いた極東の堅洲町。命を脅かす刺客に気付かれぬよう、細々と生きてきたある日の事だった。
足が不自由そうな少女の姿を見かけた。怪我のリハビリ中なのか少女は松葉杖から手を離し、懸命に足を動かそうとしていた。諦めを知らない瞳。不幸にもめげずに前に進もうとする意志。両親が持ち合わせていながら、ゴングには欠けていた強い意志だ。
そんな少女の姿から目が離せない。もし、自分にこのような強い意志があったなら……彼女の様に困難に立ち向かう勇気が持てたなら……。頭の中でぐるぐる巡る、悪徳に塗れた自分の人生。
憧憬は最早届かない。諦めにも似た感情が何時ものように心を支配しかけた時だった。必死にリハビリする彼女の先。そこにあの黒い男の姿を認めて、ゴングは何かが弾けた気がした。
あざ笑っている。あの男は人ならざる力がありながらも何一つ事を成せなかった自分を嘲笑している。元よりそのつもりだったのだ。この男に自分を助けようとする気なんてない。自分に力を与えたのも、希望をちらつかせて更なる絶望に突き落とし、もがき苦しむ様を楽しみたかっただけなのだ。
あの時、この男の誘いに乗らなかったら……こんな救いようのない大罪人等ではなく、必死に生きようとしただけの哀れな男として人生を終わらせる事ができたのに。何時の間にか、自分の手は取返しもつかないほど血塗れで……。
自分の人生を台無しにされたという怒りが、ゴングを突き動かした。名も知らぬ少女の前に立ち、困惑する彼女を余所に暗黒の男から得た魔力を持って彼女の足を完治させたのだ。
その少女、岡野瞳は感動に打ち震えながら何度も頭を下げて涙ながらに感謝してきた。彼女の笑顔の眩しさから逃れるようにして、ゴングは立ち去った暗黒の男を追いかけた。
やがて追いつくと、ゴングは暗黒の男に不敵な笑みをぶつけた。
悪魔の力で善行を積んでやったぜ、ざまあみろ。そんなささやかな反抗心を込めて。
だが、暗黒の男は愉快そうに笑ってこう言った。
「君の人生、悪行ばかりでマンネリとしていたが。何だ、こんな事も出来たんじゃないか」
ゴングは愕然とした。ようやっと、この男が自分の思い描くような悪魔ではなかったと悟ったのだ。
この男にあるのはただの興味だけだった。
絶望している自分に力を与えたら、どんな生き方をするか。それを観察する為だけに、ゴングに膨大な魔力を与えたのである。
「結局、全ては僕の心の弱さが招いた事だ。恐怖と偏見から、暗黒の男が悪徳を賛美するステレオタイプな悪魔だと思い込んでしまったんだ。生きようと思えば、僅かな良心に従って生きる事だってできたんだ。そうすれば良心の呵責なんて感じずに済んだのに。僕の成してきた悪行は、何の意味もありはしなかった。全くもって無駄な犠牲だ」
「人間観察が趣味の悪魔か……何とも悪趣味なこった」
「本当にね。ある意味、分かりやすい悪魔であってくれた方が心から憎めたんだけど。あいつが善も悪もない変人だった以上、僕は僕の罪を認めなきゃいけない」
公園を見渡す様に眺めるゴング。視界の中に、暗黒の男はもういない。
「いつしか、ここでこうやって座りながら、過去の事を思い返す様になっていた。自己嫌悪に苛まれるようになったのが意外だったよ。もうすっかり、良心なんて無くなったものだと思っていたから」
「平日の真昼間から公園で茫とする成人男性は目立つだろ」
「まあね。色んな人にジロジロ見られたし。でも悪い事ばかりじゃなかったよ。瞳ちゃんが僕を見つけて、色々と話しかけてくるようになったんだ。学校の試験の事や友人との喧嘩の事、陸上の大会で賞を取った事、陸上選手の夢を目指して再び走る事の出来る喜び……眩しくて、温かい。久々に強くて優しかった両親の腕に抱き締められた時の感覚を思い出せたよ。本当に楽しかった」
「さて、君にとっての本題だ。未来から来た方の瞳ちゃんの事だが、どうやら僕の死を回避させようとしているみたいなんだ。残念だけど、それは避けられない」
「どう言う事だ? 未来に干渉できれば死因も回避も出来そうなものだが」
「悪魔との契約には有効期限が付きものだ。膨大な魔力と永遠の若さ。その代償として、僕は寿命が定められているんだよ。とは言え、この契約のおかげで人間を超えた寿命まで貰えたんだから、ぼったくりなんて言えないよ」
「足搔かないのか?」
「……彼女には感謝しているんだ。あの時、瞳ちゃんがあの男の前に現れなかったら。きっと今も、真実に気付かずに悪行を続けていただろうからね。あの娘との交流で僅かばかりの良心を取り戻せた。この手を染めた悪行に申し開きは出来ない。だけど、胸を張って自慢できる善行を一つだけでも行う事が出来たんだ。これも借り物の魔力があってこそ。汚点だらけの僕の人生にも確かな意味があったと誇る為、契約の代償はきっちり支払わなければならない。ただ、心残りがある。瞳ちゃんにあげた護符の事だ」
「何か問題でもあるのか?」
「僕の魔力はどこまでいっても付け焼刃でしかないという事だよ。かれこれもう六回も僕の死を回避させる為に時を超えて彼女は会いに来ている。そろそろ、僕が作った急造の護符では限界だ。これ以上は怪物共の鼻を欺けない。そこで君に頼みたい事がある」
「害獣の駆除……」
「それと、瞳ちゃんが僕の死を受け入れてくれるよう伝えて欲しい。彼女は強い。僕がいなくても前に進める娘だ。そんな彼女が僕のような悪党に固執したせいで未来に勧めなくなるのは望んじゃいない。依頼の報酬に関しては……」
孔明はその言葉を遮り、ゴングの手元を指し示す。ぬるくなった缶のお汁粉がそこにあった。
「とりあえず、報酬はそいつでいい。俺は甘味に目が無くてな」
「有難う。悪徳に塗れた碌でもない人生だったけど、あの娘と出会って救われた。これで安心して地獄に逝ける。じゃあ、お別れだ」
助けた少女に関する懸念が晴れたのだろう、晴れやかな笑顔。それが向けられるのと同時に、孔明の意識が霞んでいった。
気が付くと、孔明は元の住処に立ち尽くしていた。時間遡行薬を飲んだ時と同じ姿で。
時計に目を向けると、全くと言っていいほど時間が経っていない。
ほんの一瞬の夢と思っても不思議ではない。しかし、孔明はそうではない事を即座に理解できた。
手には錠剤を飲むまで存在していなかったお汁粉の缶。そして、部屋の角から立ち上る青黒い煙。
淡い月明かりの中、岡野瞳は金之光追憶会館に向かっていた。彼女の首元では、恩人から貰った首飾りの紅玉髄がかすかな光を反射している。
今回も駄目だった。時を遡り、自分の脚を治してくれた恩人にどれだけ忠告をしても、この時間軸ではゴングは故人のまま。
それでも、瞳は諦めるつもりなど毛頭なかった。不審死を遂げた恩人をどうにかして救いたい一心で、彼女は過去に挑み続ける。
事件で亡くなった岩竹会長には申し訳の無さでいっぱいだ。過去を変える事を良しとしない人だった。それでも瞳には時間遡行薬が必要だった。会長は瞳が未だに過去に囚われていると知っても、振り切れるまでは手を貸してくれると言ってくれた。まさか、カルトの理念を理解しているはずの瞳が過去を変えよう等とは思いもしなかったのだろう。
日中、警察とマスコミ、野次馬でごった返していたのとは打って変わって会館は静まり返っていた。大量殺人があった後だと不気味に感じない事も無かったが、無人である方が瞳には有難い。
会館の扉は開いていた。随分と不用心に思いつつも、侵入の手間が減った事を素直に喜びつつ会長室に向かう。昼間に窓から忍び込んだ部屋だ。迷いのない足取りで部屋に入った瞳は、窓から漏れる月光に照らされる人影を認めた。微かな光が無ければ、闇に溶け込んでしまいそうな黒尽くめ男。
「よう」
「……あんた、昼間の……」
瞳が見知った顔だった。昼間、会館に忍び込んだ時に鉢合わせた男。塔孔明だった。
「一錠だけじゃ足りなかったようだな」
孔明は瞳の前で、右の掌にある数粒の錠剤を見せつける。
「これを取りに来たんだろ? 残念だがここにある分しかないぞ。瓶の方は刑事さん達が回収していったからな」
「それ、くれるの?」
「やらん」
きっぱりとした否定と共に、コートに納まる右手。
「俺も一錠試してみてな。ゴングからの伝言を貰って来た」
「ゴングさんから?」
「あいつは死を受け入れている。どんなに足搔いても避けられない事だ。その元凶を断とうとするならば、お前の脚は治らない。お前もアイツの死を受け入れて前に進め。お前が前に進めないとあいつは安心して眠れない」
「……でも。私はあの人に何一つ恩返しできてない。治らないはずの怪我だったんだ。どんなに頑張っても走れなくて、今まで頑張っていた全てが無意味になりそうで怖かった。明るく振る舞ってはみたけども、本当は歯を食いしばって耐えていただけで、凄く怖かったんだ。怖くて……本当に怖くて……でも、あの人が怖さを取り除いてくれたんだ。魔法ってあるんだって思った。ゴングさんが私の脚に手を翳した。それだけで、動かなかった脚が治っちゃった。それと一緒に、折れそうな心まで治してくれたんだ。だから、私はあの人に何かを返さなきゃならないんだ。あの人が黙って死んでいくのなんて、そんなの耐えられないよ……」
「もうお前は返しているよ」
「え?」
「あいつ、元は結構な悪党だったそうだ。だが、お前を治した事が切欠で良心を取り戻せたって感謝していた。お前を治した事であいつは人生に意味を見出せたんだ。あいつはお前が過去に囚われるのを良しとしない。あいつに報いるなら、あいつの死を受け入れて前に進むべきじゃないのか?」
瞳は俯いて黙り込む。ゴングは既に救われている。そう言われても、心の整理がまだつかない。肯定でも否定でもいい。何かを口にしないといけない。そう思って顔をあげる。
だが、瞳が言葉を発する前に、孔明が強い口調で遮った。
「何よりだ。あいつは自分が原因でお前が死ぬのを望んじゃいない。いいか、お嬢さん。時間を遡るって行為にはリスクが付きまとうんだ。それに気付けなかったから、ここの連中は無残な末路を辿る事になった。このまま同じ事を繰り返すと、お前もここの連中の後を追う事になる」
どことなく、焦りを感じさせる口調だった。聞かん坊に言い聞かせるように言葉を紡ぎながら、しかし孔明の視線は部屋の隅に向けられていた。
「……あいつの言う限界が来たようだ。もう、その護符ではお前を守り切れないらしい」
彼女は見た。部屋の隅から青白い煙が立ち上るのを。
刺激臭が鼻を突く。煙は生けるがごとく一ヵ所に集まり、形を成す。
異形の獣がそこに居た。敵意と嗜虐心に満ちた眼光が瞳を射抜く。
「なに……あれ……」
「ぼーっとしない! 逃げるぞ!」
この世ならぬ存在を目にして唖然とする瞳の手を引き、孔明は廊下へと飛び出した。周囲に立ち上る複数の煙を目にしても、躊躇せずその場を横切っていく。
後ろを振り返る事も無く瞳は感じていた。実体化した獣達の息遣いが聞こえてくるようだった。
広間に足を踏み入れた瞬間だった。既に実体化していたらしき一匹の猟犬が瞳に飛び掛かるのを、孔明はその身を盾にして庇う。
獣の牙が腕に食い込み、振るわれる爪が頬を傷付ける。頬から流れ出る血が、針のような舌が蠢く口内へと吸い込まれていく。
孔明は渾身の拳を猟犬に叩き込んだ。噛み付かれた左腕ごと、猟犬が吹き飛ぶ。その様子を目にした瞳が小さな悲鳴を上げた。
「手……手!」
「心配御無用。そっちは義手だ」
肘から垂れたコートを袖をひらつかせ、瞳の心配に答える。
猟犬は口の中に感じる異物感に眉を顰め、忌々しそうに義手から口を離す。
噛み付かれた牙の痕、黒い手袋に包まれた義手が肌目を晒していた。
合流する猟犬達。その数、六匹。取り囲むかのようにジリジリと部屋の角へと瞳達を追いやっていく。威嚇するように長針の如き舌をちらつかせながら。
恐怖に駆られながらも、どうする事も出来ない瞳。対して、孔明の表情は異様なまでに平常心を保っていた。
「……角に来ても援軍は無し。六匹、これで全部か」
孔明の視線は猟犬に向いてはいない。周囲を取り巻く猟犬の唸りに気にした様子もなく、その後方に向かって声を掛ける。
「出番だ、相棒」
瞬間、肌に突き刺さる激痛に身が悶える。飛び掛かろうとした六匹の猟犬を襲ったのは金色の触手のようなものだった。それは後方に転がっていた義手に繋がっている。自らの精気が義手へと吸い取られて行くのを獣たちは感じた。
義手が膨れていく。黒手袋を破ったそれは、掌を根の様に大地に踏みしめて立ち上がる。まるで枯れた切り株のようなそれから、ギョロリと大きな単眼が覗いた。
突き刺さった触手を振りほどこうと暴れる獣達を睥睨しながら、奇怪な朽木から黄金の気根が無数に伸ばされ、猟犬達を荒々しく拘束していく。
やがて、触手が解かれた。そこに横たわっていたのは精気を吸い尽くされ干からびた異形の獣の亡骸六つ。
腰を抜かし、へたり込んだ瞳に孔明は苦笑する。
「まあ。そりゃビビるわな。囮に使って悪かった。怪我はないな?」
その言葉に何とか頷く瞳の側に、例の朽木がやってくる。それは瞳の身体の様子を単眼でしげしげと眺め、異常が無いと見るや孔明の側に近付いた。
孔明を見上げる朽木の怪物が、見る見るうちに小さくなっていく。それと同時に先を失った左肘に黄金の気根をゆっくりと突き刺していき、孔明の左腕に自らを縫い付けた。触手から、猟犬から奪った精気が孔明に流れ込んでいく。瞬くも間もない程の速さで猟犬に傷付けられた頬の傷が塞がった。
「あんがとさん、相棒」
怪物は「いいってことよ」と言わんばかりに瞬き一つ。信頼関係に満ちた両者の視線が交わった後、怪物は再び異形の義手へと姿を変えた。
ぱきん、と音がした。
「……あ」
その音に正気を取り戻した瞳は、首飾りの紅玉髄が割れているのを認めた。
それは、恩人からの別れの言葉のように聞こえた。それと共に、瞳にはそれが背中を優しく押してくれたように思えたのだった。
「あいつにも全く困ったもんだ。なあ、相棒」
佐藤心霊クリニックの門をくぐりながら、孔明は呆れた様子も隠さずにいた。
早朝に送られてきたロビンからのメールを思い起こす。
『車輪党に本を送るから手を貸して~Byかっこかわいいロビンさん』
このようなメールが来るのは初めてではなかった。そして、大抵の場合は寝床もなくなるくらいに部屋を占拠している本の数々を片付ける手伝いをさせられるのだ。報酬は昼食の奢り。正直割に合わない。
読まなくなった本は定期的に本部に送れと口を酸っぱくして言っているのだが、何度注意しても「急に読み返したくなったら困るじゃない」の一点張り。気になる文章はメモ帳代わりの影の書に逐次書き写しているというのにも拘らず、である。
扉を開くと、そこには近所の老人と談笑しているどう見ても堅気には思えない強面の男達。無料で治してもらっては悪いと気を利かせた患者達が持ち込んだ様々な品が部屋の端に積み上げられている。いつものクリニックの日常の中、孔明は裏家業の男の傷の様子を確認している意外な顔を見つけた。
「瞳嬢ちゃん? 何でここに?」
「どうも。久しぶりね。佐藤先生の志に感動しちゃって弟子入りしたのよ。私みたいに怪我で泣く子の手助けになりたくて」
「そりゃご立派な事だが……陸上の方は良いのか?」
「知らないの? 陸上選手の選手寿命って結構短いのよ? これは夢の先で見る夢よ。陸上を引退した後で見る、ゴングさんがくれた夢」
そう告げる瞳の双眸に迷いはない。過去を受け入れ、前に進む事が出来たようだった。
「お~い、コーメー! 来たんなら早く手を貸してよ~! これじゃロビンさん、今日は部屋で眠れないじゃないか~!」
二階から孔明に呼びかける声。見上げてみると、そこには見知った顔二つ。依頼主のロビンと、孔明と同じく手伝いに来たらしい要の姿。
「部屋が片付いていても徹夜で読書するくせに……」
「何か言った~? 聞こえないよコーメー」
「何でもない」
二階へと昇る最中、振り返って瞳を見る。
患者との会話の中、朗らかに笑う瞳の胸元には護符の首飾り。割れた紅玉髄が彼女の未来を祝福するように輝いていた。