六月の帰り道
いつもの帰り道でいきなり普段とはちがったことにでくわすと、その後一日中、その出来事にとらわれたり、どうかするといつになってもふっと思い出してはぽっと赤面したり、さっと両手に顔を覆いかくしたりします。
あの時のわたしもそうでした。六月にはいったばかりで、そろそろ梅雨の季節ですがそれほど暑くもなく、穏やかに過ごせる天気でじめじめもしておらず、おもてを歩む足取りも自然とはずみます。
その頃は二十歳で、今よりも若くて初々しいわたしは、大学からアパートへの帰り道を歩いていました。午後四時頃のことで、明るくて柔らかい太陽は地平線よりもまだだいぶ上にまぶしく光っています。
真夏ではないとはいえ、わたしはふいに怖くなって、鞄から折りたたみ式の日傘をとりだし、ゆっくりとひらいて肩にのせました。
白い生地を黒で縁取ったところがお気に入りで、わたしは日傘を差して安心するまま、ふたたび歩きだしたのですが、まもなく左側がまぶしいのに気がつきます。これははじめから気づくべきことで、太陽はそっちへと沈んでゆこうとしているのですから当たり前です。
わたしはそちらのほうに傘を向けかけて、少しためらいました。不格好になるような気がしたからで、そのまま左右を見まわし、それから後ろをふりむきました。人はまばらで、特別こっちを見てはいないようです。
そう気がつくとともに、たちまち恥ずかしくなって、とたんに頬がぽかぽかしてきました。誰も見ていないこと、誰もわたしを見てくれないこと、その事実にふいに打ちのめされて、顔が真っ赤になりました。
自分の顔が赤くなったかどうかなんてわかるはずがないと、おっしゃるかもしれませんが、あの時のわたしを今のわたしが柔らかなヴェールをとおして、親しくながめるようなつもりでいるのです。
その時のわたしはうつむいて、サンダルを履いた足のつまさきをぼんやり見つめながらとぼとぼと歩むうち、目についた小石を左足でけると、それはぴょんぴょんと跳ね転がって、まもなくぴたりと止まりました。
わたしも立ちどまって白い日傘で黄色い太陽を遮り、まっすぐのびたシャフトを親指と人さし指の谷間にそっとのせて、折りたたみ傘の円筒形の持ち手をくるくるとまわしました。傘が回転するとともに、白い生地のむこうで、金色のひかりがやさしく揺らめいて、きらきらと踊りだし、わたしはあまりの心地よさにうっとりしてしまいました。
きっとそれほどの時間は流れていなかったと思いますが、甘くて柔らかなひと時を過ごすうち、ふいに気配を感じて、わたしは急に寒気をおぼえるままに肩をぶるっと震わせ、くるくると回していた手を止めてそっとそちらを向こうとして、ぴたりと思いとどまります。
日が沈むのはまだまだ先であり、見通しの良い一本道ですから、何の危険もないはずと自分に言い聞かせながらも、日傘で顔をかくしつつ、ずんずんと前にすすみました。ですが足音は容赦なく近づいてきます。
きっと怖い人につけ狙われているんだと、ますます早足になりかけたものの、サンダルの足元はおぼつかず、こんなことならスニーカーにするんだったと思わず泣きべそをかいて後悔したのもつかの間、
「さと美」
とわたしの名前を親しく呼びかける男性の、はっきりと耳馴染みのある、わたしにとってとても甘く切なく響く声がしました。
それでもびくっとしながらも、声の主はきっと思い描いている人にちがいないと、わたしはゆっくりふりかえります。
「何で逃げるんだよ」
「だって。怖い人だったらどうしようって思って」
彼からの問いかけにそう答えると、わたしはふっと照れくさくなって、それから安堵の気持ちが満ちるままに彼をしっとりと見つめて、やさしく微笑んでいました。
「明日、会えるから」彼はぶっきらぼうに、それでいて穏やかに言いました。
「そう。嬉しいけど。メッセージでもよかったのに。走ってこなくても」
「だけど、見えたから。さと美が見えたからさ」
「そっか」わたしはふわふわと嬉しさがこみ上げるままに、ゆらゆらと小さくゆれていました。
「うん。じゃあ、また明日」
彼はそう言うなりくるりと向き直ると、背の高い大きな背中を見せたまま、片側から黄色くて暖かい太陽をうけながら、来た道をもどっていきます。
わたしはその姿に小さく手をふりながら、愛おしく見守るうち、彼はちらっとふりむきました。
するとこちらへ爽やかに微笑んで、それからまっすぐに大学へ向かっていくのを、わたしはいつまでも微笑ましく見送っていましたが、今更のように先ほど彼と知らぬまま逃げ出そうとしたのが恥ずかしくなって、はあっと溜息をつきながら横をむいたとたん、ぴったり目にはいった晴れやかな太陽に完敗するままぎゅっと目をつむりました。
読んでいただきありがとうございました。