第81話:そんなの、どうだっていいですよ
現実にパンチ頭みたいな奴っていそうだよね。
幾ら何でも、遅過ぎる。
試合開始まで残り5分を切ったというのに詩織がまだ戻って来ない事に、静香は言いようのない不安を感じていた。
たかがトイレに行って戻ってくるだけで、こんなにも時間が掛かっているというのは、どう考えてもおかしいだろう。
試合開始時刻までに詩織が戻って来なければ大会規定により失格になってしまうのだが、静香はそんな事よりも詩織の安否の方が気になって仕方が無かったのだった。
「審判、私、ちょっと詩織ちゃんの様子を…っ!?」
だが静香が審判に言いかけた、その時だった。
ようやくおしっこを済ませた詩織が、とても辛そうな表情で、捻挫した右足を引きずりながら戻ってきたのだ。
その詩織の異常な姿に、マッチョも静香も顔面蒼白になってしまう。
慌てて静香とマッチョと審判が、とても心配そうな表情で、詩織の下まで駆けつけてきたのだった。
「月村!!お前、一体今まで何をやってたんだ!?」
「ま、増田監督…っ!!」
「お前、その右足首…!!」
詩織が右足を痛そうに引きずっているのを目撃したマッチョは、取り敢えず詩織を床に座らせ、即座に詩織の右足首の状態を確認。
その右足首の状態から、マッチョは捻挫をしている事を瞬時に見抜いたのである。
「これは…!!右足首を捻挫しているな…!!」
「捻挫って…詩織ちゃんは大丈夫なんですか!?」
「パッと見た限りでは、幸いにも症状は軽そうだ。だがこれでは試合に出るなんて到底無理だ。取り敢えず患部を冷やして固定して、すぐに病院に連れて行かないと…!!」
「そんな…!!」
「誰か、そこに置いてあるメディカルキットを持ってきてくれないか!?」
「わ、私が持ってきます!!」
静香に手渡された緊急用の救急箱から医療器具を取り出し、それらを使ってテキパキと詩織の患部に応急処置をするマッチョ。
その様子を静香と審判が、とても心配そうな表情で見つめていたのだった。
まさかの事態に東京体育館全体が一転してざわめいてしまい、異様な雰囲気に包まれてしまっている。
もうすぐ準決勝第1試合が始まると言うのに…よもやこんな事態になってしまうとは。
一体詩織の身に、何があったというのか…。
「ま、増田監督!!わ、私、試合に出ます!!」
このままでは静香が不戦敗になってしまう…それを危惧した詩織が泣きそうな表情でマッチョに訴えたのだが。
「お前、何を馬鹿な事を言ってるんだ!?」
それをマッチョが、とても真剣な表情で怒鳴り散らして一蹴したのだった。
「捻挫を甘く見るな!!放っておけば今後バドミントンが出来なくなるばかりか、日常生活にも支障が出る事態にもなりかねないんだぞ!?」
そう、捻挫を甘く見てはいけない。
放っておけば患部の炎症が悪化し、傷ついた靱帯がさらに損傷し、症状が悪化する事になりかねないのだ。
そうなればマッチョの言うように重篤な後遺症を残してしまい、日常生活にも支障が出る事態にもなりかねない。
まず捻挫をした際にするべき応急処置は、今マッチョが詩織に対して施したように、患部に適切にアイシングを施した上で固定する事だ。
その上で接骨院や整体院などで、医師からの治療を受けて安静にしなければならない。
当たり前の話だが最早バドミントンなど、やっていられるような状況ではないのだ。
「だ、だけど、私が試合に出ないと、静香ちゃんが…!!」
それでも詩織は、試合に出ると譲らなかった。
大会規定では選手の交代は、いかなる理由があろうとも認められていない。
だからこそ詩織が、他でも無い詩織が、静香と共にダブルスの試合に出なければならないのだ。
そもそも静香は日本学生スポーツ協会から、今後は1人でダブルスを戦えば問答無用で失格にすると通達されているのだ。
学生スポーツとして相応しくないという、あまりにも理不尽な理由でだ。
「このままじゃ静香ちゃんが…失格になっちゃうよぉ…!!」
それを理解しているからこそ、目から大粒の涙を流しながら、必死にマッチョに懇願した詩織だったのだが。
「そんなの、どうだっていいですよ!!」
その張本人である静香が、なんかもう泣きそうな表情で、詩織の事を怒鳴り散らしたのだった。
「私が失格になろうが、そんな事はどうだっていいです!!」
「ど、どうでもよくなんか…!!」
「詩織ちゃんの方が大切に決まってるじゃないですかぁっ!!」
詩織の両手をぎゅっと優しく両手で包み込みながら、必死に詩織に訴える静香。
その静香の言葉に、詩織は嬉しさと申し訳無さが入り混じった、形容しがたい感情に包まれてしまう。
確かに今の静香には、隼人でさえも成し得る事が出来なかった、六花以来となる大会三連覇が掛かっている。
だがそんな物は、静香にしてみれば心底どうだっていい。
一体詩織に何があったのかは知らないが、捻挫を発症した詩織に無理をさせて、マッチョの言うように詩織の右足に後遺症を残すような事態になったら、それこそ静香は一生後悔する事になるだろう。
「ふう、さっぱりしたぜ。試合前のウンコは最高だな!!」
そこへ詩織を階段から突き飛ばした張本人であるパンチ頭が、何食わぬ笑顔でコートに戻ってきたのだが。
「ん?何やお前、もしかして右足首を捻挫したのかよ?これはもう棄権するしかねえなあ。早く病院に行かねえと大変な事になるぞ?」
事情を何も知らない観客たちにしてみれば、確かにパンチ頭の言っている事は正論も正論。反論のしようも無いのだが。
そのパンチ頭の言動とニヤニヤした表情に、静香とマッチョは何となく事情を察したのだった。
「…月村。落ち着いて話してくれ。お前、トイレに行った時に何があったんだ?」
「誰かに後ろから、階段から突き飛ばされたんです…!!」
「んなっ…!?」
「それで受け身を取り損ねちゃったみたいで…右足が…っ!!」
まさか教え子たちを勝たせる為に、そこまでするのかと。
怒りの形相で、パンチ頭を睨み付けるマッチョだったのだが。
「何やお前!!俺がやったっていう証拠でもあんのかよ!?ああっ!?」
それでもパンチ頭はニヤニヤしながら、逆にマッチョを睨み返したのだった。
マスクとサングラスと帽子で、あれだけ厳重に顔を隠していたのだ。
しかもマスクとサングラスと帽子を外す際も、物陰で周囲に誰もいない事を念入りに確認した上で行ったのだ。
だからこそ、絶対にバレてなどいない…『この時の』パンチ頭は、確かにそれを確信していたのだが…。
「…くそっ!!」
とても悔しそうな表情で、パンチ頭から視線を外すマッチョ。
絶対的な証拠がある訳でも無いのに、これ以上パンチ頭を追及する訳にもいかない。
そんな事をすれば逆にマッチョの方が名誉棄損で、パンチ頭から逆提訴されてしまう事にもなりかねないのだ。
そうなればもう、自分1人だけの問題では済まなくなってしまう。
妻と娘、それに部員たちにも迷惑が掛かる事にもなりかねないのだから。
「…増田監督。取り敢えず詩織ちゃんを病院に連れて行ったら、警察に被害届を出しましょう。」
そんなマッチョの心情を察した静香が、パンチ頭に聞こえないように耳打ちしたのだった。
「もしかしたら防犯カメラに、証拠となる映像が残ってるかもしれませんから。今ここで下手に騒ぎを大きくする方がまずいですよ。」
「…ああ、そうだな。」
こんな状況でも尚も平静さを失わない静香を、心の底から凄いと思ったマッチョだったのだが…静香もまた内心では怒り狂っていたのだった。
だが今、静香がパンチ頭を厳しく追及した所で、結局は何も解決などしない。
絶対的な証拠が残ってる訳では無い以上、パンチ頭にシラを切られて終了だろう。
だからこそ、その絶対的な証拠を見つけるのは、もう警察に任せるしかない。
「審判、聞いての通り、準決勝は棄権します。119番通報をお願い出来ますか?」
「わ、分かった!!ちょっと待っててくれないかな!?」
静香からの要請を受けてスマホを耳に当てながら、大慌てで大会運営スタッフの下へと走っていく審判。
その様子をパンチ頭が、ニヤニヤしながら見つめていたのだった。
『準決勝第1試合は月村詩織選手の負傷に伴い、愛知県代表・桜花中学校3年、朝比奈静香選手 & 3年、月村詩織選手ペアの棄権とし、東京都代表・百合ヶ浜中学校3年、猫山博子選手 & 3年、立川若菜選手ペアの勝利とします。』
やがてウグイス嬢からの場内アナウンスに、観客たちは大騒ぎになってしまう。
隼人が1回戦で敗北し、その隼人を負かした沙織までもが父親の急病を理由に2回戦を棄権するという、まさかの異常事態に陥ったシングルスに続いて、よもやダブルスでもこんな事になってしまうとは。
泣きながら担架で救急車まで運ばれていく詩織と、とても心配そうな表情で寄り添う静香の姿を、観客たちはとても心配そうな表情で見つめていたのだった。
こうして不戦勝という不本意な形で決勝戦まで進んだネコとタチは、決勝戦を壮絶な死闘の末に勝利して優勝。
静香と詩織は3位決定戦も棄権し、4位という結果に終わった。
だが表彰台に上がり金メダルとトロフィーを受け取ったネコとタチに、笑顔は全く無かった。
優勝インタビューにおいてネコとタチは、とても真剣な表情で、アナウンサーに対してこう告げたのである。
こんな形で優勝なんかしたって、ちっとも嬉しくないと。
朝比奈さんと月村さんとは、もっとちゃんとした形で戦いたかったと。
己の欲に目が眩んだパンチ頭の身勝手なエゴによって、結果として優勝を果たしたネコとタチまでもが、2人にとって一生の思い出に残るはずだった大切な大会を、台無しにされてしまったのである…
そして詩織を突き飛ばして負傷させたパンチ頭は、静香と詩織に勝つ事をすっ飛ばして優勝まで果たした事で、大会終了後に校長から特別ボーナスを増額されて30万円が支給され、事の真相を全く何も知らない校長から善意による笑顔で、心からの労いの言葉をかけられた。
かくして30万円もの多額の臨時ボーナスを受け取り、ウハウハのパンチ頭だったのだが…その夢気分は長くは続かなかった。
その翌日の朝、詩織を階段から突き飛ばして右足首を捻挫させた傷害の容疑で、警察に逮捕されたのである。
誰かに背中から突き飛ばされて階段から転落し右足首を捻挫したと、マッチョを通じて詩織から被害届を提出された事で、警察が東京体育館の全ての防犯カメラの映像を徹底的に分析。
その結果、帽子とサングラスとマスクを付けたパンチ頭が、詩織を階段から突き落として逃走した映像と、その帽子とサングラスとマスクを物陰で外したパンチ頭がニヤニヤしている映像が、はっきりと映っていたのだ。
これらの決定的な物的証拠が出揃った事により、警察はパンチ頭の逮捕に踏み切ったのである。
パンチ頭は逮捕直後は容疑を否認していたのだが、取り調べの際に突きつけられた上記の逃れようのない証拠に加え、さらに詩織のユニフォームの背中部分に付着していた指紋が、パンチ頭の指紋と100億%一致した事が判明した結果、一転して青ざめた表情で容疑を認め、特別ボーナス欲しさにやったと供述。
これによりパンチ頭は、百合ヶ浜中学校を懲戒解雇処分となってしまった。
後に起訴されたパンチ頭は刑事裁判において、動機があまりにも身勝手で峻烈極まり無く、情状酌量の余地は全く無いとして、裁判長から懲役1年の実刑判決を言い渡される。
目先の欲に目が眩んで先走った行動を起こした結果、パンチ頭は取り返しの付かない末路を辿る事になってしまったのだ。
この件はテレビのニュース番組でも大々的に特集が組まれるなど、とんでもない騒ぎになってしまったのである。
そして…静香と詩織は…。
次回、静香が…。




