第80話:私は静香ちゃんを照らす光になるんだ
金は簡単に人を変える。
それは静香と詩織が全国大会に出場する為に、桜花中学校バドミントン部の部員たちやマッチョと共に、東京行きの新幹線に乗っている最中の出来事だった。
「失礼致します。奥様、今、お時間はよろしかったでしょうか?」
オフィスの自室で書類のチェックをしている様子に対して、塚本が深刻な表情で話しかけてきたのだが。
「どうしたザマスか?あ~たは今、昼休憩の時間ザマスよ?どれだけ忙しかろうと休憩時間はしっかりと取らなければ駄目ザマスよ?セバス。」
「塚本です。そんな事よりも、早急に奥様のお耳に入れて頂きたい案件があるのです。」
あまりにも塚本が深刻な表情をしていた物だから、様子は思わず怪訝な表情になってしまう。
普段は常に冷静沈着な塚本が、ここまで深刻な表情になるとは…一体何事なのだろうか。
「現在、お嬢様とダブルスを組んでいらっしゃる、パートナーの月村詩織様に関して、事務員の者たちが気になる話をしていたのを、偶然耳にしてしまったのですが…。」
だが少し躊躇いながら塚本が語った驚愕の事実に、様子は興奮しながら顔を赤らめて激怒してしまったのである…。
「その…月村詩織様のパートナーとなったダブルスのペアの方々が、全員漏れなく何らかの不幸な目に遭っていらっしゃると。」
「…ぬああああああああああああああああんですってえええええええええええええええええええええええええええええ(激怒)!?」
バァン!!と両手で机を叩き、物凄い勢いで立ち上がった様子。
塚本が言うには、何でも事務員の女性の当時小学生だった娘が、詩織とダブルスを組んだ結果、階段から転げ落ちて左腕を骨折する事故を起こしてしまったらしい。
それだけではなく、他にも突然幼馴染の男の子と離れ離れになってしまったとか、飼っていた子猫が突然車に轢かれて死んだとか。
それ故に詩織は以前の中学校では、チームメイトたちから『疫病神』と呼ばれ、忌み嫌われていたのだと。
詩織が本当に疫病神なのか、それとも静香が詩織に言っていたように、ただの偶然なのか…それは塚本には分からない。
だがいずれにしても現実として、詩織とダブルスを組んだパートナーの女の子全員が、そういう目に遭ってしまっているらしい。
それで事務員の女性たちは、とても心配そうな表情で語っていたらしいのだ。
月村さんとダブルスを組んでいる総帥の娘さんは、本当に大丈夫なのかしら…と。
「…まあいいザマス。今は静観する事にするザマスよ。ただの偶然かもしれないザマスし、今の所は静香さんに対して、何らかの不幸が襲いかかっている訳でも無いザマスからね。」
「は、承知致しました。」
詩織が本当に疫病神だという科学的な証明が得られていない以上、憶測だけで静香から詩織を引き放す訳にはいかない。
そもそも静香は詩織と出会えたからこそ、こうしてダブルスの部門で全国大会に出場する事が出来ているのだから。
だが、それでも。
「ですが…もし静香さんの身に何かあろう物なら…その時は…!!」
そんな中で東京体育館で遂に始まった、全日本中学生バドミントン大会の全国大会。
今大会シングルスの部門で最も注目されていた、六花以来となる大会三連覇の記録が懸かっていた『神童』隼人だったのだが、1回戦において静岡県代表の沙織との両者互角の壮絶な死闘の末に、まさかの敗戦を喫してしまう。
隼人が早々に負けて、午後からのダブルスの部門が始まる前に愛知県に帰ってしまったせいで、静香はスケジュールの都合上またしても隼人の試合を生で観戦する事が出来なくなってしまい、心の底から残念に思っていたのだが。
それでも隼人は隼人。静香は静香だ。
今の静香は詩織と共にダブルスの試合に出場するために、今ここに来ているのだから。
六花以来となる全国大会三連覇。それを果たす為にも、静香は隼人の敗戦を気にしてなどいられない。
「ゲームセット!!ウォンバイ、愛知県代表・桜花中学校3年、朝比奈静香&3年、月村詩織ペア!!ツーゲーム!!21−5!!21−7!!」
「よぉしっ!!」
「やったね!!静香ちゃん!!」
準々決勝も圧倒的な強さで制し、笑顔でハイタッチを交わす静香と詩織。
こうして静香と詩織は全国大会でも圧倒的な強さを見せつけ、見事に準決勝まで勝ち進んだのである。
そう…。
圧倒的な強さを『見せつけてしまった』のだ…。
それが原因で静香と詩織が、大人たちの身勝手なエゴに巻き込まれてしまい、あのような理不尽な悲劇に見舞われる事になるなど…一体誰が想像しただろうか…。
『皆様、本日はご来場下さいまして、誠に有難うございます。本日午後1時より、全日本中学校バドミントン大会のダブルスの部の、準決勝と3位決定戦、決勝戦を行います。』
そして迎えた、全国大会最終日。
シングルスの部門は1回戦で隼人を負かすというジャイアントキリングを成し遂げた沙織が、父親がうつ病を発症した事を理由に、急遽静岡に戻り2回戦を棄権するという、誰もが予想もしなかった大波乱が起きてしまう。
その大混乱が収まらない最中、午後から始まったダブルスの部門でも…またしても誰もが予想もしなかった大波乱が起きてしまうのである…。
『準決勝第1試合は愛知県代表・桜花中学校3年、朝比奈静香&3年、月村詩織ペア VS 東京都代表・百合ヶ浜中学校3年、猫山博子&3年、立川若菜ペア。続く第2試合は…。』
東京体育館のウグイス嬢のアナウンスが響き渡る最中、柔軟体操を行っている静香と詩織に対し、客席から声援が届けられる。
静香と詩織の準決勝第1試合の相手は、六花の母校である東京屈指の強豪、百合ヶ浜中学校のネコとタチの百合カップルのペアだ。
地区予選も含めて準決勝まで全試合圧勝だった静香と詩織と違い、この2人は全国大会においては楽に勝てた試合など1つも無く、全試合がフルセットまで持ち込まれる程の接戦となってしまった。
だからこそ、この試合も静香と詩織のペアの圧勝で終わるだろうと…この時の誰もがそう思っていたのだが…。
(…ったくよぉ、校長も俺に対して無茶苦茶言いやがる。あんな化け物みたいな連中に一体どうやって勝てばいいんだよ?)
百合ヶ浜中学校バドミントン部監督のパンチ頭が、静香と詩織の柔軟体操を見つめながら、心の中で雇い主の校長に対して愚痴をこぼしていたのだった。
この試合、ネコとタチが静香と詩織に勝利して決勝進出を果たした場合、校長から20万円の特別ボーナスが支給される事になっている。
校長としても別に何らかの悪意があった訳では無く、ただ純粋にパンチ頭に対して奮起を促す事が目的だったのだが。
パンチ頭は、静香と詩織の1回戦の試合を一目見ただけで、瞬時に悟ってしまったのだ。
ネコとタチの実力では静香と詩織には、何をどうしようが絶対に勝てないと。
それでも20万円という多額の金額の特別ボーナスは、パンチ頭にとって決して軽視出来る代物ではない。
金は簡単に人を変えるザマス。
以前様子が静香に対して、忠告していた言葉だ。
これが5000円とか1万円とか、ちょっとした小遣い程度の金額だったのであれば、パンチ頭も警察に捕まるリスクを冒してまで、あのような愚行に走る事など無かっただろうに…。
(あ~、くそが。こいつら、試合前から完全にビビッちまってるじゃねえかよ。この間、藤崎六花も愛知県の県予選で解説してただろうが。あいつらが試合中に怪我をする可能性だって…。)
静香と詩織が、試合中に怪我をする可能性だってある。
その六花の言葉を、パンチ頭は今になって思い出してしまった。
そう…。
『思い出してしまった』のだ…。
その結果、静香と詩織を倒してネコとタチを決勝に進ませ、20万円の特別ボーナスを手に入れる為に…最悪の考えに至ってしまったのである…。
(…ククク…!!そうだ、その手があったじゃねえか!!こいつらが確実に朝比奈と月村に勝てるようにする方法がよぉ!!)
柔軟体操を終えた静香と詩織が、コート上でネコやタチと互いに軽くシャトルを打ち合い、試合開始まで残り20分を切った最中。
「静香ちゃん。私、ちょっとお手洗いに行ってくるね。」
「ええ、行ってらっしゃい。」
おしっこをしたくなった詩織が、大慌てで2階にあるトイレに向かっていった。
それを目撃したパンチ頭が、ニヤニヤしながら詩織の後を追いかける。
トイレの周囲は多くの人々でごった返しており、詩織もおしっこをする為に少しばかり待たされる羽目になってしまった。
六花の懸命な営業活動や普及活動の甲斐もあってか、バドミントンに興味を持ってくれている人々が少しずつ増えてきてはいるのだが、それでもバドミントンは日本においては野球やサッカーと違い、まだまだマイナーな競技だというのが現実だ。
それ故に残念ながら今日の東京体育館は満員御礼とはならず、この準決勝の大舞台においても空席が目立つ結果になってしまった。
今大会最も注目されていた隼人が、1回戦で早々に負けてしまった事も影響しているのだろうが、それでもトイレが混雑する程の多くの人々が、こうして観戦に駆けつけてくれているのだ。
それを思うと詩織は、何だか感慨めいた表情になってしまったのだった。
だが、おしっこを済ませた詩織が、静香の下に戻ろうと階段を降りようとした…次の瞬間。
帽子とサングラス、マスクで顔を隠したパンチ頭が、物凄い勢いで…何とあろう事か、詩織を両手で階段から突き飛ばしたのである。
「きゃあああああああああああああああああああっ!?」
いきなり背後から突き飛ばされて、バランスを崩して階段から転落した詩織。
詩織を突き飛ばしたパンチ頭はニヤニヤしながら、大慌ててその場から逃走。
とても痛そうな表情でうずくまる詩織の痛々しい姿に、周囲の観客たちが一斉に悲鳴を上げてしまう。
もうすぐ始まる準決勝…その興奮と期待に包まれていた東京体育館の雰囲気が、一転して悲劇と混乱に染まってしまったのだった。
「…う…ぐ…!!」
それでも何とか立ち上がり、懸命に静香の下へ向かおうとした詩織だったのだが。
「…っぁあっ!!」
直後に右足首に走る凄まじい激痛に、詩織は表情を歪めてしまう。
階段から転落した際に受け身を取り損ね、右足首を捻挫してしまったのだ。
それを瞬時に理解した詩織の表情が、これまでの感慨めいた物から一転して絶望に染まってしまったのだった。
後15分で自分と静香の準決勝が始まるという、よりにもよってこんなタイミングで…。
そう…。
ネコとタチが静香と詩織に勝てないのなら、勝てるようにしてしまえばいい。
その為に静香と詩織のどちらかを負傷させようと…パンチ頭はそんな愚かな考えに至ってしまったのである…。
「ちょ、ちょっと、君!!」
「…私は…行かなきゃ…!!静香ちゃんの所に…っ!!」
それでも観客の制止を振り切って、目から大粒の涙を浮かべながら、必死にコートに向かう詩織。
大会規定では例えどんな理由があろうとも、遅刻をした時点で即失格だと定められている。選手の交代も認められていない。
だからこそ詩織が。他でも無い詩織が。何としてでも静香の下に行かなければならないのだ。
「私は…!!私は静香ちゃんを照らす光になるんだ…っ!!」
静香は詩織に言っていた。本気でプロのバドミントンの選手を目指していると。
この準決勝で静香が活躍すれば、六花や美奈子のように欧米諸国のプロの関係者の目に留まり、いずれは静香を選手としてスカウトするチームが現れるかもしれない。
詩織は静香とダブルスを組んだ時から、心の中で思っていた。
自分は脇役でも構わない。月村という自分の苗字のように、静香を月のように照らす光になれれば、もうそれだけで充分だと。
だからこそ詩織は、こんな所でつまずいてなどいられない。
静香を照らす光になる為にも、静香をプロの選手にする為にも。
その想いを胸に秘め、捻挫してしまった右足を痛そうに引きずりながら、詩織は懸命にコートへと向かっていったのだった…。
詩織の右足首の捻挫を目の当たりにさせられた、静香の決断は…。




