第27話:先輩は、昔の僕と同じなんですよ
美奈子が竜一に対して、おしおきの時間だ。
美奈子を相手に、自身のクビを賭けた試合をする事になった際…この時の竜一は楽勝だと高を括っていた。
スイスのプロでプレーしていた実績があるとか言っていたが、所詮は勝率5割しか勝てなかった雑魚なのだと。
しかも既に40歳になっており、引退してから5年も経っているBBAなのだと。
だからこそ竜一は、目の前の美奈子をコテンパンに叩きのめして、俺様という存在を思い知らせてやろうかと…そんな事を考えていたと言うのに。
俺様はシングルス部門レギュラー・佐久間様なんだぞと…そう美奈子を上から目線で見下すつもりだったのに。
それなのに…一体全体、何がどうしてこうなった。
「11-0!!」
美奈子の精密無比の精度で放たれたロブが、情け容赦なく竜一のコートのラインギリギリに突き刺さったのだった。
そして高台に上がった楓からの無情なコールが、体育館に響き渡る。
既に全身汗だらけで激しく息を切らし、その場で膝をついて崩れ落ちている竜一には、最早シャトルを追いかける気力すら残されていないようだった。
これが公式戦なら、まだファーストゲームの半分しか終わっていない状況だというのに、竜一はまるでフルセットを戦い終えた直後であるかのように、既に疲労困憊状態になってしまっているのだ。
そんな竜一とは対称的に全く汗1つかかず、涼しい表情で息1つ乱していない美奈子。
圧倒的だった。美奈子の強さは、あまりにも圧倒的過ぎた。
部員たちの誰もが、あまりの美奈子の強さに驚きを隠せずにいた。
ただ1人、こうなる事が最初から分かっていたかのように、冷静さを失わずに腕組みをしている隼人を除いて。
「これで11-0だけど…インターバル、いる?」
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…!!な、何でだよ…!?何で…っ!!」
驚愕の表情で、目の前の美奈子の強さに唖然とさせられている竜一。
そんな竜一の無様な姿を、美奈子は冷酷な瞳で見下していたのだった。
美奈子は楓のクレセントドライブのような派手な必殺技は持ち合わせていないが、それでも長年のバドミントン人生の中で培われた「経験」から繰り出される「技術」は、まさに「熟練」の域に達している。
そしてそれ故に、美奈子の動きには全くもって「無駄」が無かった。
「俺は…っ!!こんなにバテてるのに…っ!!何で…っ!!てめえは…っ!!そんなに平気そうな…顔を…っ!!」
目の前の美奈子の威風堂々とした姿が、信じられないといった表情の竜一。
無駄が無いからこそ、こうして自身のスタミナの消耗を最小限に抑え込む事が出来ているのだし、無駄が無いからこそ、こうして必要最小限のプレーだけで竜一を限界まで追い込む事が出来ているのだ。
その美奈子のプレーは、まさしく「芸術」の域にまで達してしまっている。
まるで美奈子の掌の上で操られ、踊らされているかのような感覚を、竜一は感じ取ってしまっていたのだった。
「マジかよ…!!須藤監督、あんなに強かったのかよ!?」
竜一を完全に圧倒する美奈子の姿に、驚きを隠せない駆。
確かに美奈子は、プロの舞台では目立った成績を残せなかった。
17年間ものプロ生活の中で残した実績は、勝率5割を少し上回る程度。およそ1000もの敗戦を喫してきた。
だが逆に言うと美奈子は、弱肉強食の過酷なプロの世界に「17年間も」身を置き続け、およそ「1000もの勝ち星を積み重ねて来た」とも言えるのだ。
プロの世界で1勝すら出来ず、1年持たずにクビになる選手も大勢いる中で、それがどれ程の「偉業」なのか…最早説明するまでも無い事だ。
多少腕に覚えがあるとはいえ、己の力を過信して天狗になっている「愚物」如きでは、勝負にすらならなくて当然だろう。
ましてその力を、自分より弱い者をいじめて愉悦に浸る為に使おうなどと。
「私はね。監督に就任するまでは専業主婦だったんだけど、今も毎日チョコチャップに通って身体を鍛えてるのよ?地元のクラブチームにも週に一度は足を運んで、練習や試合もさせて貰っているわ。たまに六花ちゃんとも公園で打っているのよ?」
「な、何だと!?」
「だって、そうでもしないと隼人君の練習相手なんて、到底勤まらないでしょ?」
威風堂々と竜一を見据えながら、竜一とは対照的に息1つ乱さず、静かに語る美奈子。
そう、美奈子が息1つ乱していないのは、単に無駄な動きの無いプレーをしているからというだけではない。
隼人の練習相手を務める為に、引退した今もジムに通って身体を鍛え、同好会レベルのアマチュアの試合ではあるが実戦も積み重ねているからなのだ。
それに対して竜一は「クソつまんねえ」という理由から、これまで基礎練習で基礎体力を鍛える事を怠っていた。
前任の顧問の先生も、威圧的な態度を取る竜一に対して怯えてしまい、厳しく指導する事が出来なかったのだ。
竜一が激しく息を切らしているのは、美奈子が竜一を巧みに走らせてスタミナを削っていたというのも勿論理由の1つだが、これまで竜一が基礎練習を真面目にこなさなかった結果、訪れた末路…いいや「自業自得」なのだ。
「ふ、ふざけやがって!!この俺が!!てめえみてえなBBAに負けるはずが…っ!!」
だが竜一が勢いよく立ち上がった、次の瞬間。
竜一の右足から、ブツンという不快な音が聞こえ…。
「ぐあああああああああああ!!お、俺の右足がああああああああああああっ!!」
突然竜一は右足のふくらはぎを両手で押さえながら、あまりの激痛に表情を歪め、床に寝転がって激しく悶絶したのだった。
いきなりの竜一の無様な姿に、驚きを隠せない部員たちだったのだが。
「…肉離れね。」
美奈子は竜一の症状を一目見ただけで、それを的確に見抜いてみせたのである。
「佐久間君。貴方は他の皆と違って、準備運動や柔軟体操を真面目にやっていなかったでしょう?その結果がその有様なのよ。」
「があああああああああああああ!!い、痛ええええええええええええええ!!」
バドミントンに限らず、どんな競技でもそうなのだが、練習前に準備運動や柔軟体操を行うというのは、怪我の防止の為に絶対に必要不可欠だ。
そして美奈子は隼人たちに対して、準備運動や柔軟体操をやりなさいと頭ごなしに命じたのではなく、その理由や必要性もしっかりと隼人たちに分かりやすく説明していたのだ。
でないと今の竜一のような、無様な醜態を晒す羽目になってしまうのだから。
肉離れとは身体を急激に動かす事によって、筋肉が損傷、断裂してしまう症状で、発症してしまうと激痛によって、しばらくはまともに患部を動かせなくなってしまう。
当然、こうなってしまえば絶対安静が必要となり、とてもじゃないが練習や試合どころではなくなってしまう。
だがこれは普段から練習前に準備運動や柔軟体操を入念に行ってさえいれば、確実に防ぐ事の出来る代物でもあるのだ。
竜一は今までそれを怠ってきたからこそ、急に立ち上がろうとした際に右足の肉離れを発症してしまったのである。
「さ、佐久間竜一、試合続行不可能につき、ゲームセット!!ウォンバイ、須藤美奈子!!ワンゲーム!!11-0!!」
楓のコールと共に体育館に歓声と、どよめきの声が響き渡る。
あまりの美奈子の強さに、部員たちの誰もが美奈子を羨望の眼差しで見つめていたのだが。
「さてと。佐久間君。当初の約束通り、貴方は今日限りでクビよ。」
「ふ、ふざけるな…っ!!お、俺はまだ…っ!!」
「誰か、佐久間君を保健室に運んで貰えないかしら?」
肉離れを発症して苦しんでいる竜一に対して、手を差し伸べようとする部員たちは、今この場には誰1人として存在しなかった。
当然だろう。これまで竜一は皆に対して、それだけの事をしてきたのだから。
まさに因果応報。悪い行いをすれば、そのしっぺ返しが必ず返ってくるのだ。
「母さん。僕が運ぶよ。」
ただ1人、溜め息をつきながら竜一に寄り添った隼人を除いて。
隼人自身も竜一がこうなってしまったのは、準備体操や柔軟体操をサボったツケが回って当然の事だと思っているのだが、だからといって今この場で竜一の事を放置しておく訳にもいかない。
別に竜一の事を心配しているという訳では無く、こんな所で竜一に寝転がれると、皆が練習を続けるのに邪魔だからだ。
「なら頼めるかしら、隼人君。貴方の貴重な練習時間を潰しちゃって御免なさいね。」
「別に構わないさ。だって休みの日はいつも僕の練習に付き合ってくれてるだろ?」
穏やかな笑顔で美奈子に告げた隼人は、駆の手を借りて竜一をおんぶして立ち上がる。
「それじゃ、行きますか。どっこらせっと。」
右足の激痛に表情を歪めながら、隼人におんぶされて保健室へと連行されていく竜一。
竜一は今も、自分が置かれている現状を受け入れられずにいるようだった。
あのクソBBAを徹底的に叩きのめして、この俺様という存在を思い知らせてやろうと思っていたのに。
あんなプロの世界で勝率5割しか勝てなかった雑魚など、40過ぎたBBAなど、俺様の敵では無いと…そう思っていたのに。そう信じていたのに。
それなのに…一体全体、何がどうしてこうなったんだ…と。
「で、佐久間先輩。自分が痛めつけられた側に回った気分はどうですか?」
「ううっ…くそっ…!!何で俺様がこんな…っ!!」
「ねえ、どんな気持ち?今どんな気持ち?」
背中越しに竜一の泣き言を聞きながら、隼人は今も鮮明に覚えている、「あの日」の事を思い出していた。
そう…隼人が竜一と同じように、自身の強さに天狗になっていた結果…無様なしっぺ返しを食らってしまった、あの日の事を。
「先輩は、昔の僕と同じなんですよ。」
「な、何ぃっ…!?」
「僕もスイスにいた頃、今の先輩みたいに酷くは無かったですけど、それでも自分の力に溺れて天狗になっていた時期があったんですよ。」
隼人は竜一に、全てを語ったのだった。
隼人が彩花と一緒にスイスで暮らしていた9歳の頃…彩花と共に通っていたバドミントンスクールにおいて、周囲から彩花と共に「天才」だと騒がれ、天狗になってしまっていた事を。
その結果、愚かな慢心を招いてしまい、隣町のバドミントンスクールとの練習試合において、格下の選手に無様な惨敗を喫してしまった事を。
その試合をきっかけに自分の愚かさを思い知らされた隼人は、今後は何があろうと、誰が相手だろうと、絶対に油断も慢心もしないと…そう六花と美奈子に心から誓った事を。
「あの日の事は、僕は一生忘れる事は無いでしょうね。僕が試合に負けただけならまだしも、わざわざ忙しいシーズンの合間を縫って応援に来てくれた、母さんや六花さんにまで恥をかかせてしまったんですから。」
自分の口から竜一に自らの愚かな過去を語った事で、改めて隼人は当時の自分の愚かさを思い知らされていたのだった。
そして隼人は改めて思い知る。一歩間違えば隼人もまた、今頃は竜一と同じようになっていたのかもしれないと。
「母さんも六花さんも僕を責めなかったどころか、優しく励ましてくれたんですけど…とにかくあの日から僕は誓ったんですよ。今後は何があろうと絶対に天狗にならないってね。バドミントンに対して真摯に向き合うんだってね。」
あの日、自分を優しく抱き締めてくれた六花の身体の温もりは、今でも隼人は鮮明に思い出す事が出来る。
隼人はあの試合をきっかけに、己の愚かさを自戒し、こうして変わる事が出来たのだ。
周囲から『神童』と呼ばれ、誰からも慕われる一流のバドミントンプレイヤーへと。
「くそが…くそが…くそが…!!あのBBAさえ来なければ…この俺様の天下だったのによぉ…!!」
「まだそんな事を言ってるんですか。僕の話ちゃんと聞いてました?」
だが竜一は、変わる事が出来なかった。
いいや、隼人と美奈子に無様に負けてもなお、変わろうともしなかった。
稲北高校バドミントン部という「ウンコより存在価値の無い」弱小校において、なまじ半端な強さでレギュラーになってしまったせいで、己の愚かさを自覚する事も出来ないまま天狗になってしまった結果、こんな事になってしまったのだ。
そんな竜一をおんぶしながら、隼人は呆れた表情で溜め息をついたのだった。
もうこの人には、何を言っても無駄だろうな…と。
「控えめに言って、クズですね。」
「うるせえ…うるせえ…うるせえ…っ!!」
そうこうしている内に隼人は、いつの間にか保健室に辿り着いていた。
「先生、いますか?部活で怪我人が出たんですけど、今両手が塞がってるんで扉を開けて貰ってもいいですかね?」
「は~い、ちょっと待っててね~。」
ガラガラと勢いよく開け放たれた扉の向こう側にいたのは、保健室の先生を務める年配の女性だった。
隼人におんぶされている竜一の姿に、とても心配そうな表情を見せていたのだが。
「あらあらまあまあ、一体どうしたの?」
「佐久間先輩が練習中に右足を肉離れしちゃったみたいなんで、取り敢えず応急処置だけして貰ってもいいですか?」
「まあ、肉離れって…!!貴方ちゃんと準備運動や柔軟体操を真面目にやったの!?」
美奈子と全く同じ叱責を、保健室の先生は竜一に対して行ったのだった。
保健室の先生の手を借りて竜一をベッドに座らせた隼人は、体育館に戻っていく。
取り敢えず竜一を保健室まで運んだから、後は竜一次第だ。
それ以上の事は、もう隼人の知った事では無い。
何故なら竜一は美奈子によってクビを宣告され、もうバドミントン部の部員では無いのだから。
「じゃあ僕は練習に戻りますんで。後の事はお願いします。」
「ええ、わざわざご苦労様。」
隼人が去った後、慣れた手つきで竜一の右足にテーピングを巻き、患部を固定した保健の先生。
患部の状態を見た限りでは、幸いな事に症状はそこまで重くはないようだ。若くて健康な竜一なら、しっかり治療すれば2週間程度で後遺症も残さずに完治する事だろう。
「はい、取り敢えずこれで応急処置は終わったわよ。今から親御さんに電話して迎えに来て貰うから、後は近くの接骨院でしっかりと診て貰いなさい。」
「ううっ…くそが…!!」
「当分の間は絶対安静にする事。お医者様から許可が出るまでは、激しい運動は一切禁止よ?分かった?」
「畜生…!!畜生おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
こうして竜一は稲北高校バドミントン部を退部処分となり、もう二度とバドミントン部に顔を出す事は無かった。
そして竜一がいなくなった事で、稲北高校バドミントン部には平和が訪れたのである。
隼人が目指していた、学年も実力も関係なく、誰もが伸び伸びとバドミントンに取り組める環境へと。
さらに美奈子という最強の指導者を得た事によって、これまで「ウンコより存在価値が無い」とされていた稲北高校バドミントン部は、めきめきと頭角を現していく事になる。
そして今まで碌な指導者に恵まれなかった楓が、美奈子からの指導を受けた事によって水を得た魚の如く躍動し、インターハイ県予選の準決勝第1試合において隼人と死闘を繰り広げる事になるのは、また先の話である…。
次回は聖ルミナス女学園が舞台です。