第32話:こんなの私は望んでないよ
彩花が…。
『ねえ彩花。もう1カ月近くもの間、ずっと家に帰って来てないけど、本当に大丈夫なの?もうすぐ5月になるわよ?』
『土日には家に帰るって約束だったわよね?』
『ゴールデンウィークには帰って来れるんでしょ?』
『私もゴールデンウィークの期間中は仕事が休みになったから。たまにはバドミントンを忘れて、2人でどこかにのんびり旅行にでも行こうよ。』
『大会に備えて練習したいっていうのは分かるけど、英気を養うのも大切よ?』
『彩花、京都の金閣寺を見てみたいって言ってたわよね?』
『土曜日に車で聖ルミナスまで迎えに来ようか?』
『ねえ、彩花。』
『お願い、返事して。』
『既読ついてるわよ?』
『あ~や~か~?』
彩花のスマホに何度も何度も な ん ど で も 送り付けられてくる、六花からのLINEのメッセージ。
『ごめんねお母さん。今の私ね、武藤コーチからの素晴らしい指導の下で、物凄く充実してるの。だからしばらく家に帰れそうにないの。』
その六花からの心配の声に対して、彩花のスマホから返信のメッセージが送られる。
ただしそのメッセージを六花に送っているのは、彩花ではなく…。
「…ちっ、お前の母ちゃん、マジでうぜえわ。毎日毎日こんなにしつこくLINEを送ってきやがってよぉ。ストーカーかよ。毎回毎回返信する俺の身にもなれってんだよ。」
何故か彩花のスマホを手にした、彩花専属のコーチ…武藤直樹だったのだが。
去年の大学選手権の愛知県予選で見事準優勝に輝き、その実績をJABS名古屋支部の支部長に買われ、大学卒業後に正式に彩花専属のコーチとして、支部長からの紹介を受けた学園長に雇われたのだ。
だがその実態は「指導」とはかけ離れた、あまりにも凄惨な「虐待」だった…。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…!!」
普段バドミントン部が練習している体育館とは別館の室内において、全身汗だくになって激しく息を切らしながら、必死にラケットを素振りする彩花。
一体どれだけの長い時間、彩花は素振りを繰り返してきたのだろうか。
もう既にラケットを持つ右手の握力が無くなってきており、右肩も右肘も激しい疲労と筋肉痛によって悲鳴を上げてしまっている。
いや、右腕だけではない。これまでの過酷な練習の影響で、彩花の身体全体が激しい筋肉痛と疲労に襲われてしまっているのだ。
明らかな過度のオーバーワーク…だが直樹はそんな事は知った事では無いと言わんばかりに、彩花に対して高圧的な態度で接してきたのだった。
「オラオラオラァっ!!何チンタラやってんだ藤崎ぃっ!!いつまでもサボってねえで、とっとと素振りを続けろやぁっ!!」
「で、でもコーチ、私、もう右手に全然力が入らなくて…!!」
「甘えた事言ってんじゃねえぞコラァっ!!」
右手の竹刀をバァン!!と床に叩きつけ、彩花を激しく怒鳴り散らす直樹。
そんな直樹に対して、彩花が怯えたような表情を見せる。
直樹に命じられるまま、疲れ切った身体に鞭を打ち、必死に素振りを続ける彩花。
もう何百回…いいや、何千回にもなるだろうか。
どれだけの数を素振りしたのか、最早彩花は全く覚えていなかった。
キーンコーンカーンコーン。
その直後に聖ルミナス女学園全土に鳴り響いた、昼休みになった事を示すチャイムの軽快な音色。
「はあっ…はあっ…はあっ…!!」
「よ~~~~~し、1時間の休憩だ!!とっとと部屋に戻って飯を食えやオラぁっ!!」
それだけ告げた直樹が懐からパック入りの固形食糧を取り出し、無造作に彩花に投げつけたのだった。
完全栄養食…1日に必要な栄養素を、全てこれだけで補えるという物なのだが。
果たしてこれが本当の意味での「食事」だと、胸を張って言えるのだろうか。
最早完全に身も心もズタボロになってしまった彩花が、直樹に連行されて寮の自分の部屋へと連れ戻されていく。
そして彩花が部屋に入ったのを確認した直樹が、外から扉に鍵を掛けたのだった。
彩花が聖ルミナス女学園に入学してから、既に1ヵ月の時が経過していた。
六花が彩花に自慢気に語っていた、バドミントンの強豪・聖ルミナス女学園。
全国各地から有力選手をスカウトしているだけあって選手のレベルが非常に高く、練習設備も充実しているのだと。
だからこそ当初は彩花も、どんな学校生活が待ち受けているのだろうと、どれだけ高いレベルの環境下で練習が出来るのかと、希望を胸に抱いた上で校門をくぐったのだが。
(お母さん。私は確かにバドミントンが好きだよ。だけど…。)
だがそこで待ち受けていた現実は、彩花が想像していた物とはまるで違っていたのだ。
入学式どころか授業にも全く出させて貰えず、友達を作る事も、バドミントン部の皆との練習さえも許されず、毎日毎日、1日たりとも休日を与えられずに、直樹とのマンツーマンでの過酷な練習…いいや、虐待を強要させられる日々。
朝から晩まで四六時中バドミントン漬けで、自由時間など全く与えられず、食事と風呂と寝る時以外は全てバドミントン。
しかも寮の部屋は彩花が在室中は外側から鍵が掛けられ、窓にも鉄格子が取り付けられており、外出どころか部屋から出る事すら自由に出来ないという有様だ。
元々は何度も問題行動を起こす生徒に反省を促す為の、営倉室として使われている部屋だったのだが、それを直樹は彩花の個室として利用しているのである。
おまけに毎日の食事は全て完全栄養食と水道水のみで、まともな食事をする事すら許されていない。
挙句の果てにスマホも財布も直樹に取り上げられ、六花や隼人と連絡を取る事すら許されない。それどころか六花や隼人から毎日送られるLINEに対しても、直樹が彩花のスマホで勝手に返信する始末だ。
これが、こんな物が、六花が彩花に言っていた「最高の環境」だと言うのか。
だとしたら、一体こんな物のどこが「最高の環境」だと言うのか。
(こんなの私は望んでないよ!!これがお母さんの望みだったって言うの!?)
ベッドの上に腰掛け、直樹に与えられた昼食の完全栄養食を必死にバリボリと口にしながら、心の中で六花に対しての恨み節を述べる彩花。
六花は彩花に言っていた。JABS名古屋支部の仕事で、聖ルミナス女学園まで「視察に行った」と。
視察に行ったという事は、聖ルミナス女学園がこのような地獄のような環境だという事が、六花には最初から分かっていたとでも言うのか。
その上で六花は彩花に対して、聖ルミナス女学園への入学を、あそこまで大粒の涙を流してまで懇願したとでもいうのか。
もう六花が何を考えているのか、何をもって彩花を聖ルミナス女学園に入学させたのか、彩花には全然分からなくなっていた。
支部長が玲也のクビをちらつかせて六花を脅していた事、そして直樹がこんなにも非道なコーチだったという事を六花も全く知らされていなかったという真実を、彩花が知る由も無く…。
(ねえ、お母さん。どうして私を聖ルミナス女学園になんか行かせたの!?私をこんな目に遭わせてまで、私の事を強くしたかったの!?)
彩花の胸の奥から湧き上がる、全身の血液が沸騰するかのような、どす黒い不快な衝動。
学園長や直樹にだけではない。彩花は六花に対してさえも、怒りと憎しみの感情を抱いてしまっていたのである。
だがこればかりは、流石に彩花を責める訳にはいかないだろう。
何故なら直樹にここまで身も心も限界まで追い込まれてズタボロになって、極限状態に追い込まれてしまったのだから。
結果的にその『元凶』となってしまった六花を彩花が憎んでしまうのを、どうして責める事など出来ようか。
本当は六花は、こんな事を望んでなんかいないというのに。
支部長に脅されていたとはいえ、この聖ルミナス女学園で沢山学んで、立派に成長して欲しいと…そう心の底から願っていたというのに。その想いから彩花を聖ルミナス女学園に送り出したというのに。
そんな六花の親心など知る由も無いまま、彩花は悲惨なすれ違いによって六花の事を憎んでしまっているのだ。
周囲の大人たちの…支部長や学園長、直樹による身勝手なエゴのせいで。
「もうやだよ…!!こんなのやだよ…!!」
一瞬、彩花の身体から、漆黒の闘気のような物が湧き出たような…。
「お母さんの、馬鹿あああああああああああああっ!!」
彩花が六花に対して怒りと憎しみの感情をぶつけながら、鉄格子をキャリーバッグで思い切りぶん殴った、その時だ。
彩花にぶん殴られた鉄格子が何故か思い切り窓から外れて、物凄い勢いで吹っ飛ばされてしまったのだった。
ガシャーンと派手な音を立てて吹っ飛ばされた鉄格子が、力無く地面に横たわる。
「うええええええええええええええええええ(汗)!?」
予想外の事態に、唖然とした表情になってしまう彩花。
経年劣化で鉄格子の強度が落ちていたのだろうか。だがそれにしたって彩花にキャリーバッグでぶん殴られた程度で、果たして鉄格子というのはこんなにも簡単に取れてしまう物なのだろうか。
よく分からないが、それでも彩花は瞬時に悟った。
この聖ルミナス女学園から脱走して、家に帰る事が出来る最大の好機が、ようやく訪れたのだと。
だがスマホを直樹に取り上げられてしまったので、今の彩花には六花や隼人への連絡手段が全く無い。
さらに財布も直樹に取り上げられてしまって無一文なので、名鉄に乗って自宅の最寄り駅となる勝幡駅に向かう事すら出来ない。
この状況では、もう彩花も腹を括るしか無かった。
そう…彩花は聖ルミナス女学園から自宅までの…名古屋市から稲沢市までの約20kmもの道のりを、「徒歩で」帰る事を決断したのである。
「お、お母さん…お母さぁん!!」
荷物を一切持たずにジャージ姿で、何故か突然解放された窓から外へと脱出し、大慌てで校門へと走っていく彩花。
だがこの時の彩花は、心も身体も限界まで直樹に追い詰められてしまっていたせいで、冷静な判断力を完全に失ってしまっていた。
何も無理をしてまで徒歩で自宅まで帰ろうとしなくても、まずは警察に駆け込んで事情を詳しく説明してさえいれば、警官からの連絡を受けた六花に迎えに来て貰えていたというのに。
だが逆に言うと今の彩花は小学生でも出来るような、その程度の判断さえも出来なくなってしまっている程、肉体的にも精神的にも直樹によって追い込まれてしまっていると言えるのだ。
お母さんに会いたい。お母さんに助けて欲しい。お母さんにぎゅっと抱き締めて欲しい。
早く家に帰りたい。お母さんの自慢の手料理を、お腹一杯たらふく食べたい。
ただその想いだけが、今の彩花を突き動かしていた。
何とか校門に辿り着いた彩花は、決意に満ちた表情で徒歩で自宅へと向かう。
そしてこの「徒歩で自宅まで帰る」という彩花の誤った判断が、自身と六花にとって最悪の事態を招いてしまう事になるのである…。
先日述べた通り、FF14のパッチ7.0のアーリーアクセスが開始された事に伴い、しばらくの間更新作業を中断させて頂きます。
出来るだけ早く再開したいとは思っていますが、仕事が忙しくなってきた事もあり、いつ頃再開出来るかは未定です。
申し訳ありませんがご理解くださいますよう、よろしくお願い致します。




