第93話:諦めて楽になりなよ
隼人が…。
ファーストゲームを隼人に取られてしまった彩花ではあったが、それでも六花は全く動揺していなかった。
転んでも、ただで起きるつもりはない。試合内容は全て六花の想定の範囲内なのだ。
ベンチに座って愛美から水筒を受け取った彩花の肩を、六花が穏やかな笑顔で優しく抱き寄せる。
「残念だったわね彩花。だけど想定内よ。ファーストゲームは取られてしまったけど、隼人君のスタミナを削る事には成功したわ。」
そう、彩花の持ち味である『ねちっこい攻め』によって、隼人のスタミナを削る事には成功したのだ。
それと引き換えにファーストゲームを取られたのなら、勝利の代償としては充分安い。
最終的にセカンドゲームとファイナルゲームを取る事さえ出来れば、彩花の勝ちなのだから。
「セカンドゲームも、この調子で…。」
「あはははははははははははは!!」
だがそんな六花に対して、彩花が妖艶な笑顔を見せたのだった。
「私がハヤト君から奪ったのはスタミナだけじゃないよ?お母さん。」
「…あ…彩花…!?」
そして反対側のベンチでは、隼人が息を切らしながら、倒れ込むようにベンチにもたれかかっていた。
そして駆から水筒を受け取り、ポコンと飲み口を露出させる。
「よくやったわね隼人君。彩花ちゃんからファーストゲームを取れたのは大きいわよ?」
「…はぁっ…はぁっ…はぁっ…!!」
彩花の『ねちっこい攻め』によって、隼人のスタミナが相当削られてしまったようだ。
やはり彩花は強い。ファーストゲームは奪えたものの、そのしっぺ返しを情け容赦なく食らわされてしまった。
それだけではなく六花の的確な采配も組み合わさり、隼人に牙を向いているのだ。
きっと六花は今、こう思っているのだろう。
隼人にファーストゲームを取られたのは想定通りだと。隼人のスタミナを削る事が出来たのなら安い代償だと。
だがそれでも美奈子は、簡単に勝利をくれてやるつもりなど微塵も無い。
美奈子もまた六花と同じように、母親として、監督として、セカンドゲームを戦う隼人を全力で勝利へと導くつもりだ。
美奈子の想定以上に隼人のスタミナを削られてしまったが、それでも美奈子には勝ち筋が充分に見えている。
勿論勝負の世界に絶対は無いが、それでも今の隼人が彩花に『勝てる』という自信が、美奈子にはあった。
「…うっ…!!ゲホッ!!ゲホッ!!ゲホッ!!」
「お、おいおい隼人、慌てずにゆっくり飲めって。」
駆になだめられる隼人の姿を、慈愛に満ちた瞳で見つめる美奈子だったのだが…。
何だろう、今の隼人から感じる違和感というか…美奈子の胸から溢れる胸騒ぎのような物は…。
「セカンドゲーム、ラブオール!!聖ルミナス女学園1年、藤崎彩花、ツーサーブ!!」
そんな中でセカンドゲームが、遂に始まった。
ラケットを左手に持ち、彩花を見据える隼人。
相変わらず妖艶な笑顔を浮かべたまま、隼人を見据える彩花。
そして壮絶なラリーの果てに彩花が放った、渾身のシャドウブリンガーが…。
「0-1!!」
隼人の足元に突き刺さったのだった。
彩花の先制点で開幕したセカンドゲーム。観客たちは大いに熱狂するのだが…。
「ダクネスさん…多分ですけど、須藤君は藤崎さんに味覚を奪われてます…!!」
「何だと!?馬鹿な!?」
悲痛の表情で断言した詩織に、ダクネスが驚きの表情を見せたのだった。
詩織はアナライズで、瞬時に分析したのだ。
隼人の呼吸が、本来なら有り得ない程までに乱れているという事を。
詩織も当初は彩花の『ねちっこい攻め』によって、隼人のスタミナが詩織の想定以上に削られた物だとばかり思っていたのだが。
それにしては隼人のプレーの1つ1つが、あまりにも精彩を欠いていたのだ。
それは隼人が彩花に、味覚を奪われてしまったからだ。
味覚を奪われれば、呼吸が乱れる。
そして呼吸を乱されれば息苦しさで身体が重くなり、普段通りのプレーが出来なくなってしまうのだ。
先程、麦茶を飲んだ隼人が思わず咳き込んでしまったのは、味覚を奪われた事に気が付いて動揺してしまったからだ。
美奈子が感じていた胸騒ぎの正体は、まさにこれだったのである。
「そんな馬鹿な!?何でだよ月村!?だってあの2人はスイスに居た頃からの幼馴染なんだぞ!?須藤が藤崎に恐怖心なんか抱く訳がねえだろ!!」
確かに雄二の言う通りだ。隼人は彩花に恐怖心など抱いてはいない。
彩花の黒衣による五感剥奪は、対戦相手が彩花に対して恐怖心を抱き、肉体と精神が過剰な防衛本能を働かせる事によって起きる現象だ。
実際に黒衣が暴走した彩花を目の前にしても、隼人は勇猛果敢に立ち向かっている。
それなのに隼人は、彩花に味覚を奪われてしまったのだ。
一体何故…!?自身も一度彩花に五感を奪われた経験があるだけに、意味が分からないといった表情を見せた雄二だったのだが。
「私には分かるよ。今の隼人君の気持ちが。苦しみが。」
ただ1人、亜弥乃だけは見抜いていた。
彩花に恐怖心を抱いている訳でも無いのに、どうして隼人が味覚を奪われてしまったのかを。
「多分だけど…劣等感じゃないかな?」
亜弥乃は悲しみに満ちた表情で隼人を見つめながら、雄二たちに自らの考えを説明したのだった。
確かに隼人は強い。明らかに高校生離れした実力を持っており、下手なプロが相手なら鼻くそをほじりながらでも勝てる程の選手だ。
そして隼人の持ち味はダクネスが言うように、極限まで徹底的に磨き上げた『基礎』。
楓や静香のような特別な必殺技は何1つ持っておらず、プレーの1つ1つに派手さは無いものの、それでもプレーの1つ1つが凄まじいまでの威力と精度を誇っている。
だが逆に言うと、『ただそれだけ』なのだ。
相手の技を一度見ただけで即座にラーニングして、自分の物にしてしまう彩花。
相手の動きを一度見ただけで即座にアナライズして、弱点を丸裸にしてしまう詩織。
夢幻一刀流の幾つかの技を習得し、それらを活かした強力な必殺技を有する静香。
そういった独自の強みが、隼人には無いのだ。
確かに隼人は基礎を極限まで磨き上げて、必殺級にまで昇華させたのだが。
それは隼人には『そうするしか他に選択肢が無かった』からなのだ。
何故なら隼人には彩花のように相手の技をラーニングしてしまう事も、詩織のように相手の動きをアナライズしてしまう事も出来ないから。
そんな器用な真似は、隼人には到底出来ないから。
だから隼人は彩花に対して心の奥底では、それこそ自分でも気付かない程の無意識の内に、幼少時から劣等感を抱いてしまっていたのだろう。
その劣等感が彩花の黒衣によって増大させられ、隼人は彩花に味覚を奪われてしまったのである。
先程、支部長は隼人の事を『天才の成り損ない』などと酷評していたが…支部長の言っていた事は決して間違っているとは言えないのだ。
基礎を極限まで磨き上げる事しか能が無い隼人など、『天才』とは程遠い。
彩花や詩織、静香のような、他の誰にも真似出来ないような優れた一芸を有する選手こそが、『天才』と呼ぶのに相応しいのだから。
そして六花もまた今のワンプレーだけで、隼人が彩花に味覚を奪われてしまった事を即座に見抜いていた。
慌てて立ち上がった六花は心配そうな表情で、隼人に声を掛けようとしたのだが。
「隼…!?」
言いかけた六花を、隼人が彩花を見据えたまま、とても真剣な表情で右手で制したのだった。
自分に対して心配そうな素振りを見せるなと、無言で六花に対して圧力を掛けている。
それは確かに試合前に、隼人が六花に頼んだ事でもあるのだが。
(隼人君!!貴方まさか、こうなる事さえも想定していたとでも言うの!?)
彩花に五感を奪われる事を覚悟してまで、それでも隼人は六花に対して、自分の事を心配する素振りを見せるなと、自分に一切合切声を掛けるなと、そう告げたとでも言うのか。
だとしたら六花にとって、こんな物は生き地獄も同然ではないか。
六花にとって隼人は、彩花と同じ位、とても大切な存在なのだから。
その隼人が目の前でこんなにも苦しんでいるというのに、手を差し伸べないで欲しいと。
しかもその元凶となっているのが、他でも無い彩花なのだ。
それが六花にとって、一体どれ程の苦痛を伴う代物なのか…。
だが六花の悲しみも虚しく、彩花の猛攻は続く。
隼人から味覚を奪った事で、セカンドゲームは完全に彩花の独壇場と化してしまっていた。
「もういい加減、諦めて楽になりなよ!!ハヤト君!!」
彩花のクレセントドライブが、隼人のラケットを情け容赦なく空振り三振させる。
「2-9!!」
「諦めてたまるかよ…!!」
それでも隼人は諦めない。味覚を奪われても懸命に彩花に挑んでいく。
「今の僕は…!!六花さんの想いも背負って…!!君と戦っているんだからなぁっ!!」
「3-9!!」
「んもう、本当、しつこいんだから…。」
隼人の渾身のスマッシュが、彩花のコートのラインギリギリに突き刺さった。
ユニフォームの袖で、顔の汗を拭う隼人だったのだが…。
美奈子が愛情を込めて洗ってくれたユニフォームから、柔軟剤の香りが感じられない事に、隼人は歯軋りしたのだった。
「くそっ、今度は嗅覚かよ!!」
ねちっこく、ねちっこく、ねちっこく、彩花の黒衣が隼人の心と身体を、少しずつだが確実に侵食していく。
嗅覚を奪われた事で隼人の息苦しさは、さらに深刻さを増してしまっていた。
身体が重い。全身に重りでも乗せられたかのように、思うように動かせない。
それが隼人のプレーの精度を、さらに低下させていく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!!」
「あははははははははは!!」
「5-15!!」
彩花の維綱に辛うじてラケットを当てるものの、それでもあまりの威力にラケットを吹っ飛ばされてしまう。
ファーストゲームの時は、あっさりと返す事が出来ていたと言うのに。
その隼人の左手からは、最早痛みや痺れすら感じられない。
まるで自分の身体ではないかのように、感覚自体が無いのだ。
「隼人君!!まさか触覚が!!」
青ざめた表情で左手を何度もグーパーする隼人の姿に、今度は隼人が触覚を奪われたのだという事を、美奈子は即座に見抜いていた。
これではもう、ラケットを満足に握る事すら出来ない。
維綱やシャドウブリンガーのような強烈な威力のスマッシュを返す事など、最早絶望的だと言えるだろう。
「6-18!!」
それでも隼人は懸命に彩花に向かっていくものの、今度は彩花のシャドウブリンガーに反応すら出来ず、ただ棒立ちのまま立ち尽くすのみだ。
「ねえねえ武藤コーチ。須藤選手、何で今のスマッシュに対して棒立ちなんですか?さっきまで反応出来てたのに…。」
「…藤崎彩花に、聴覚を奪われたからだ…!!」
苦虫を噛み締めたような表情で、直樹は隼人の無様な醜態をモニター越しに見つめていたのだった。
隼人が棒立ちなのは彩花に聴覚を奪われた事で、隼人の平衡感覚に影響が出てしまっているからだ。
彩花に五感を奪われた雄二や力也が、無様に倒れ伏してしまったように。
恐らく今の隼人は、まともに立っているだけでも辛い状態なのだろう。
それを直樹は今の隼人のワンプレーだけで、即座に見抜いたのである。
「8-20!!」
味覚も、嗅覚も、触覚も、聴覚も、彩花に奪われてしまった。
だが隼人はまだ、戦える。
まだ隼人には、視覚が残っている。
隼人の瞳からは、まだ希望の光は消えていない。
「くっ…くそっ…!!僕はまだ…っ!!」
触覚を失った左手で隼人はスマッシュを放つものの、当たり前の話だが触覚を失った状態でまともなスマッシュなど打てるはずもなく、彩花に天照であっさりと迎撃されてしまう。
そして。
「ゲーム、聖ルミナス女学園1年、藤崎彩花!!8-21!!チェンジコート!!」
セカンドゲームは、終わってみれば彩花の圧勝だった。
いいや、圧勝というよりも、最早彩花による隼人の公開処刑となってしまっていた。
とても苦しそうな表情で膝に両手を当てながら、息を切らす隼人。
そんな隼人の無様な醜態を、妖艶な笑顔で見つめる彩花。
その2人の姿に六花は、目から大粒の涙を浮かべながら、とても辛そうな表情をしていたのだった。
一体全体、どうしてこんな事になってしまったのか。
こんな物は最早バドミントンとは言えない。ただの彩花による一方的な虐殺ではないか。
そしてこの期に及んでなおも隼人は、六花に対して自分に声を掛けるなと言うのか。
未だ瞳から希望の光が消えていない隼人が、右手で六花を制するような仕草を見せているのだ。
六花さんには最後の最後まで、彩花ちゃん『だけ』の味方でいて欲しいと。
無言で六花にそう告げた隼人が、とても辛そうな表情でベンチに座り、美奈子の膝枕の上に頭から倒れ込む。
美奈子の匂いも、温もりも、膝の柔らかさも、今の隼人には感じられない。
だがそれでも隼人の瞳からは、まだ光が…。
「しっかりしろよ隼人!!絶対に藤崎に勝つって、あれだけ俺たちに意気込んでたじゃねえかよ!?」
なんかもう泣きそうな表情で、駆が水筒を隼人に差し出したのだが。
「…う…あ…。」
駆から水筒を受け取ろうとした隼人の右手が…完全に明後日の方向に向かっていったのだった。
虚ろな瞳で水筒を探し求め、右手をうろうろさせる隼人。
その隼人の痛々しい姿に、駆は愕然とした表情になってしまう。
「…隼人…お前まさか…視覚が…!!」
遂に最後に残った視覚までもが、彩花に剥奪されてしまった。
彩花の黒衣が隼人の心と身体を、そこまで侵食してしまっているのだ。
もうこれ以上は限界だ。どう考えても試合を止めるべきだ。
こんなの、最早バドミントンどころではない。それどころか今すぐにでも病院に連れて行かなければならない程の状態だ。
彩花の黒衣による五感剥奪は一時的な物に過ぎないと、緊急会議の時に六花が言っていたが…もうそんな悠長な事を言っていられる場合ではない。
即座にそう判断した美奈子が、母親として、指導者として、隼人を棄権させようと審判に呼びかけたものの。
「審判!!もう無理です!!隼人君を…!!」
「止めないでくれ!!母さん!!」
それでも隼人は美奈子の膝枕に抱かれながら、美奈子の右手を左手で掴んだのだった。
触覚を奪われてもなお、隼人の左手からは力強さが失われていない。
視覚を奪われてもなお、隼人の瞳からは希望の光が失われていない。
まだ隼人の心からは、『気持ち』が失われていないのだ。
「隼人君!!何を言っているの!?もうこれ以上は無理よ!!」
「頼む…!!続けさせてくれ…!!母さん!!」
「…隼人君…!!」
「ここでリタイアしたら…僕は一生後悔する事になるから…!!」
一体何が隼人を、ここまで突き動かしているのか。
最早バドミントンどころか、介護すら必要とする状態だというのに。
美奈子の膝枕から起き上がった隼人が、駆に差し出された水筒に口を付け、麦茶を一気飲みした。
美奈子が淹れてくれた麦茶から味が感じられないが、それでも美奈子の隼人への愛情は存分に伝わってくる。
それだけで充分だ。まだ隼人は戦える。
『気持ち』が失われていない限り、隼人は彩花を相手に戦える。
そんな隼人の痛々しくも勇猛果敢な姿に、思わず目に涙を浮かべてしまう美奈子。
美奈子もまた、六花と同じ気持ちだ。
こんなの、最早バドミントンとは言えない。彩花による一方的な虐殺ではないか。
そして幼少時から常に一緒にいて、あんなにも仲が良かった隼人と彩花が…どうしてこんな事になってしまったのか。
どうして彩花が隼人の事を、ここまで痛めつけるような事態になってしまったのか。
それを思うと美奈子は、溢れる涙が止まらなかった。
一体何故?どうしてこの2人が?と…。
それもこれも、周囲の身勝手な大人たちが、ここまで彩花を追い込んでしまったからだ。
自分たちの身勝手なエゴによって、彩花を限界以上に苦しめてしまった結果、黒衣に呑まれた彩花の心が壊れてしまったのだ。
彩花と戦った対戦相手の誰もが…それこそ隼人や静香でさえも、五感を奪われてしまう程までに。
それ程までに今の彩花の黒衣は、過去最大級なまでに暴走し、歯止めが掛からなくなってしまっているのだ。
『お待たせ致しました。只今よりファイナルゲームを開始します。』
だがそれでも試合は、情け容赦なく進行していく。
2分間のインターバルが終了し、ウグイス嬢がファイナルゲーム開始を告げたのだ。
バンテリンドームナゴヤがどよめきに包まれる最中、よろめきながらも立ち上がり、ラケットを左手でしっかりと握り締め、コートへと向かう隼人。
そんな隼人を妖艶な笑顔で見つめながら、コートへと向かう彩花。
隼人と彩花の決勝戦は、一体全体どうなってしまうのか。
五感を全て剥奪された隼人に、果たして勝機はあるのか。
「ファイナルゲーム、ラブオール!!稲北高校1年、須藤隼人、ツーサーブ!!」
「ハヤト君、まだやるつもりなの?はぁ、しょうがないなぁ。」
「…最後まで…油断しない事だ…彩花ちゃん…!!」
運命のファイナルゲームが遂に始まり、隼人は彩花に対して左打の変則モーションの構えを見せる。
「だったらさぁ!!徹底的に君の事を壊してあげるよ!!あははははは!!あははははははははははは!!あーーーーーーーーーーーーーーはははははははははははは!!」
満身創痍ながらも『気持ち』を失わない隼人の心を、今度こそ完璧にへし折ってやろうと、彩花が妖艶な笑顔で高笑いをしたのだった…。
次回、五感を全て失ってしまった隼人に、差し伸べられた救いの手が…。




