第53話:いいも悪いも無いですよ
彩花と理奈が…。
その後、大急ぎで会場まで戻ってきた彩花と六花だったのだが、そこで待っていたのは沈痛な表情をした理奈と静香と…高台に上がった審判からの非情の通告だった。
「藤崎選手。10秒の遅刻だ。よって大会規定に則り、君は失格だ。」
その審判の言葉に、頭が真っ白になってしまう彩花。
あの時、女性警察官が彩花と六花に対して執拗に事情聴取を求めたりしなければ、ギリギリ間に合っていたというのに。
早く戻らないと失格になると六花に言われたのに。自分たちは加害者ではなく被害者だというのに。あの女性警察官がしつこく食い下がってきたせいで。
何ともやり切れない気持ちになってしまった彩花が歯軋りしながら、自分と六花の邪魔をした女性警察官に対して怒りを顕わにしたのだが。
「審判!!朝比奈さんからも伝え聞いていると思いますが、彩花は浅田高校の森久保監督に拉致されていたんです!!それで彩花が失格と言うのは不当ではないのですか!?」
それでも六花は彩花を庇うように前に出て、必死に審判に食い下がったのだった。
彩花にとっては一生の思い出に残る大切な大会だというのに、こんなふざけた形で失格されてしまったのでは、彩花の心の中に一生消えない深い傷が残るかもしれないからなのだが…理由はそれだけではない。
何よりも彩花が心から待ち望んでいる、県予選での隼人や静香との真剣勝負。
それが彩花の黒衣を浄化する鍵になるかもしれないと、六花は思っているからだ。
それなのに、まさかそれを、こんな形で台無しにされるなど…。
「先程、朝比奈選手にも告げたのですが、森久保監督が藤崎選手を拉致したという、確固たる物的証拠はあるのですか?藤崎コーチ。」
「そ、それは…!!」
「我々としても証拠が無い以上は、森久保監督が藤崎選手を拉致したと断定する訳にはいかないのですよ。」
だがそんな六花の訴えを、審判は真剣な表情で却下したのだった。
証拠が無い以上は、彩花が拉致されたと断定する訳にはいかない。
そんな審判の正論過ぎる言い分に対して何も言い返す事が出来ず、六花は悔しそうな表情で唇を噛む事しか出来なかった。
確かに今この場においては、オッサンが彩花を拉致したという確固たる物的証拠など何も無い。
恐らくは今日の夜にでもテレビのニュースで大々的に報じられる事になるとは思うが、それでも『現時点では』証拠と呼べる物など何も無いのだ。
バドミントンに限らず、どんな競技でもそうなのだが、審判というのはどんな状況においてもルールを遵守し、絶対的な中立、公平、公正の立場でいなければならない。
そして大会規定では試合開始時刻までに選手が試合会場に現れなければ、いかなる理由があろうとも失格だと定められている。
だからこそ審判は、彩花を拉致したのがオッサンだという確固たる物的証拠が何も無い以上は、絶対中立の立場として大会規定に則り、彩花を失格にしなければならないのだ。
何故ならここで特例を認めて彩花の試合出場を許してしまえば、例えば県予選で寝坊して遅刻をしてしまった選手が現れた場合、
「私はナンパされて逃げ出してきたので遅れてしまいました。」
「聖ルミナス女学園の藤崎が特例を認められたんだから、俺だって認めてくれるよな?」
「100連ガチャを回してたらSSRが出たんですよ!!」
などと、彩花の特例を理由に選手たちから難癖を付けられる事になりかねないのだから。
だからこそ審判というのは、いかなる事情があろうとも、いちいち特例を認めてしまう訳にはいかないのである。
それを分かっているからこそ、六花は審判に対して反論出来ず、言葉に詰まってしまったのである。
「よって大会規定に則り、試合開始時刻に間に合わなかった藤崎選手を失格、準優勝とし、Hブロック優勝者は種田選手とする。だが…。」
「…っ!!ふざけるなああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
だがそんな審判の事情など知った事では無いと言わんばかりに、審判の通告に怒りを顕わにした彩花が、審判を怒鳴り散らしながら黒衣を発動したのだった。
無理も無いだろう。彩花は加害者ではない。被害者なのだから。
それなのに理不尽に失格を言い渡されるなど、そんなの冗談ではない。
会場全体がどよめきに包まれる中、黒衣を纏った彩花が高台の上の審判に、怒りの形相で食って掛かった。
「私と種田先輩と!!どっちが本当に強いのか!!どっちが県予選に進むのに相応しいのか!!今ここにいる全員に徹底的に分からせてあげるよ!!」
仮に彩花が正々堂々と戦って理奈に負けて、地区予選敗退が決まったというのであれば、それは彩花の責任だ。
彩花もアスリートとして心から納得した上で、自分を負かした理奈を素直に称賛し、応援していただろう。
だが今回の件に関しては、彩花は対戦相手の監督に拉致された事が原因で、遅刻をする羽目になってしまったのだ。
それなのに先程から高台から彩花を見下ろしている審判が、さっきから何を言い出すのかと思えば、頭でっかちに大会規定だから失格にするなどと。
こんなの、本来なら理奈の方を失格にするべきではないのか。
「とっとと試合を始めろぉっ!!30分で終わらせてやるぅっ!!」
「彩花!!」
「ふ~~~~~~~~~~~~~っ!!ふ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!ふ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
うっかりした飼い主に尻尾を踏まれた猫みたいに、審判に対して怒りを顕わにする彩花を、慌てて六花が背後から優しく抱き締めて、なだめようとしたのだが。
「話は最後まで聞きなさい。君の気持ちは分かるが、どうか黒衣を解除して落ち着きたまえ。」
そんな彩花に対して呆れたように溜め息をつきながら、審判は意外な事を口にしたのである。
「先程、種田選手からの申し出があってね。もし藤崎選手が間に合わないようなら、県予選への出場を辞退すると言われたよ。」
「…え?」
六花に背後から抱き締められながら、呆気に取られた表情で黒衣を解除する彩花。
そんな彩花を、悲しみの表情で見つめている理奈と静香。
「よって優勝した種田選手の出場辞退に伴い、大会規定に則り準優勝の藤崎選手を名古屋地区代表とし、県予選に出場させる物とする。」
この審判の宣言によって、会場内のどよめきが一層激しくなってしまったのだった。
無理も無いだろう。彩花を失格にするとかいう話になっていたのに、今度は理奈が県予選への出場を辞退したから、代わりに彩花が出場するなどと審判が言い出したのだから。
その理奈は悲しみに満ちた表情で、彩花と六花の事を見つめていたのだった。
そんな理奈の姿に、六花は戸惑いを隠せない。
まさか理奈の方から自ら出場辞退を申し出て来るとは、流石の六花も思ってもみなかったのだから。
「種田さん。私がこんな事を言うのは何だけど、本当にいいの?しかも3年生の種田さんにとっては、高校生活最後の大切な大会だったのでしょう?」
「いいも悪いも無いですよ。藤崎コーチ。こんな形で県予選に出た所で、どうせ私は周囲から後ろ指を差される事になるじゃないですか。」
「…種田さん…。」
「それよりも、私の方こそ御免なさい!!森久保監督のせいで、娘さんがこんな事になってしまって…!!本当に、どうお詫びしたらいいのか…!!」
目から大粒の涙を流しながら、理奈は彩花と六花に対して深々と頭を下げたのだった。
そんな理奈の姿を、悲しみの表情で見つめる六花。
一体全体、どうしてこんな事になってしまったのか。
3年生の理奈にとっては、今大会が高校生活最後となる大切な大会だったはずなのに。
それなのに身勝手な大人たちの下らないエゴのせいで、こんな形で台無しにされてしまったのだ。
これから先、理奈の大切な決勝戦を台無しにしてしまった周囲の身勝手な大人たちは、理奈に対して一体どう責任を取るつもりなのだろうか。どんな形で謝罪と賠償をするつもりなのだろうか。
スポーツとは、一体何なのか。
部活動とは、一体何なのか。
大会に勝つというのは、一体どういう事なのか。
以前隼人が六花に語っていた事を、改めて思い出していた六花なのであった。
そしてその日の夜7時。愛知県警察本部において、先程の年配の警察官によるオッサンへの事情聴取が行われていた。
どっかりと椅子に腰を下ろした警察官が、沈痛な表情で俯いているオッサンを、神妙な表情で見据えている。
調書ではデンマークでプロのバドミントン選手としてプレーしていた経歴があると記載されているのだが…こんな真面目そうな人物がどうして彩花の拉致なんてやらかしたのか。
「それじゃあ取り敢えず、まずは動機を話して貰おうかね。」
「…校長から脅されていたんです…!!種田を県予選に出場させなければ私をクビにすると…!!だけど種田の実力では、藤崎にはどう足掻いても勝てない…だから私は…!!」
「成程なあ、それで藤崎さんを拉致して、時間切れによる失格を狙ったって訳か。」
呆れたような表情で、警察官が深く溜め息をついたのだった。
「けどなあ、それでお前さんの教え子が県予選に進出したとして、心の底から本当に喜んでくれるとでも本気で思っているのか?」
「そんな事は私だって分かっていますよ!!」
目から大粒の涙を流しながら、警察官に対して怒鳴り散らすオッサン。
「私は何としてでも種田を県予選に出場させて、クビを回避しなければならなかったのです!!お腹の中に私の子を宿した妻の為にも!!」
「だからと言って、藤崎さんを拉致した事が正当化される訳ねえだろ。」
「私だって本当は、こんな馬鹿な真似はしたくなかった…!!種田には藤崎と正面から全力でぶつかって欲しかった…!!」
オッサンの供述を聞いた警察官は、何ともやり切れない気持ちになってしまったのだった。
彩花を拉致したオッサンではあったが、そのオッサンもまた結局の所は、周囲の大人たちの身勝手なエゴや利権争いに巻き込まれてしまっただけの、ある意味では被害者だと言えなくもないのだ。
勝て。
勝たねばならぬ。
そうやって校長から厳しく圧力を掛けられ、さらに自らのクビさえもちらつかされた結果、立場的にも精神的にも限界まで追い詰められてしまったオッサンは、このような凶行に手を染める事になってしまった。
そこまでオッサンを追い詰めてしまったのは、他でもない。浅田高校の校長なのだ。
選手たちは皆、輝いていたいのに。
もう二度と訪れる事の無い、今この瞬間に。
それを大人たちの身勝手なエゴと利権争いのせいで、こんな…。
警察官はそんな事を考えながら、目から大粒の涙を流すオッサンを神妙な表情で見つめていたのだった。
そして彩花と六花もまた、翌日の朝に自宅のアパートで警察からの事情聴取を受け、
「拉致される時にお腹を一発殴られたけど、ただそれだけ。」
「エッチな事は何もされなかった。」
という彩花からの供述を得られた事で、オッサンは校長に脅されていただけだとして微罪処分となり、前歴はついたものの何とか無事に釈放された。
一方で浅田高校の校長は記者からの取材に対し、オッサンに対して解雇をちらつかせて脅した事に関しては、事実無根でオッサンの狂言だと当初は否定していた。
だが校長がオッサンを脅した際に、たまたま校長室の前を通りかかって校長の怒鳴り声を耳にしていた女子生徒が、咄嗟にスマホで会話を録音しており、それを女子生徒がSNSで拡散した事で大炎上。校長の供述が嘘だという事がネット上で全世界に暴露されてしまう。
これを受けて顔面蒼白となった校長は、記者たちに対して一転して事実を認め、
「どんな手段を使ってでも勝てとは言ったが、そういう気概をもって試合に臨めという意味で言ったのであって、何も対戦相手を拉致しろとまでは言っていない。」
「勝てなければクビにするとは言ったが、それは森久保監督に奮起を促す為に言った嘘であって、私は森久保監督をクビにするつもりなど最初から微塵も無かった。」
「私自身も、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった。」
などと苦し紛れの釈明を行うものの、当たり前の話だがそんな無茶苦茶な言い逃れが通じるはずもなく、逆に火に油を注ぐ結果となってしまう。
浅田高校には数多くの抗議の電話が殺到し、職員たちの日常業務にも支障が出る事態になってしまった。
この騒動を受けて校長は浅田高校を退職させられる羽目になり、さらに校長の住所やスマホの番号までもがネット上で拡散されてしまい、やがて数多くの嫌がらせ行為を受けた事で精神的にショックを受けた校長は、うつ病を発症。
同情の余地など微塵も無い自業自得の末路とはいえ、毎日のように妻に寄り添われながら、精神病院で治療を受ける日々を送る羽目になってしまうのである。
その一方で釈放されたオッサンは校長から脅されていただけとして、暫定的に校長を兼任する事となった教頭から、バドミントン部の監督への復帰を懇願された。
オッサンは自分が犯した過ちを理由に一度は固辞するものの、それでも諦めなかった教頭から熱心に諭され、教頭に対して目から大粒の涙を流しながら、バドミントン部の監督に復帰。
やがて数多くの名選手を生み出した名監督として、日本のバドミントンの歴史に名を刻む事となるのである。
こうして名古屋地区の地区予選大会は、とんでもないトラブルがあったものの、それでもどうにか県予選に進出するシングルス8名、ダブルス4組が決定。
聖ルミナス女学園は彩花と静香、愛美を含めたシングルス4名、ダブルス2組全員が県予選に出場するという、前評判通りの圧倒的な強さを見せつけた。
東三河地区、西三河地区の地区予選大会も無事に全試合が終了し、7月から開催される県予選に出場する、シングルス32名とダブルス16組が遂に出揃った。
そして県予選の準決勝第1試合において、隼人と楓が。
さらに準決勝第2試合において、彩花と静香が。
バンテリンドームナゴヤという誰もが憧れる最高の舞台の中で、壮絶な死闘を繰り広げる事になるのである…。
ちなみに種田理奈の名前の由来は、声優の種田梨沙です。




