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バドミントン ~2人の神童~  作者: ルーファス
第4章:地区予選大会編
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第52話:私にも大人の事情という物があるのだよ

 果たして六花は無事に彩花を助け出せるのか…?

 浅田高校バドミントン部の監督のオッサンは、現役時代は大学を卒業後にデンマークのプロリーグで戦った経験がある、元プロの選手だった。

 残念ながらプロの舞台では六花や美奈子と違い目立った活躍は出来ず、27歳の頃に僅か5年足らずで戦力外通告を受けて引退してしまったのだが。

 それでも選手としては大成しなかったものの、指導者としては非常に有能な人物であり、引退後にデンマークで経営を始めたバドミントンスクールにおいて多くの優秀な生徒たちを育て上げ、その優れた手腕をデンマーク国内において高く評価される事となる。


 後に日本で暮らしていた両親の他界をきっかけに、デンマークで10年間経営してきたバドミントンスクールを、周囲から惜しまれつつも閉鎖したオッサンは、生まれ故郷である愛知県名古屋市へと15年ぶりに帰郷。

 そのデンマークでの実績を高く評価され、浅田高校バドミントン部の監督として雇用される事となり、ここでもその優れた手腕を存分に見せつけ、多くの生徒たちを立派に育て上げてみせた。


 だがオッサンが浅田高校バドミントン部の監督に就任してから、3年後。

 定年退職した先代の校長の後を継いだ浅田高校の新校長が、前校長と違い勝利至上主義に走るあまり、オッサンに対してとんでもなく無茶な要求をしでかしたのである。


 今大会、我が校の生徒を、最低1人は必ず県予選へと導けと。

 『王者』聖ルミナス女学園を、これ以上のさばらせるのは絶対に許さないと。

 

 そのあまりにも無茶な要求にオッサンは、新校長に対して困惑の表情で反論するものの、それでも新校長は反論を一切許さなかった。

 そしてオッサンが3年間もの間に一度も県予選への出場を果たしていない事を理由に、今年の大会で県予選に進めないようならオッサンを解任すると通告したのである。


 勝負の世界に『絶対』は無いというのに。

 だからこそ美奈子や六花も、隼人や彩花に対してさえも『必ず全国に連れて行くからね』とまでは言わなかったというのに。

 それに試合に1つ『勝つ』というのが、果たしてどれだけ大変な事なのか。

 それを全く理解しようともせず、新校長は県予選出場という『結果』を、オッサンに対して情け容赦なく厳命したのである。


 日本に戻ってきてから結婚して、妻のお腹の中に子供を宿している、しかも既に40歳になってしまっており、六花や美奈子と違いバドミントン以外に何の取り柄も無いオッサンにとって、今この時期に職を失うというのは最早死刑宣告にも等しい代物だった。

 それ故に新校長からの無茶な要求を、不本意ながらも呑まざるを得なくなってしまったのである。


 だが大会前に聖ルミナス女学園バドミントン部の練習の視察に訪れたオッサンは、その豊富な経験を持つ名将であるが故に思い知らされてしまう。

 浅田高校の部員たちでは聖ルミナス女学園には、何をどう足掻こうが絶対に勝てないと。

 しかも高校生の中に、プロの選手が2人(彩花と静香)混ざっていると。

 さらに運が悪い事に大会前の組み合わせ抽選会において、シングルス4名、ダブルス2組の全員が、地区予選大会で聖ルミナス女学園の生徒とぶつかる羽目になってしまっていた。

 だからこそオッサンは校長に対して、悲壮な表情で懇願したのである。


 聖ルミナス女学園は圧倒的な…いいや、絶望的なまでの強さだと。

 控え選手でさえも他の高校でなら余裕でレギュラーになれる程の層の厚さであり、特に彩花と静香に至っては、最早高校生どころか大学生のレベルさえも遥かに超えてしまっていると。それどころか下手なプロが相手なら勝ててしまう程だと。

 だからこそ浅田高校の県予選への進出は最早絶望的であり、もう大会に勝つ事よりも、大会を通じて生徒たちをバドミントンプレイヤーとして、人間として、立派に成長させる事を最優先すべきだと。


 だがそんなオッサンに対して新校長は、情け容赦なく通告したのである。


 「勝て。どんな手段を使ってでもだ。」

 「勝てないようなら、君はクビだ。」

 

 こうして不退転の覚悟で地区予選大会に臨む羽目になったオッサンだったのだが、やはりオッサンが危惧していた通り、浅田高校の選手たちは聖ルミナス女学園の選手たちの圧倒的な強さの前に蹂躙され、次々と惨敗を喫してしまう。

 ただ1人クジ運に恵まれて決勝戦まで辛うじて生き残った理奈も、決勝戦で戦う彩花にとっては雑魚も雑魚。最早勝負にすらならないのは明白だった。

 だがここで理奈を彩花に勝たせなければ…オッサンは職を失う羽目になってしまう。

 お腹の中に子を宿した妻の為にも、今ここで自分が無職になってしまうというのは、絶対に許されない事だった。


 かくして立場的にも精神的にも限界まで追い詰められてしまったオッサンは…嘘の場内放送を使っておびき寄せた彩花を拉致して車内に閉じ込めるという、最悪の行動を起こしてしまったのである…。


 「後15分…!!それまで藤崎をこのまま閉じ込めておけば、種田は県予選に進む事が出来る…!!そうすれば私は…!!」


 サングラスとマスクと帽子で顔を隠し、近くの公園の駐車場に車を停めたオッサンは、運転席の中で悲壮な表情で左腕の腕時計の時刻を見つめていた。

 大会規定では試合開始時刻までに選手が指定のコートに待機していなければ、その時点で選手は失格処分となる。

 そうなれば理奈が繰り上げでHブロック優勝となり、県予選進出を果たす事が出来る。

 それさえ達成出来れば彩花を丁重に解放し、六花の下に返すつもりだったのだが。

 そんなオッサンの思惑を嘲笑うかのように、六花が運転する車が物凄い勢いで、オッサンの車の退路を塞ぐかのように自らの車を駐車したのだった。

 勢いよくドアを開け放った六花の姿に、驚きを隠せないオッサン。


 「ふ、藤崎コーチ!?馬鹿な!?何故私の位置をこんな短時間に正確に特定出来たのだぁっ!?」


 六花が彩花とオッサンの現在位置を即座に特定出来たのは、もしもの時に備えて六花が彩花に対して、小型のGPSを常に服に仕込んでおくように命じていたからだ。

 その事実をオッサンが知るよしも無いまま、無理矢理運転席のドアを開け放った六花が、オッサンの胸倉を物凄い形相で掴んで怒鳴りつけた。


 「彩花をどこにやったの!?答えなさい!!」

 「わ、分かった!!ふ、藤崎なら車のバックドアの中だぁっ!!」


 いきなりの六花の怒鳴り声に、周囲の公園の利用者たちが一斉に六花に注目する。

 六花は車のキーをエンジン起動部から無理矢理抜き取り、その車のキーを使って大慌てでバックドアを開放。

 果たしてバッグドアの中にいたのは、両手両足と口元を布で縛り付けられ、目から大粒の涙を流している彩花の無様な姿。

 慌てて彩花を優しくお姫様抱っこしてバッグドアから下ろした六花が、拘束をほどいて彩花を無事に解放したのだった。

 

 「うわあああああああああああああ!!お母さあああああああああああああああああん!!うわああああああああああああああああああああああああ!!」

 「もう大丈夫よ!!大丈夫だからね!?彩花!!」

 「うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 号泣しながら自分に抱き着いてきた彩花を、ぎゅっと抱き締める六花。

 怖かっただろう。辛かっただろう。寂しかっただろう。

 まるですがるように六花の身体をぎゅっと抱き締める彩花の身体が、ブルブルと恐怖で震えてしまっているのを六花は感じていた。

 無理も無いだろう。1カ月ほど前に学園長に拉致された時と同じように、またしても車のバッグドアの中に理不尽に閉じ込められてしまったのだ。

 下手をすればPTSDを発症してしまってもおかしくない程までに、彩花にとっては相当なトラウマだったはずだ。


 「森久保監督!!貴方は何故、こんな馬鹿げた真似をしでかしたんですかぁっ!?」


 そんな彩花を抱き締めながら、六花が怒りの形相でオッサンを怒鳴り散らした。

 六花はJABSの仕事で浅田高校のバドミントン部の練習の視察に訪れた際に、オッサンとは少しだけ話をした事があったのだが。

 その時のオッサンは監督らしく誠実な態度で六花に接しており、こんな犯罪行為をしでかすような愚かな人物には、六花にはとても見えなかったのに。

 それが何故…こんな事をしでかしてしまったのか。


 「私とて出来れば、こんな馬鹿な真似はしたくは無かったのだ!!だが私にも大人の事情という物があるのだよ!!私は何としてでも種田を県予選に進ませなければならなかったのだぁっ!!」


 そんな六花に対してオッサンが、悲壮な表情で胸の内を明かす。

 このオッサンの一言で、聡明な六花は一瞬で理解したのだった。

 彩花を拉致したのは彩花を失格にする事が目的であり、理奈を不戦勝で県予選に進出させる為だと言う事を。

 そしてオッサンが、そうしなければならない程の、何らかの苦境に置かれてしまっているのだという事を。


 「…出来れば、今この場で貴方を殴って蹴って、袋叩きにしてあげたい所ですが…。」


 だが理解はしても、到底納得出来る話では無い。

 彩花の母親として、コーチ兼任マネージャーとして、六花は彩花を拉致したオッサンを絶対に許すつもりは無かった。

 本来なら六花が自分で言っていたように、オッサンを殴って蹴って袋叩きにしてやりたい所なのだが…それをやってしまうと逆に六花が暴行の現行犯で警察に逮捕されてしまい、彩花と離れ離れになってしまう。

 だからこそ六花はオッサンへの怒りと憎しみを必死に抑えながら、冷酷な瞳でオッサンに告げたのだった。


 「だけど、貴方を裁くのは私じゃない。警察の仕事ですよ。」


 そこへ六花からの通報を受けてサイレンを鳴らしながら駆けつけてきたのは、1台のパトカー。

 駆けつけた警察官が、腰を抜かしてしまっているオッサンを迅速に拘束し、両手首に手錠を掛ける。


 「15時38分、未成年拉致未遂の現行犯で逮捕!!」

 「ううっ…くそっ…!!」


 突然パトカーが現れた事に驚いた周囲の野次馬たちが、一斉にスマホのカメラを六花たちに向けたのだった。

 憔悴しょうすいし切った表情で、警察官にパトカーの後部座席へと連行されていくオッサン。

 そんなオッサンを侮蔑ぶべつの表情で見つめながら、泣きじゃくる彩花をぎゅっと抱き締めている六花だったのだが。


 そこへ六花のスマホから鳴り響いた、軽快な着信音。

 発信元は、先程スマホの番号を交換したばかりの静香からだった。


 「もしもし、朝比奈さん?」

 『藤崎コーチ!!彩花ちゃんは!?』

 「大丈夫よ。たった今、助け出した所だから。森久保監督も警察に逮捕されたわ。」

 『良かった!!なら大至急、彩花ちゃんを連れて戻ってきて下さい!!』


 だが次の瞬間、静香は六花に対して、とんでもない事を大慌てで伝えたのである。


 『審判と大会運営スタッフに事情を説明したのですが、いかなる理由があろうと例外は一切認めないと、彩花ちゃんが試合開始時刻までに戻らなければ、規定通り失格にするの一点張りなんです!!』

 「なっ…!?」

 『だから藤崎コーチ、一刻も早く戻ってきて下さい!!』


 いかなる理由があろうとも、例外は一切認めない。

 確かに大会規定にはそう定められてはいるのだが、まさか今回のように選手が拉致被害に遭ってもなお、厳密にルールを適用して柔軟な対応をしてくれないというのか。

 しかも彩花を拉致した犯人というのが、他でも無い対戦相手の監督だというのに。

 それでもなお、時間に間に合わなければ失格にするとでも言うのか。

 

 歯軋りする六花だったが、今それをあーだこーだと文句を言っても仕方が無い。

 とにかく今すぐに戻らなければ、彩花は失格になってしまうからだ。

 六花が右腕の腕時計を確認した所、今戻れば何とかギリギリ間に合うかどうかといった所だったのだが…。


 「分かったわ。ありがとね朝比奈さん。今回の礼は後で必ずさせてもらうから。」


 静香との通話を切った六花が、自分をぎゅっと抱き締める彩花を、とても心配そうな表情で見つめる。

 パッと見た感じでは、特に大きな怪我はしていないようだ。

 オッサンは彩花を失格にする事が目的で拉致したのであって、それ以上の事をするつもりは微塵も無かったからだ。


 「彩花、どこか痛い所は無い?森久保監督に何か変な事をされなかった?」

 「あの人にお腹を一発殴られて、今もちょっとだけ吐き気がするけど…それ以外の事は何もされてないよ?エッチな事とかも何も…。」

 「なら試合には何とか出れそうね。だけど無理をさせる訳にはいかないか…!!取り敢えずファーストゲームで様子を見てからの判断になるけど…!!」


 本来であれば、今すぐに彩花を病院に連れて行ってやりたい所なのだが。

 それさえも許されない今の現状に、六花は歯痒さを感じていたのだった。


 「とにかく、今すぐに戻りましょう。でないと決勝戦を失格になってしまうわ。」

 「う、うん!!」


 しかも不安要素は、腹パンによる吐き気だけではない。

 オッサンのせいで彩花は、準備運動も柔軟体操もする暇も無いまま、ぶっつけ本番で理奈との試合に臨む羽目になってしまったのだ。

 こうなると試合中の怪我や肉離れの発症も心配なのだが…今はそんな悠長な事を言っていられる場合ではない。

 そもそもの話、試合時間に間に合わなければ失格になってしまうのだから。

 そんな事を考えながら、車の運転席のドアを開けようとした六花だったのだが。


 「お待ち下さい、藤崎六花さん!!今回の事件についての事情聴取をさせて頂いたいのですが…!!」


 そこへ空気を読めない若手の女性警察官が立ちはだかり、慌てて六花の行く手を遮ったのだった。

 たった今、早く戻らないと失格になってしまうと、彩花に告げたばかりではないか。

 彼女は今の自分の言葉を聞いていなかったのかと、今の状況を理解していないのかと、六花が怒りの形相で女性警察官を怒鳴り散らしたのだが。


 「今はそれどころじゃ無いんですよ!!早く名古屋市東スポーツセンターに戻らないと、彩花が地区予選を失格になってしまうんです!!」

 「お時間は取らせませんから!!まずは藤崎彩花さんが拉致された状況について…!!」

 「だからぁっ!!今はそれどころじゃ無いと言っているじゃないですかぁっ!!事情聴取なら後で幾らでも受けますからぁっ!!」


 苛立ちを隠せないまま、六花は女性警察官を物凄い剣幕で怒鳴り散らし、JABS名古屋支部の名刺を渡したのだった。

 それは女性警察官に対し、自分は逃げも隠れもしないという意思表示の表れだ。

 こんな事をしていられる場合じゃ無いのに。もう1分1秒を争う状況だというのに。

 これで彩花が失格になってしまったら、彼女は彩花に対して一体どう責任を取るつもりなのか。


 彩花にとっては、一生の思い出に残る大切な大会だというのに。

 既に県予選への進出を決めた隼人や静香と、公式の舞台で戦いたがっているというのに。

 しかも彩花も六花も加害者ではない。被害者なのだ。こんな所で警察に拘束される筋合いなど微塵も無いだろうに。 

 

 「もういい!!藤崎六花さん!!早く娘さんと一緒に試合会場に戻って下さい!!」


 それでも尚もメモ帳を片手に、自分の行く手を遮るのを止めようとしない女性警察官の右腕を無理矢理引っ張り、六花の前から無理矢理どかした年配の警察官が、大慌てで六花に呼びかけたのだった。 


 「しかし巡査部長!!まだ彼女への事情聴取が…!!」

 「構わん!!全ての責任は俺が取る!!さあ藤崎六花さん、早く行って下さい!!」


 年配の警察官に促された六花が真剣な表情で大きく頷き、彩花を車に乗せて大慌てで会場へと走り去って行く。

 その車の後ろ姿を、年配の警察官が神妙な表情で見送っていたのだが。


 「巡査部長、何故ですか!?規則では被害者への事情聴取は、その場で即座に迅速に行わなければならないと…!!」

 「あのな沢口。お前は馬鹿か?」


 尚も真剣な表情で自分に食い下がる女性警察官に対し、年配の警察官が呆れた表情で溜め息をついたのだった。


 「藤崎六花さんが言っていただろう?早く戻らないと藤崎彩花さんが失格になると。」

 「ですが…!!」

 「本当にお前は頭が固い奴だな。お前みたいなのがいるから、俺たち警察はお役所仕事だとか税金泥棒とか、市民の皆さんから色々と文句を言われるんだよ。」


 彩花にとっては一生の思い出に残る大切な大会であり、それをこんな形で失格にされてしまったのでは、彩花の心に一生消えない深い傷が刻まれる事になりかねないのだ。

 それを規則だ規則だとかで大義名分を振りかざし、自分たち警察の身勝手な都合で台無しにする訳にはいかないだろうに。

 六花が言うように事情聴取なら、後で聖ルミナス女学園や自宅のアパートで幾らでもすれば済むだけの話ではないか。


 「ですが巡査部長!!規則は規則です!!いちいち例外を認めてしまっては…!!」


 それを掻い摘んで説明しても尚、女性警察官は真剣な表情で年配の警察官に食い下がったのだが。


 「ああもう分かった分かった。責任は全部俺が取るっつってんだろうが。署長に始末書を書けって言われたら、俺がお前の代わりに全部書いといてやるからよ。」


 それを年配の警察官はウザそうな表情で、女性警察官に向けて右手をシッシッとしたのだった。

 

 「そう言えば、あいつが去年、命を救った女子中学生…確か朝比奈静香って言ったかな?あの子も確かバドミントンをやってたよな。」

 「はあ?何を訳の分からない事を言ってるんですか。巡査部長。」

 「何でもねえよ。独り言だ。」


 年配の警察官は感慨めいた表情で、今は亡き部下への想いをせながら、澄み切った青空を高々と見上げていた。

 

 「…これで良かったんだろ?なあ、太一郎…。」


 六花が彩花を乗せて大慌てで会場まで車を走らせる最中、未だに彩花が戻らない事で、会場の観客たちは一体何があったのかと、一斉にざわつき始めたのだった。

 そんな中で静香がスマホの時刻表示を睨めっこしながら、焦りの表情を隠せずにいる。

 試合開始時刻まで、後3分。それまでに戻らなければ、彩花は…。


 「審判!!もうすぐ藤崎コーチが彩花ちゃんを連れて戻ってきます!!どうかそれまでお待ち頂く事は出来ないのですか!?」

 「朝比奈選手。先程から何度も言っているように、いかなる理由があろうとも例外は一切認めない。後3分で戻らなければ大会規定に則り、藤崎選手を失格とする。」

 「そもそも彩花ちゃんを拉致したのは、対戦相手の種田さんの監督なんですよ!?それで彩花ちゃんが間に合わなければ失格というのは、どう考えてもおかしくないですか!?」

 「では森久保監督が藤崎選手を拉致したという、確固たる物的証拠は?」

 「そ、それは…!!」


 高台の上に座っている審判の言葉に、静香は言葉に詰まってしまう。

 確かに審判の言う通り、オッサンが彩花を拉致したという証拠は何も無い。

 先程、六花が電話でオッサンが警察に逮捕されたと言っていたので、恐らくは今日の夜にでも、彩花の拉致事件がニュース番組で大々的に報じられる事になるだろうが。

 それでも『現時点では』審判の言うように、確固たる物的証拠など何も無いのだ。

 オッサンが姿を現していないのは事実だが、それが彩花を拉致した犯人だという決定的な証拠には成り得ないのだから。


 「…確かに…証拠はありませんけど…!!」

 「ならば時間までに戻らなければ藤崎選手を失格とする。証拠が無い以上は森久保監督が藤崎選手を拉致した犯人だと、今ここで断定する訳にはいかないからね。」

 「そんなの悪魔の証明じゃないですかぁっ!!」


 その静香の焦りの表情を見せつけられた理奈は、悲しみに満ちた表情で歯軋りしたのだった。

 先程からオッサンが姿を現していないのは事実だし、静香は真面目な子だ。

 オッサンが彩花を拉致したという静香の主張は、証拠を用意するまでもなく、きっと真実なのだろう。

 自分の監督の馬鹿げた行動のせいで、彩花にも六花にも静香にも…いいや、審判や大会運営スタッフにも、貴重な時間を潰し入場料を払ってまで試合を観に来てくれている大勢の観客の皆さんにまで、こうして多大な迷惑を掛けてしまっている。


 勿論理奈自身には、全く何の落ち度も無い。

 それでも理奈はオッサンが大会を台無しにしてしまった事で、申し訳ない気持ちで一杯になってしまっていた。

 こんな事は、理奈だって望んでいなかったというのに。

 彩花とは公式の舞台で、正々堂々と戦いたかったのに。

 あの『神童』の異名を持つ彩花を相手に、あの黒衣の暴虐的な力を前に、全力でぶつかってみたかったのに。


 今も諦めずに審判に食い下がってくれている静香を右手で制した理奈が、決意に満ちた表情で審判に進言したのだった。


 「審判。ちょっといいですか?今回の件で話があるんですけど…。」

 現実にオッサンみたいな人っていそうだよね…。

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